第3回THE NEW COOL NOTER賞始まる世界部門~10/18講評
第3回THE NEW COOL NOTER賞「始まる世界」部門へご参加いただいている皆様。
11月部門、ただいま募集しております。
自己紹介や、自己PR、よいと思うものの宣伝などが対象です。どうぞ、ふるってご応募ください!
本日は3つの応募記事へ審査委員それぞれからの講評を掲載させていただきます。ぜひ、楽しんでいってください。
(今日はみこちゃんではなくみこザウルスの登場です!)
(本日の講評者)
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<講評(みこザウルス)>
あぷりこっとさんの「立ち直るのは自分の力」は全篇がひとつの詩のようだ。
詩という表現形式は、論文のように何かを定義してそれを膨らませて論理的に相手を納得させるという方法はとらない。論理的に表現されていない代わりに、もっとダイレクトに人の心に届く、思わずハッとするような言葉が詩の持ち味だと思う。
でも、もしそれだけならば、詩人とは言葉巧みにひとつながりの文を作ることのできる人ということに過ぎなくなる。それは違うよね、というのをこの詩のような言葉を読んで思った。
この文章にはひとつの高度な「諦め」が漂っている。威勢のよい、人に突き刺さるような言葉は見当たらない。でも思いの丈は高く経験した苦悩は深い。でもそれをストレートに言葉にすることのためらいがこの文章の特徴だ。
それは例えば、こんな言葉に現れている。
「助けたい」「力になりたい」その気持ちだけはある。だけど「助けられる」「力になれる」と思ったり、そう言ってしまうのは傲慢な勘違いなんだと思う。
あぷりこっとさんを、表面的に見ると「思いはあっても行動しない人」みたいに見えるかもしれない。もちろんそう見えるのはそいつがバカだからだ。あぷりこっとさんの思いは、自分の思い、善意の気持ちが返って相手を苦しめることすらある、ということに対する控えめで謙虚な態度の現れだ。
助けてあげるつもりの言葉が、逆に相手を深く傷つけてしまうこともある。かけられた言葉に傷つきながら、それでもありがとうって言わなければならないとしたら、悩みが解消するどころか余計傷が深くなる。
そうなんだ。人を助けたいと思った人が、いや言い換えよう。真摯な思いで力になりたいと思った人がかならず一度は直面するのが、この「諦め」なんだ。
ではどうすればいいのか。あぷりこっとさんは、「手を掴まずに光を当てろ」と言う。
必要なのは手を掴むことじゃなくて、微かでも光を当てること。一筋の光が見えて一足でも進むことができたら、もう少し強い光を感じることができるかもしれない。
ここも非常に微妙な繊細さが詩のように描かれている。光を当てて大丈夫なら、もう少し強い光を当ててもいい、とは決して言わない。あぷりこっとさんは「もう少し強い光を感じることができるかもしれない」という。
つまり、与えるのはきっかけであって、手を掴んで助け起こして自分が良いと思った方向に手を引っ張ることではないのだというわけだ。
誰かに何か言われたみたいな、そんなドラマチックな展開はなく、自然に任せて少しずつ少しずつ立ち直っていった。自分を見放さないで近くにいてくれた家族、ほんの少しの友人、新しい環境で知り合った人とか、他者の存在も確かに自分の力になった。余計なことに触れないで、その時々の何気ない会話を交わすことが一番のリハビリになる。
必要なのは雄弁な論理ではない。
ああ、詩の力とはこういうものだったな。
谷川俊太郎でもだれでもいい。
優れた詩人は論理的に相手を説得しない。
ただ、不思議なことにその断片的な単語と助詞、接続詞の組み合わせの隙間に、淡い光が見えてくる。
その光は決して雄弁ではないけれど、言葉による助けを積極的に「諦めた」後に見えてくる言葉では到達できなかった、本当の「希望」の光のように見える。
立ち直ること、なにかを信じて希望を持つこと。それは与えられるものではない。自分でそれを手に入れることで初めてそれは、自分の自信や自分の希望となる。
それまでは、淡い光をそっと当て続ける。
そばにいるだけで、声はかけなくても、その人が回復するまで光を当て続ける。
これは雄弁な論理を使い慣れた人にとってはとてつもなく、辛抱がいることだろう。
でも本当の立ち直りは、自分の足で自分から立つことでしか手に入れられない。
積極的に行動しないことは消極的なのではない。
諦めることは絶望することでもない。
そこには傷ついた人の回復を信じることと、希望があるから。
傷ついた人は、無言で自分に向けられるその信頼と希望を感じながら癒やされていく。
それこそが、ほんとうの意味での回復なのだ。
味わい深い、成熟した大人の文章だな、と思いました。
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<講評(これでも母さん)>
まっさらな紙に線を一本、端から端まで引いて下さい。
線ひとつで一つの空間は二つに分かれましたね。
線を引いた空間の片方に、あなたが居ると想像して下さい。
線の向こうに見えたあちら側にいるのは誰ですか?
どんな考えで、どんなタイプで、どんな「ひと」でしたか?
あなたはたった一本の線でご自身とどんな「ひと」を区切ったんでしょうか?
とのむらのりこさん(以下のりこさん)は冒頭から純粋無垢な目線で、
穏やかに語り掛けます。
あちら側とこちら側。色んなところで、色んな線引きがあるよね。それに酷く傷ついたり、仕方ないと諦めたり、何も変わらないと知っていてもあらがわずにいられなくなったりする。
自分好みの線をひいて
自分が居る方の場所に安心し、
区切ったあちら側の世界のことなんてどうでもいいと無関心な方、
区別して関与しないまま生きて行くことが正義だと思い込んでいる方、
実はけっこう多いんじゃないでしょうか?
のりこさんの目線が真摯なだけに、
まっすぐな言葉が胸に刺さる方は多いはずです。
線で区切ったように見えたって、しょせん一枚の紙の上の話。
繋がっているし、同じ空間に居るのに不思議ですよね。
どうして線のあちら側に居て欲しいと願ったんでしょうか?
ご自身の傍に居ては都合の悪い方々だったのでしょうか?
のりこさんが「あえて使う」言葉たちが更に続けます。
「今ここ」にいる、同じ時代を生きている、その奇跡に敬意を払うべきなのだと思う。
理不尽な現実に、見事なまでの一石となる正論。
普段のほんわか優しいのりこさんの芯の強さが生む世界観。
その世界観には区切りなどありません。
あちらとこちらに分けて自分を安心させようとする安易な人々に
ストレートに届くはず。いや、届いて欲しいです。
のりこさんの真摯な世界観は続きます。
それぞれの場所で、自分に与えられた役割を
精一杯に果たす。それでいい。
それ以上でも、以下でもないのだと思う。
だからこそ、現実の理不尽さに「泣きながらも胸を張っていたい」。
区別されたことのある方にしか分からない哀しみが伝わってきて、
泣けて泣けて仕方ありませんでした。
息子の不登校が原因で、わたし達一家はあちら側にされました。
未知の生物を見るかのような、息子さんの人生積んだわねって思ってるかのような見下され方も体験したことがあります。
発達障害が分かってからは、更に線は太く、壁のようにさえなりました。
こちら側とあちら側。
その区切りはご自身の心を安全に守る為の物でしょうが、
区切られた方の痛みを物ともしない理不尽な差別です。
のり子さん自身が幼かった頃のお父様との体験談。
引用ではなくて、ぜひのりこさんの言葉で読んで下さい。
お父様の教えの重さと大事な約束を。
のりこさん、
一生忘れられない、
『公平で当たり前なひと』として生きる為の、
大切な教えであり、
守り続けたい約束となりましたね。
続く言葉達が私の胸に刺さります。
私の願う優しい世界を知って下さり、
共感して下さり、
ぐーんと広げて下さった、
のりこさんのとても心強い言葉と想い。
ありがたくて涙が出ます。
心から感謝します。
素敵な作品を読ませて下さってありがとうございました!
とても心強いエールでした( *´艸`)
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<講評(ゼロの紙さん)>
何度もみこちゃんのこのエッセイを
読んでは閉じ、また閉じては読んでを
実は繰り返していました。
タイトルのインパクトが好きで、好きなのに
なぜかずっと書けないでいた。
それは「教養」という主題が、わたしには遠い
世界に感じていたし、「教養」という定義が
わたしにはこんなに年を重ねているというのに
不確かだったことに自信がなかったからかも
しれない。
冒頭では、みこちゃんが幼い時から習っていた
バイオリンを通して触れていた「スズキメソード」
という教育について綴られる。
「才能は生まれつきでない」
「どの子も育つ。育て方一つ」という提案者の
鈴木鎮一先生の言葉を引きながら。
それでここで登場するのが主題の「教養」。
バイオリンを習ってましたっていうと
レスポンスとしての誰かからの口からこぼれる
「教養あるんだね」っていうあのNGワードに
ついて。みこちゃんはちぇってって思う。
教養ってなんよ!
教養ってあるかないかみたいに壁をつくるような
会話すんなよみたいな気分に取り囲まれて。
教養が分断の元になってるなんてなんかつまらんと。
みこちゃんのエッセイが、面白いのは、ひとりで
わたしこう想ったんだよハイ終わりって言わない。
いや、わたしこう思ったよって言ってるけど
その後にで、あなたはどう? って問いかけて
くれる。
きみはところでどう思う?って聞いてくれる
ところが好きだ。
だから問いかけられたままずっとわたしは
わたしはね、ってじぶんなりの答えを
探していた。
みこちゃんのこのエッセイを読むまでは
「教養」ってぶあつい鎧の中に棲んでいて
それはある種の特権を持った人たちの所有物で
もう「教養」が入った箱をみつけたらそれは
そこに存在したままのような気がしていた。
でもそれちがうね、ってみこちゃんに教わった。
「教養」について書いてゆく上でみこちゃんが
人生の1ページとしてはずすことのできない
貴重な体験を語ってくれている。
でもそれは、生きていくのがつらすぎて、
おまけにそのつらさがどうやら世界中で自分
だけに固有のものであるらしく(今思い出し
てもこれに気がついた時は恐ろしかったです)、
親にも相談できない…こういう時期に、それでも、
私に依存に近い状態で頼ってくる後輩連中が
女子校時代の6年間いっぱいいた。
そんな時にみこちゃんは部屋にこもってひとり本を
読むのです。
なぜ?みこちゃんは本を読む?
だから状況的にプチカリスマとして生きていかないと
だめだったくせに、私だけにとっては、私の頼るべき
存在は、私じゃなかったんだ。
後輩から頼られる存在であるみこちゃんが、ほんとうは
誰かに頼りたかった。そんな心ぼそさがあったからです。
拠り所がほしかった。拠ってたつものがじぶんではないと
気づいた時、本をひたすらよむみこちゃん。
これは想像だけどその時間の中で、本がすぐに答えを
だしてくれるわけじゃない。でも、求める答えのような
ものをなんとかして自分の手にしてみたかった。それが
手段なのかなにかもわからないまま。
自分の心はじぶんで落とし前着けて救ってやらないと
誰が救うんだよっていうみこちゃんの心の叫びがなぜか
わたしには聞こえた。
そして、本に没頭した後に、みこちゃんはご両親に
手紙を書きます。
「心配かけてごめんなさい。今私はつらいですが、
今のこの私のつらさを、後から私と同じ道をたどって
くる誰かのためにしっかりと受け止めたいと思います。
誰かが私に追いついたら、すこしでもまた前を歩いて
いてその人がついてこれるように足跡をつけていこうと
思います」
そしてみこちゃんはこう綴る。
どうしてこの言葉がでてきたんだろうと。
それはもしかしたらこれが「スズキメソード」だった
かもしれないと。
わぁ、そこに登場するのか、「スズキメソード」
それで、わたしはみこちゃんの言葉を読みながら
もう一度教養とは、なに?って教養の上にルビを
ふるなら何だろうと自問した。
学んだことを自分の身体の血肉にして、血肉に
なったことを言葉に翻訳して、その翻訳したときに
じぶんだけの言葉を獲得すること。
それが教養なのかなって。
ルビにしては異様に長いけれど。
そういうことかもしれないって。
そして、人生は誰かの言葉を引用してつなげた
だけでは始まらないことをしっかりと教えてもらった
気がするのだ。
みこちゃん、わたしこのエッセイと出会えて
よかったです。
そして「始まる世界」とは、これが「始まる世界」
なのだと心が知った時から、それぞれのリズムで
始まるものなのだと、そんな音色が今聞こえた
気がした。
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*講評は分担制としているため、必ずしも応募順に講評結果が発表されるわけではございません。よろしくお願いいたします。
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