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(57)あきれたぼういず再結成!/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
戦後東京でもいち早く活気を取り戻していた浅草。あきれたぼういずの面々も復帰しつつあった。一方、川田は持病のカリエス再発で療養を余儀なくされた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【ラジオの人気調査・川田の療養】

年が明け、1946(昭和21)年1月。
山茶花や坊屋は、舞台だけでなくラジオ放送にも出演している。

NHKでは「お好み演芸放送」に対する投書で統計を取り、放送してほしいジャンル、芸人の人気調査をしている。
一番多いのは浪曲の需要で、演劇系ではロッパ、エノケンが根強いとのことだが、「病気中の川田義雄が次点にあるのはその人気の動かし難いのを物語っている」とあり、続いて長谷川一夫、水谷八重子、清水金一、森川信という順序になっている。
長期休養で表舞台に出ない時期が続いてもなお、人気スター達を抑えて名前が挙がっているのは、他の芸人では代え難い魅力が川田にあったということだろう。

また、川田が舞台に立たない間にも、戦前の映画が再上映されるなどしており、変わらずその明るさで戦後復興期の人々の心を支えてくれていたのだった。

3月には病気も少しずつ快方に向かったということで早速東京に戻り、ラジオで歌謡漫談「街は春風」を放送。
4月9日には日比谷公会堂で開催された「吉本春の芸能祭」で新作発表を行うなど、短期公演から舞台復帰していく。

去年の十月東宝劇場の東宝芸能大会に出演以来又身体が悪くなって千葉に引篭った川田義雄、このごろだいぶ快くなってきたのでじッとしていられず、ビッコをひいて帰京
早速廿九日夜の放送に続いて四月九日正午から日比谷公会堂で新作発表会と張切ったが、雪ヶ谷の借家がいつのまにか人手に渡り、早くも乗込んできた買主から連日猛烈な追い立てを喰う騒ぎで大腐り

「ゴシップ集」/東京新聞・1946年4月1日

こうしてラジオ放送や1、2日の特別公演で少しずつ復帰していた川田は、7月11日から日劇の「銀座千一夜」に出演。
久々の本格公演だ。

東京新聞1946年7月7日

ところが、この公演中に再び病状が悪化。
病を押して夏には神戸の八千代座でも公演を行なっているが、その後はまた療養の日々となってしまう。

何度も療養と復帰を繰り返してきた川田ではあったが、
今回は脊椎カリエスに加え腎臓結核を患っており、もはや再起不能といわれるほど絶望的な状態に陥っていた。

【益田喜頓の復帰】

1月24日に公開された短編喜劇映画「ニコニコ大会・追ひつ追はれつ」が、坊屋と山茶花が出演した戦後最初の映画である。

主演は森川信で、山茶花究が森川演じるスリを追いかける老刑事の役。
舞台でも戦時中から共演していた二人の追いかけっこが観られる。
また、坊屋も一場面のみのゲスト出演。
歌いながら「英会話」の本を売る露天商の役でヴォードビリアンぶりを見せている。

この頃の坊屋は、あちこちの劇場で灰田勝彦の出演する歌謡ショーの司会を受け持っている。
4月1日から新宿第一劇場で行われた小夜福子・灰田勝彦の初顔合わせ公演「スプリングハズカム」における司会ぶりは、「坊屋三郎の司会者は最近益々垢抜けがして明るい」と評されている。(東京新聞・4月13日)

一方、日劇の第2回公演「春の入場」にも、第1回に引き続き出演。
ショウの中の「ブン大将」では隣国の王子の役をやったという。

このときはスゴイ入りだったなァ。それほどみんなが娯楽に飢えていたということです。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

山茶花はいつの間にか一座を解散させフリーになっており、再び森川信などと組んで軽演劇に出演しているようだ。

そして、5月9日から公演予定の日劇公演「笑ふ東京」の広告には、坊屋三郎と並んで「益田喜頓」の名前が載っている。
益田も函館から上京してきて、いよいよ舞台に復帰することになったようだ。
「笑ふ東京」は喜劇映画の神様・斎藤寅次郎演出によるものだが、この時はどういう事情からか、公演延期となってしまっている。

5月23日からは益田が新潟で山本紫朗に誘われたという日劇公演、ミュージックショウ「メトロポリス」が開催されている。
これが本当の東京での舞台復帰となったようだ。

「笑ふ東京」広告/東京新聞1946年5月5日
「メトロポリス」広告/東京新聞1946年5月20日

【あきれたぼういず再結成】

益田も復帰してきたことで、東京に坊屋、山茶花、益田の三人が揃った。

三人はさっそく、大衆の声に応えて「あきれたぼういず」を再結成することに。
6月6日には浅草常盤座で「あきれたぼういずショウ」の幕を開けた。

あきれたぼういず再結成広告。似顔絵のタッチは山茶花が描く自画像によく似ている/東京新聞1946年6月6日

新聞広告には「何年振り!!ズラリと揃ったこの顔振れ」と見出しが出ている。
あきれたぼういず復活を喜ぶファンの声が聞こえてきそうだ。

この三人の顔が揃うのは益田が抜けた1941年から5年振り、「あきれたぼういず」が公演を行うのは解散した1943年から3年振りとなる。
「終戦」を挟んでいるせいか、非常に長い長い3年間のように感じる。

第1回公演は「あきれたぼういずショウ・あきれた世の中」。
日中開戦と同時に誕生し、太平洋戦争、終戦、そして占領下のいま。
激動の時代を駆け抜けてきた彼らあきれたぼういずに、この時代の世の中はどう映っていたのだろう。

【芝利英追悼公演】

5月23日の東京新聞には「芸能人更に続々と帰る」という記事も出ているが、この頃になると戦地から引き揚げてきた芸人達が舞台や映画に復帰してきていた。

あきれたぼういずの三人も、きっと芝利英が帰還し、四人が揃う時を待ちわびていただろう。
しかし、彼らの元に届いたのは芝利英戦死の報だった。
あきれたぼういず再結成翌月のことだ。

 大東亜戦争は終わったが、前線に行った親友、芝利英は、帰ってきませんでした。北支で戦死したんです。私の実弟も、戦死しました。

益田喜頓『益田喜頓のすべて』

あきれたぼういずが公演中である浅草常盤座で、芝の追悼公演が行われた。

 芝利英の追悼公演

 芝利英(石川正)坊屋三郎の実弟であきれたぼういずの一員だったが、華中で戦死した旨このほど京都の留守宅に公報があったので、目下浅草常盤座に出演中のあきれたぼういずの坊屋、益田喜頓、山茶花究等三名の主催で九日午後三時半から同劇場で追悼公演を開催、純益を遺族におくる、出演者は
 古川緑波、川田義雄、清水金一、森川信、高屋朗、木戸新太郎、木下華声、新青年座、あきれたぼういず

東京新聞・1946年7月9日

浅草スター達が勢揃いして参加している。
そして何より、ちょうど休養から一時復帰していた川田も出演しているのが嬉しい。

芝利英の追悼公演という悲しい理由ではあるが、
1939(昭和14)年の引抜き騒動で分裂して以来別れ別れになっていた川田と坊屋・益田、そして山茶花までもが同じステージで共演する夢のような公演が、
あきれたぼういず誕生の地である浅草で実現したことは感慨深い。

 芝利英は昭和十七年応召、中支に三年間従軍していましたが、先月十三日京都の実家に正式に戦死の公報が届き、私は廿三日に京都からの便りで彼の死を知りました。
…(中略)…
 今度我々は大船で新しい映画をとることになって、九月の撮影に帰還が間に合えば利英も一緒にと、益田君や山茶花君と話し合っていたのですが、案に相違して悲報に接したわけです。

坊屋三郎「弟芝利英を語る」/『演芸新聞』1946年7月下旬号

家族や同志を亡くしながら、笑顔で舞台に立ち、明るい笑いを人々に振り撒き続けた芸人たちが、この時代どれほどいたことだろう。

音楽男や長井隆也を補充していた第2次あきれたぼういず(新興快速舞隊)と違い、このときはメンバーを補充せず、以降三人組として活動していくことになる。
この戦後再結成した三人組のあきれたぼういずは、戦前・戦中期と区別するため「第3次あきれたぼういず」とも呼ばれる。


【参考文献】
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『喜劇王・益田喜頓のすべて』益田喜頓/日本ウインザー/1968
 ※LPより筆者文字起こし
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
「キートンひきがたり」益田喜頓/『月刊面白半分』1973年4〜8月号/面白半分
東京新聞/東京新聞社
演芸新聞/演芸新聞社


▶(次回3/10)頭山、音、長井の消息

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