【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅰ. 純喫茶「風車」 (vol.8)
響子さんは、昨日一日、一人っきりで泣き、今朝一番にお姉さんと叔母さんに電話して、大事な話があるから来て欲しいと伝えた。
今日は、お店は臨時休業にしたそうだ。
「だから、あなた、お願いだから一緒に居て」と目を上げて言った。
(どうして僕が?)と心では思ったが、
「もちろん!一緒に居るから大丈夫だよ」と僕の口は言っていた。
「姉と叔母には、あなたのことは、最初にここに来てくれた日にもう教えてあるから、大丈夫よ」「弟が出来たって」と響子さん。
僕の人生は、僕の知らないところで回天していた。
そういえば、正法眼蔵にこんな言葉があった。
『愛語よく廻天の力なり』
確か、”相手のことを慈しみ愛する心から発する、真心の言葉は、天の御心をも動かす。” といった意味だと知っている。
だが、未だ僕が発すべき言葉は、出てこなかった。
(慈しみが足りのだ、きっと)
「うん。わかった」とだけ答えた。
が、内心は心配で困惑していた。
(だって、見ず知らずの、頭でっかちで融通の利かない、あげくにニキビだらけの高校生が、どの顔下げて「今日から弟になった博です」って、おかしいだろう。一般社会の許容範囲を超えてるよ)
「大丈夫だって」と、さっきまで泣いていた響子さんは、僕の心を見透かしたように笑みを浮かべて励ました。
(逆だって、だから)
「あなたが横に居てくれるだけで、わたし何だか安心なの、お願いね」
それから、急ぎ足でこれまでの話をして、僕を落ち着かせようとした。
・・・
やっぱり、僕が最初にこの店に来た日、入れ違いで出て行った人が、響子さんの彼氏だった。
東京の短大時代に付き合い、将来を約束した中になったが、彼の両親の猛反対を受け、響子さんは、自ら身を引いて帰ってきた。
そう、お母さんが亡くなった時だ。
今、明かされたけど、響子さんのお母さんは、精神を病んでいた。
そのことは、周りの誰も言わないまでも、響子さん自身、大きくなるにつれて理解していた。
最初は、小学校入学の時だった。
叔母さんが、デパートに連れて行って、綺麗なワンピースを買ってくれた。それと真新しいランドセルと真新しい赤い靴。
嬉しくてうれしくて、この格好を、早くお母さんにも見せたくて、そして「まぁ響ちゃん。お似合いよ。しっかりお勉強するのよ」と言って欲しかった。
叔母に泣きつき、その格好で病院に連れて行ってもらった。
お母さんは、ベッドから顔を上げると、無表情で、
「どちらのお子さん? ランドセルなんか背負ってどうしたの」と言った。
響子さんは、ショックで凍り付き、子ども心に
「もうここに来ちゃいけない」と刻まれた。
その時は、涙さえ出なかったという。
そして、入学式の当日、いつものお母さんがやって来た。穏やかで、やさしくて、とっても綺麗で、もの静かな、いつものお母さん。
校門の前で一緒に並んで記念写真を撮った。
それだけで、「式の間中緊張しているのは体に良くない」ということで、待たせておいたハイヤーに乗せられ、病院へと戻って行った。
あの日、「嬉しかったけど、でも、お母さんが何て言ってくれたのか、記憶にないの」ただ静かに微笑んでいる顔だけなの。
というようなことを、愛する人に、隠すことなくすべて話して聞かせていた。
「だって、わたしのことは全部、すべて知っておいてほしかったから」と。
彼は、「僕がその分、君をしあわせにするから。一緒にやっていこう」と言ってくれてたけど、向こうのご両親にしたら、大事な一人息子だもの、無理よね。ハッキリと言われなくてもわかる。小さいときからずっとそうだった。周りの人たちはみんな優しく接してくれるけど、内心は、深く関わりたくないって思ってる。わかるのよ、決して僻んでいるんじゃないのよ、本人がそんなことないって否定しても、それは客観的事実なのよ。
それで、お母さんが亡くなった時のあの病室で決めたの。こっちから身を引いて、帰ってこようと。
お母さんは、わたしのお母さんだから、いくらでも引き受けられるけど、あの人に、こんな風にわたしの病室に駆けつけ悲しませるようなことは出来ない。
と。
で、後はこのとおり、叔母の好意に甘えて『田舎の喫茶店の女主人』
「若干まだ26歳よ。どうする? 70、80までこのまま?」
と、響子さんは目にいっぱい涙を溜めたまま、おちゃらけてみせた。
(とっても、可愛くて、せつない笑顔だった)
でもね、今年の春、突然彼がやって来たの。
「僕は、家を出る決心をした。君と二人この街でやっていきたい。何でもする。そして、必ず、君をしあわせにする」と。
といいながら、今の勤めの引継ぎやら、何よりもご両親だけじゃなくて、親戚の人たちを説得して回るのにまだ時間が必要で、この半年間、月一の通い夫状態だった。
そんな宙ぶらりんな生活を続けていて、「わたし変になっちゃった」。わかるの、自分のことだから。
自分で自分を見ている正常なわたしがいて、「ちょっとおかしいぞ」って囁くの。とても恐ろしいわ。
恐ろしいことよ、自分が壊れていくのがわかるって。
で、思ったわ、お母さんも、家に帰って一人奥の部屋で休んでいる時に、わかったんだわ、そして、そうなる前に自分から病院に帰っていくのよ。
ここにいると、子どもたちを悲しませることになるって。
あ、これ以上、お母さんのこと思い出すとよけい変になるから、ここで、お母さんは退場ね。
で、あの日君がここに入ってきた時、わたし、自分からまた別れを切り出したの。
「あなたの気持はとっても嬉しいけど、きっと、わたしのこと驚く時が来るわ。こんなに愛し合ってるのに、その相手から無表情で『あなた誰?』と言われたら、どう? そんなことあなたには言いたくない。だから、わたしから離れて。もう完全に忘れ去るのよ。思い出しもしないで」と。
彼は、「そんなことはない。いやそんなことになったとしても、僕の心は決して変わらない」と言ってくれたけど。
わたし最後に、正直に言った。
「あなたがそうでも、あなたのお父さん、お母さんが、きっと悲しむわ。わたし、結果的にあなた一人に迷惑が掛かることには、まだ我慢が出来る。それまでは、全身全霊であなたを愛して、先にあなたに報いる覚悟はあるけど、その他の人たちに迷惑を掛けてしまうのは、どうしても嫌なの! 絶対に嫌『まぁ、可哀想に』なんて言われるのは!」
言ったというより、叫んだの。
彼にじゃなくて、わたしをこの世に生んだ神によ、誰の責任でもないの、これは、神さまだけの責任なの。
彼は、しばらく唖然としてた、そして、何も言わないで飛び出して行った。
その直後よ、ほんとに、彼が「冗談冗談」とでも言うように、あなたが入ってきたの。
わたし、追い返すようにあんな風に言っても、本心は、黙って抱きしめて欲しかった。わたしが何を言おうが、決して離して欲しくなかった。行ってしまわないで、と願っていた。
それであの時、帰ってくれたと思って、嬉しくって、ぱっと顔を上げた。
そしたら、あなたがそこにいた。
っていう訳。
だから、その時からあなたは「弟分」ということになった。
これは、わたしが決めたことじゃないし、もちろんあなたもそうよね?そんなこと思ってもなかったでしょ。
きっと、神さまが使わしたのね、可哀想な響子のために。
もしかして、あなた『受胎告知』のあの大天使?
名前忘れたけど。
・・・
と、何だか最後は、とても納得のいかない話だった。
(つづく)