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『相対的浮世絵』
[Oct. 25 初日]
切ないなー。
切ない温かいしんどい。
良い本だなー。
泣き笑いだなー。
[Nov. 4]
今日は前方席から。
まるで自分もあのあずまやの片隅に座ってみんなの会話の輪の中に居るような気がしたよ。
うわっ💦冒頭智朗が登場してすぐのとこで遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてたんだ…智朗ハッとして怯えたような苦々しいようなツライ顔してたな…20年間ずっとこの音を聞く度にそんな気持ちになってたんだな…
遠山が制服で登場してすぐのシーン、明るく喋っていたけど、智朗が立ち去って野村と2人になった時「…いやあ、難しいわ。あいつら命日すら忘れとるでねえ。」という台詞にギクリ。そして野村に「恨んだらいかんぞ。」と言われ「知っとるよ、そんなことは。」と答えた時かな、座って俯き気味に横へ背けた顔が、グッと感情を噛み殺している表情だったのが見えてヒャッとなってしまった。
遠山は、関が逃げたとか逃げなかったとかそのこと自体じゃなくて、それを関が気にしている、言い訳することに対して「傷つく」と言っていた。痛いな…
「セッコ博士よ!」ってあんな親しげで素敵な空気がある筈のあの2人の間なのに。ね。
野村が「青春だなー」って羨ましがるのも何か刺さる。見聞を広めたって何のためか分からないし、前向きになる意味もないし、楽しいのは「想い出話」だけ。
生きてることと、もう死んでいるということは、本当に決定的に違う。
生きてることはとても大変なことだけど、まぁその前提からしか私たちは物事を考えることはできないし、(智朗か関の台詞にもあったと思うけど)死者の気持ちとか死者が何を欲しているかとかは正直分からない…って言うか、たぶん私たちのそれと一致しないのだと思う。
正直、死んだ人のことを想うよりも自分が生きていくことの方がよっぽど重要な問題。
「お前らの都合では生きれんわ。」「お前らが現れて迷惑」「…仕方ないで。わちは生きとるんだわ。わちも智朗も生きとるんだわ。分かる?生き残ったんだわ、お前らと違って。」という関の台詞は本当に正直な言葉。
男子高校生たちの他愛ない日常の空気ってまさに "生きてる" ど真中だよね。ラスト退場の仕方を問題にするところまで、一見そういう男子高校生の空気のようなんだけど…
何かやっぱりどうしても無視できない違和感がずっとそこに在った。
だって2人は死者だし、2人はクズのおっさん(それもまた "生きてる" ど真中なんだけど)なんだよ…。あゝもうこの4人が同じ地平で会話することは不可能なのだ…唯一お互い本心で語れるとしたらそれはあの火事のことなのか…という遣る瀬無さ。
遠山の、ゴメンと叫んで逃げた智朗に対する「不思議だけど、何にも思わんかったで。あ、逃げたなあと思っただけだわ」とか、炎の中で必死に「涼しい涼しい」とあの遊びを続けていたという回想は本当に苦しい。それを聴いている智朗の苦しい表情…
クズのおっさん同士は、なんやかんや多くのものを共有してこれからも生きていくんだな。ラストシーンの伊礼さん石田さんの(素のような)親しげな空気がとても素敵だった。
そうそう、舞台美術が能舞台を模していることについて。
「橋掛かり」はあの世とこの世を結ぶ道なのだと。
『蜷の綿』もこの発想を取り入れた演出だったもんね。
あゝ…でもな…
「生者と死者は決定的に違う」とも言えるけど、「両者は(パッと見)あまり違わない」という描き方をしているようにも思える。それもまた、そうなのかもしれないなぁ。
あーでもやっぱり…「あまり違わないように見えるけど実は決定的に違うよ」ということなのかなぁ。
あ、思い出した。
物をどうやって手に入れるの?買うの?ってとこにすごく引っ掛かっちゃう智朗の様子めちゃめちゃ可笑しい。
ラスト関と智朗の「畜生、あいつら…死んだら正しいんか?」「今度出て来たら…こっちの言い分をぶちまけたらないかんなあ。」という台詞も何気に刺さっている。
私は生きているから、生きてる立場の言い分なのかもしれないけど、やっぱこの世は生きてる人間のものなのよね。死んだら正しい感じになりがちなのってなんか違うと思うし、死んだ人がジッと見守ってるとか思うの割と嫌。
『相対的浮世絵』というタイトル…
「相対的な現世」(土田さん)
「置かれた場所が変わると、世界がどう変わって見えるか」(青木さん)
"死者から見たら現世ってこんなだよ" というのを描いてるってことか…
「青春」なんだよね。生きてる、先がある、っていうのはそれだけでもう最高なことで。
でもそれを押し付けがましく感じないのは、
そんなのお前たち死者の言い分だよ、こっちは大変なんだから…っていう智朗たちを描いてくれてるからだよね。
死者への想いは、あるよ。
でも生きてる人間は、そこで立ち止まってはいられない。先へ歩いていかなければならない。
結局、生きてる人間のための戯曲・劇だからなのかな…この作品のラストはとても清々しい。