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熊野とは⑤ 新たな展開・・西国三十三所観音巡礼


新たな展開

 平安時代に上皇・貴族の熊野御幸から始まった熊野詣は、武家に、庶民に広がり、室町時代には蟻が列をなして歩くことにたとえた「蟻の熊野詣」と言われる最盛期を迎えます。この熊野詣こそが日本人の旅のはじまり。数百年も続く歴代最長の大ブームだったのです。西国三十三所観音巡礼を入れると千年を超えるスーパーロングテールになります。
 西国三十三所観音巡礼も15世紀の最盛期には、熊野詣と関わりながら増加してきます。 
 やがて戦国時代に突入し、社会の混乱や旅の安全の問題などから熊野詣は減少し、戦乱の時代が終わり江戸時代になると、特に平和な元禄時代から「お伊勢参り」が人気となります。
 難行苦行のすえ御利益(ごりやく)を得る「熊野詣」から、旅の開放感を味わい生きる実感を得る「お伊勢参り」が主流になります。現在の旅行と同じ感覚ですね。熊野へは、お伊勢参りのあと、西国三十三所観音巡礼のため足を伸ばすことが多くなります。

那智山青岸渡寺と熊野那智大社
今は別々になっていますが
当時は一つの敷地に

 伊勢神宮から第一番札所である那智山青岸渡寺(当時は、神仏習合で熊野那智大社と同じ)にお参りした人は、当然のように途中の熊野速玉大社に参拝し、青岸渡寺から雲取越をして熊野本宮大社に参拝します。熊野詣と西国三十三所観音巡礼は別の信仰ではなく関連性の強いものでした。 
 室町時代が純粋な熊野詣の最盛期といわれていますが、参拝客の数ではお伊勢参りの爆発的ブームから流れてくる江戸時代の西国巡礼の方が多く熊野を訪れたという説もあります。
 それは、自由度が増した社会背景による参拝者層の拡大や道・宿などのインフラの改善などによるものだったのでしょう。簡単に言えば、旅に出る人が増加し、受入側も対応できたということです。

伊勢から熊野へ
熊野古道伊勢路「七里御浜の夕景」

西国三十三所観音巡礼

 西国三十三所観音巡礼は718年に長谷寺(八番札所)を開山した徳道上人が閻魔大王と、「三十三の観音霊場を開き観音菩薩の慈悲の心にふれる巡礼を勧めなさい。」と三十三の法印を授かりその法印を集めることで極楽浄土への通行手形になると、約束したことに始まります。全部集めることで地獄へ行かないということですね。

 お元気なうちに西国巡礼してくださいね。御朱印帳を持って!

熊野古道の振分石(道標)
右「かうや(高野)」左「きみい寺」
古道沿いにある振分石の多くに
次の第二番札所の紀三井寺の案内があります。

 このように、西国巡礼はそのストーリー性と今も人々の信仰を集め地域に貢献していることから「1300年つづく日本の終活の旅~西国三十三所観音巡礼~」として日本遺産に認定されました。認定にあたっては私も関わらせていただき、また第一番札所の那智山青岸渡寺にて、三十三所全寺院の参加のもと行われたイベントにも携わらせていただきました。

西国三十三所草創1300年記念で
行われた那智山青岸渡寺での記念法要
三十三所すべて集結
もうこんなことはないかも

 西国三十三所観音巡礼は、日本最古の観音巡礼であり三十三の法印が今の御朱印の起源ともいわれています。

 当初は、人々には受け入れらませんでしたが、約270年後に花山法皇(熊野御幸では安倍晴明の守護の元、那智の山中で千日修行を行った。ちなみに那智には安倍晴明の屋敷があったという。)が、再興しました。
 西国三十三所は、和歌山、大阪、奈良、兵庫、京都、滋賀、岐阜の2府5県にあります。

第一番 那智山青岸渡寺
 和歌山県・・三十三所で最古

那智山青岸渡寺本堂

第二番 紀三井山金剛宝寺ー紀三井寺ー
 和歌山県・・日本最大の木造立像の観音様

大千手十一面観世音菩薩像
(紀三井寺)

第三番 風猛山粉河寺
 和歌山県・・三十三所で最大の本堂

粉河寺本堂と庭園


史上最大の広域観光ルート

 伊勢に七度、熊野に三度(いせにななたびくまのにさんど)
 信仰心の深さを表すたとえですが、
 前述のように東国の人々がお伊勢参りと熊野詣を一緒に行っていました。西国の人々も同様に行い、熊野、伊勢の前後で京や奈良、高野山などを巡ったんでしょう。
 紀伊半島に残る張り巡らされた古道がそれを意味していると思います。

熊野の神々が談笑した
円座石(わろうだいし)
熊野古道大雲取越にある。

 東国(江戸)からはこんなルートでしょうか。
江戸ー(東海道)ー熱田神宮ー(伊勢街道)ー伊勢神宮ー(熊野古道伊勢路)ー熊野速玉大社ー(熊野古道中辺路)ー熊野那智大社、那智山青岸渡寺ー(熊野古道大雲取越、小雲取越)ー熊野本宮大社ー(熊野古道中辺路、紀伊路)ー紀三井寺ー粉河寺ー西国巡礼・・大阪ー奈良ー京都ー滋賀ー京都ー大阪ー兵庫ー京都ー滋賀ー岐阜・・ー(中山道)ー諏訪大社ー(中山道)ー江戸


 最近、よく広域観光っていいますが、もうこの時代に壮大なループを描く広域観光はできていた。ということです。

先人たちが作ってきたこの「最古で壮大かつ日本を知るには最高」の観光ルートをもっと大切にすればいいのです。
 必ず日本の観光の軸になります。(東海道はもうなってますが・・)
 外国人には100%受けますよ。

”JAPAN great!! 旅のルーツ 「熊野詣」と「お伊勢参り」”
  ~東海道、熊野古道、中山道を行くいにしえの日本最大の広域ルート~

 こんなネーミングで
 いっしょにやりませんか 笑

 最長のブームが続き、多くの人々が熊野に訪れてきましたが、明治時代になると最大のピンチが訪れます。それは次号 熊野とは⑥「衰退から再生、新しい熊野」・・神仏分離と世界遺産登録 で

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