現代の貧しさ
貧しさについて考えてみる。
ありがたいことに私の出自はさほど貧乏でもなければ特別裕福でもない。所謂中流階級に生まれた。母親が1億円弱の借金を背負っていることを除けば、ごくごく普通の家庭だろう。
それが故に、貧困家庭も上流階級の内情も知る由はないのだが、いろいろ話を聞いていくと様々なものが垣間見えてきた。本文ではそれらの気づきを記録したい。
モノ消費とコト消費
上記の引用にもあるように、モノ消費が主流だったころは「貧しさ」=「ハード(服等)の欠如」であった。つまり、モノ消費が主流だった時代は、貧しさが可視化できていたということになる。
貧しい出自の子は貧しさが分かるような身なりをしており、そのことがきちんと周知されていた。これは一見悪いように思えるが実はそうではない。昭和や平成初期まで続いたモノ消費においてはハードの欠如がある(貧しさ)が故の緩やかな相互補完的なネットワークが存在していた。貧しい子には隠れて援助してくれる大人がたくさんいたのだ。
問題はコト消費である。モノ消費からコト消費に移行した理由として、モノ過剰社会への変遷が挙げられるだろう。(もちろん引用にあるような、さらなる上位欲求のはけ口としてのコト消費という位置づけも出来ると思います。)
「貧しさ」≠「ハード(服等)の欠如」という式が成り立つようになってしまった。
もし貧しくても貧しさが外見からは分からないという状況である。深夜のドンキにたむろっているヤンキーやギャルを見てみてほしい。結構良いモノを持っているし(パチモンかもしれないが)、同世代で高級サルーンを乗り回しているのはヤンキーの知り合いだけだ(羨ましい)。
もちろん、普通に働いているので我々学生よりかはお金に余裕はあるだろう。しかし、生涯年収という観点でその事実を照らした時に裕福であるとは限らない。
コト消費においては私も貧しい
先ほど、ヤンキーの事例を挙げたが、私もコト消費においては相対的に貧しいということに最近気づいた。それを説明するには貧しさを再定義しなければならない。貧しさは下記の条件をすべて満たすものだと考えた。
①「貧しさ」≠「ハード(服等)の欠如」
②「貧しさ」=「経験や人脈の欠如」
つまり、現代においての貧しさとは「多様な経験や人脈の欠如」ということになる。ここで言う多様な経験とは留学等のチープなものを示しているわけではないし、大学生がイメージするような人脈では全くない。
ある年齢までは自分自身でアクセス出来る情報が出自によって決まってしまう。(もちろん、大人になれば昨今の情報化社会が故にほとんどの情報にアクセス出来るのだが)
そもそも、自宅にある蔵書の数が全く違う場合もあるし、両親が持つネットワークによって情報のTierさえも変わってきてしまう場合もあるだろう。片親と仲睦まじい両親、というだけでも全く情報は異なる。
これらの情報が多様な経験へと繋がっていく。
片親の子どもは愛情不足が故に早熟でありうまく社会化できず多様な経験を得る機会すら持てず成長する。
その一方で、経験に理解がある家庭に生まれた子ども(中学受験のような親のエゴが露呈するものは”経験に理解がある”のではなく、”教育や記号に理解がある”と言った方が良いだろう)は親が持つ情報やコネクションを巧みに使わせてもらいながら経験を得ていく。
これらの出自の格差がコト消費への変遷によって露呈し始めている。豊かな人々は多様な経験をして、さまざまなコネクションを持ち、とても緩やかで曖昧な相互補完的な関係を有するが、貧しい人々は違う。モノ消費のころに見た、明らかな記号はどこにもなく、経験が少ないことにより、コネクションは極めて限定的でなおかつ偏向的である。
もっとわかりやすく説明するならば、親が与えてくれた経験をもとにNPOを設立したり、世界水準の芸術に慣れ親しんだり、容姿端麗且つ秀才な女性と付き合ったり、とてもクリエイティブな仲間がいたり。これが現代の裕福という状態である。
貧しさとは上記の逆を指す。
そのような観点で私の人生を振り返ると相対的に見て貧しいと言わざるを得ない。
人生は逆転可能
ただ、貧しいことがわかったからと言って何も解決しない。両親に当たり散らかしても意味はない。日本は資本主義且つ情報化社会。逆転は可能だ。(と信じている…)
大人になれば情報化の恩恵によりほとんどの情報にアクセス出来ると前述した。人は生涯学び続ける生き物なので、今から多様な経験を得ても良いだろう。いろいろな情報にアクセスして得られる経験の機会を逃さなければ良い。むしろ、モノ消費ではなく、コト消費に投資するように意識すれば様々な経験の機会を逃すことは少なくなるだろう。
人生はここから。
ココカラッス精神で生きていきたい。
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