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「熊野とは」overview②

overview①では、熊野信仰は森、岩、滝、水などの自然崇拝が起源であること。やがて、それらを具体的な神としてお祀りしていったこと。を紹介しました。

今回は、熊野は神仏習合し聖地として全国から多くの人々を集めてきたこと。そしてその後の熊野のこと。を概要版で紹介します。

神さまである那智の滝と仏教の三重の塔
熊野の神仏習合の象徴的な風景

熊野権現の誕生

仏教が6世紀に伝来し、熊野は仏教を受け入れ日本古来の神道と融合していきます。熊野権現の誕生です。
熊野の神々は、それぞれ仏さまの姿も持つことになり(熊野権現)、熊野三社の権現を熊野三所権現といい、それぞれを相互にお祀りすることで熊野三山が成立します。熊野三所権現と熊野ゆかりの神々を合わせると熊野十二所権現といいます。
本宮|熊野本宮大社
 主祭神の家都御子大神(素戔嗚尊ースサノオノミコト)は、阿弥陀如来。

熊野本宮大社旧社地「大斎原」
熊野本宮大社は明治22年までこの大斎原にありました

速玉|熊野速玉大社
主祭神の速玉大神(伊弉諾尊ーイザナギノミコト)は、薬師如来。

熊野速玉大社にある熊野のご神木
樹齢1000年の「なぎ」の大木

那智|熊野那智大社、那智山青岸渡寺
 主祭神の夫須美大神(伊弉冉尊ーイザナミノミコト)は、千手観音菩薩。

左が熊野那智大社。右が那智山青岸渡寺
もとは境界がなくひとつの敷地でした
神仏習合のなごりが残っているのは
那智だけ

熊野修験

熊野には人々を圧倒する自然があり修行の場と多くの多くの修行僧が入山しました。平安時代には、熊野の霊験が修験者によって全国にその名が広げられ、やがて上皇、貴族たちが熊野の神仏に憧れ参詣するようになります。

熊野は神仏習合の聖地と紹介しましたが、修験道も含めた神仏習合なのです。

熊野修験による護摩焚き

熊野に多くの人々が訪れるようになったのは
2つのキーワードがあります。
それは

■熊野は浄土
■熊野は寛容

熊野は浄土

神仏習合の地となった熊野は、11世紀ごろから熊野全体が浄土の地と見なされ、聖地として栄えていきます。

本宮は、阿弥陀如来の西方極楽浄土。
速玉は、薬師如来の東方瑠璃浄土。
那智は、千手観音の南方補陀落浄土。

熊野には、神々を感じる風景が
今もいっぱいある

平安時代後期から鎌倉時代に上皇、貴族たちが熊野を訪れるようになります。上皇、貴族から始まった熊野詣は、武家、庶民と広がっていきました。

熊野は寛容

熊野は、仏教を受け入れた宗教的寛容性に加え
「信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、身分の違いや老若男女を問わず。」
熊野はだれもを受け入れてきたところ。当時にすればすごいこと。
これが庶民まで熊野詣が広まった大きな理由です。

時宗の開祖「一遍上人」が
熊野本宮の神から
「信不信を問わず、浄不浄を選ばす・・」
と神勅を受けた熊野本宮大社大斎原

日本第一大霊験所

熊野はこんな表現もされています。
熊野三山の3つの大社には、「日本第一大霊験所」または「日本第一霊験所」と書かれています。
日本で最も霊験のあるところ・・人々を圧倒し自然信仰が興るほどの大自然とそれを神としてきた地にできた神仏習合の聖地。

日本で最も霊験があるところ!!

スーパースター

日本の宗教界のスーパースターが熊野を訪れています。
役小角(役行者)・・修験道の開祖
弘法大師空海・・真言密教の開祖
一遍上人・・時宗の開祖
安倍晴明・・陰陽師

熊野の大自然は彼らに大きな影響を与えました。

蟻の熊野詣

熊野詣では、平安時代に上皇・貴族の熊野御幸から始まり、鎌倉~江戸時代には武家から庶民のブームになります。その様子は「蟻の熊野詣」といわれ、蟻が列をなして歩くことにたとえられるほど多くの人が熊野を訪れました。

大門坂にある一方杉
大門坂茶屋では平安衣装体験が楽しめます

この熊野詣こそが日本人の旅のはじまり。
時の権力者だけでなく、庶民まで熊野を愛した理由は、
・熊野は浄土(前述)
・熊野は寛容
(前述)
信不信を問わず、浄不浄を嫌わず、身分の違いや老若男女を問わず。

速玉が前世の罪を浄め、那智が現世の縁を結び、本宮が来世を救済する。
といわれ、熊野三山を巡れば過去、現代、未来の安寧を得ると考えられていました。

新たな展開

西国三十三所観音巡礼は熊野詣と関わりながら増加してきます。
戦国時代に突入すると、社会の混乱や旅の安全の問題などから巡礼は減少し、戦乱の時代が終わり江戸時代になると、特に平和な元禄時代から「お伊勢参り」が人気となります。
難行苦行のすえ御利益(ごりやく)を得る「熊野詣」から、旅の開放感を味わい生きる実感を得る「お伊勢参り」が主流になります。現在の旅行と同じ感覚ですね。熊野へは、お伊勢参りのあと、西国三十三所観音巡礼のため足を伸ばすことが多くなります。
「伊勢に七度(ななたび)、熊野に三度(さんど)」です

那智山青岸渡寺三重塔
西国三十三所巡礼1300年記念行事

伊勢神宮から第一番札所である那智山青岸渡寺(当時は、神仏習合で熊野那智大社と同じ)にお参りした人は、当然のように途中の熊野速玉大社に参拝し、青岸渡寺から雲取越をして熊野本宮大社に参拝します。熊野詣と西国三十三所観音巡礼は別の信仰ではなく関連性の強いものでした。 

西国三十三所観音巡礼

西国三十三所観音巡礼は718年に長谷寺(八番札所)を開山した徳道上人が閻魔大王と、「三十三の観音霊場を開き観音菩薩の慈悲の心にふれる巡礼を勧めなさい。」と三十三の法印を授かりその法印を集めることで極楽浄土への通行手形になると、約束したことに始まります。全部集めることで地獄へ行かないということですね。

西国三十三所巡礼第一番札所
「那智山青岸渡寺」

最大のピンチ

明治時代になると熊野は最大のピンチとなります。
明治政府により神仏習合を廃止するため神仏分離令が発せられるとともに修験道廃止令が布告されました。さらに神社合祀令も出され、仏教、修験道だけでなく、小さな神社や自然信仰の神社が廃止されます。

南方熊楠によって守られた
継桜王子社の一方杉

昭和の熊野は、観光的にいえば、熊野三山(熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社、那智山青岸渡寺)がそれぞれの役割を果たしながら維持され、熊野本宮温泉郷や那智勝浦温泉の温泉、那智の滝などの信仰の起源であるダイナミックな自然があったおかげで引き続きお客さまが訪れていました。熊野古道などいにしえの道は、大部分が鉄道、自動車の発展とともに林道や国道などの公道に変化し古道として残った道は荒れましたが地域の皆さんの努力で何とか残っていきます。

よみがえりの聖地「熊野」。よみがえる熊野!!

この2000年以上続いてきた熊野の最大のピンチを救ったのが「世界遺産登録」です。世界遺産に登録されることで、道や神社などの構造物は文化財として保護されるとともに観光地として注目度が飛躍的に上がります。
世界遺産登録が大きなきっかけとなり、温泉などのコンポーネントや小単位の地域ではなく、再びフルスケールの「熊野」としてPRできるようになりました。それぞれのコンセプトでお客様にきていただいてた熊野が「熊野」として、まさに「熊野とは」を世界に表現できる時が再び到来したのです。それを国内外にプロモーションし、世界的な評価をいただくようになり多くの外国人が来るようになっています。
世界では「KUMANO」がすでに旅のキーワードになっているのです。

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