(55)戦地の芝利英/あきれたぼういず活動記
(前回までのあらすじ)
北海道に帰った益田、そして東京大空襲後の焼け野原で芸人を続けていた川田や坊屋。8月15日、戦争が終わった。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
芝利英は1942(昭和17)年11月の応召後、嵐第二一三部隊・歩兵第109連隊通信隊に配属され、中国戦線へ赴いている。
「あきれたぼういず活動記」戦後篇に入る前に、
今回は戦地での彼の様子について、断片的ではあるがいくつかの資料があるのでそれを見ていきたい。
【サックスを売りに】
染織家の吉本嘉門は、漢口で芝利英と会っている。
連れ立っていたのは同じ部隊にいた芸人達だろうか。
CD「楽しき南洋」のリーフレットに、アルトサックスを持った芝の写真が掲載されている。
このとき売ったサックスも自身のものだったのかもしれない。
【通信隊の仲間】
『嵐六二一三部隊写真集』の中では、芝と同じ通信隊だった人物が芝利英について綴ってくれている。
芝が軍事郵便ハガキに書いてくれたという、似顔絵とサインも載っている。
▶︎国会図書館デジタルコレクション(送信サービスで閲覧可能)で見る
この言葉と似顔絵を見ているだけでも、戦地での明るい芝の様子が浮かんでくる。
坊屋も芝の人柄を「芸人仲間でも、友達の間でも、非常に愛されていたようです」(『弟芝利英を語る』/演芸新聞・1946年7月21日)と語っていたが、部隊の中でもやはり愛される存在だったようだ。
【嵐演芸慰問隊】
慰問のことについては、別な資料も残っている。
芝の所属した部隊の「陣中日誌」がアジア歴史資料センターのウェブサイトで公開されており、これを見てみると、1944(昭和19)年11月のページに、このような記録がある。
11月30日、部隊の仲間達と慰問演芸会を催したという記録である。
通信中隊の平岡氏が綴っていた慰問隊の思い出も、このときのことなのだろうか。
「汗と笑いのペーソスの中で、ギターを抱えてみんなの志気を鼓舞して」いたのだろう。
この時期の部隊の写真は残されておらず、その光景は想像するしかないが、あきれたぼういずのレコード『四人の突撃兵』が思い出される。
【芷江作戦】
1945(昭和20)年4月、芝の所属する嵐二一三部隊は「芷江(シコウ)作戦」に参加した。
芷江作戦は、支那派遣軍最後の進攻作戦となった作戦で、芷江にある敵側の飛行場を制圧し、そこから中華民国の首都である重慶を叩くことで米軍への牽制の効果も狙ったものだった。
作戦開始直前、4月1日に米軍が沖縄に上陸して戦局は益々不利になっており、大本営では戦力の再配置を考えていたが、支那派遣軍総司令官・岡村によって結局当初の計画通り作戦が実施されることとなった。
芷江作戦に参加したのは様々な部隊が寄り集まった混成部隊だった。
4月15日、芷江作戦が開始され、部隊は宝慶を出発し芷江へ向かう。
その道程には、標高1500m級の山々が連なる雪峰山系が立ちはだかっていた。
芝達第109連隊は、作戦開始日に先立ち13日に宝慶を発っている。
日本軍・中国軍は雪峰山中でたびたび激しい戦いを繰り広げ、始めは日本側が有利に思えたが徐々に苦戦。
中国軍側には米軍のバックがついており、日本軍側が考えていたよりはるかに強力な戦力を補給し続けていたのだ。
5月1日からの激しい攻勢を受けた部隊の上層部は、撤退すべきであるとの考えを進言、やがて反転(撤退)の命令が下された。
109連隊に反転命令が届いたのは、5月6日だった。
敵の包囲下に残された道は、絹渓〜望郷山〜山門の一本道しかなかった。
敵の猛攻撃を受けながら、負傷者を連れての撤退は困難を極めた。
この撤退中に命を落とした数多の兵士たちの中に、芝利英もいた。
5月13日または14日、望郷山で亡くなったとされている。
(望郷山というのは当時日本人側でつけていた名称のようで、地図など調べても出てこないが、雪峰山系東側、現在の湖南省武岡市にあった山のようだ。)
芷江作戦から生還した人物が、のちにこの撤退を回想している。
これが、生前の芝利英について残る最後の記録だろう。
【参考文献】
『嵐六二一三部隊写真集』嵐六二一三部隊写真集編纂委員会 編/国書刊行会/1979
「私のスタア:岡田時彦」吉本嘉門/『思想の科学』1989年7月号/思想の科学社
「芷江作戦」瀧俊正/『歴史と旅』1992年9月号/秋田書店
【参考ウェブサイト】
国立公文書館アジア歴史資料センター: https://www.jacar.go.jp/
芷江作戦 - Wikipedia: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B7%E6%B1%9F%E4%BD%9C%E6%88%A6
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