私の四畳半,私の四畳半,私の四畳半,私の四畳半
(k)
『四畳半神話大系』に私が出会ったのは、京都で一人暮らしを始めたばかりの大学一回生の春、大学生協の書棚でのことでした。
「大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしてないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか」
――冒頭のこの文章を読んだ頃は、笑って受け流せていました。いままでの不毛な小学校・中学校・高校時代を顧みるに、大学でも同じ末路をたどる危惧はありましたが、しかし薔薇色のキャンパスライフとまではいかなくとも、薄紅色のキャンパスライフくらいは送れるだろうと根拠なく思っていました。修学旅行で訪れて以来ずっと憧れの土地だった京都に住んで、私の心は浮かれていました。
(窓から見える、「大」の字が呆れるほどくっきり刻まれた大文字山。自転車を少し漕げば、世界遺産の銀閣寺に、ゲーム世界のような南禅寺(なんぜんじ)の水路閣(すいろかく)。今出川通(いまでがわどおり)の坂を下れば、桜の舞う穏やかな鴨川(かもがわ)。大学のキャンパスには、周囲をぐるりと派手な配色の立て看板が林立し、それを横目にキャンパスの南の端に向かえば、一世紀前にタイムスリップしたと錯覚させられる、怪しい古びた木造の学生寮が姿を現す。――受験期の焦燥感とは真逆の、時間の流れがゆるりとしたこの土地で送る新生活に期待を膨らませるのは、ごく自然のことでしょう)
気がつけば三回生になっていました。キャンパスライフは真っ白でした。ありあまる時間は不毛なインターネットに溶けてゆきました。『四畳半』の冒頭の文章を、笑い飛ばすことができなくなりました。
臆病で卑屈で傲慢な私は、人々と深い人間関係を結ぶということが、人々の属性や人間関係の種別を問わず、ほとんどできませんでした。独りでいても誰も気にしないでくれるし、合わないと感じる人との煩わしい表層的な付き合いを避けやすい大学の環境では、必然、何も行動しなければ独りのままです。
学問に励めばまだ良かったのかもしれません。私の大学は学問に励みやすい環境でした。ところが私は授業をぼけっと受けて単位をかっさらうだけで、何も身についてはいませんでした(むろん正確を期すのであれば、身についたものがないわけではありませんが、強いてあげるとすれば、慈悲のありそうな教員を見極める能力、出題範囲をカンで取捨選択してテスト勉強を一夜漬けする能力、文献をかき集めて体裁だけ整えたレポートを不正せずに爆速で執筆する能力、そんなものばかりです)。広大な大学図書館で色々な分野の入門書や一般書を読むだけで満足し、「学ぶ自分」を思い描くだけで満足していました。
そして運動が苦手な私は、必修の体育もなく大学も自転車を十分漕げば着くという環境で、当然の如く全く運動をしなくなりました。京都のまちは実に平らで自転車を走らせやすく、また京都のまちはこじんまりとしていて自転車を少し走らせるだけで生活を完結させてしまうこともできるのです。
『四畳半』の主人公「私」は、三回生で転機が訪れますが、当然現実は違います。自宅に缶詰になっているうちに、三回生も終わりを告げようとしています。
夜更かしが祟って十二時に起き、リコーダーを吹きながら横並びに下校する小学生の集団を避けて大学へ登校し、四限と五限の講義を聞き流し、生協食堂でオクラ巣ごもり玉子をのせた豚塩カルビ丼をかきこみ、鴨川デルタのベンチで宵空をぼうっと眺めたあと、一乗寺(いちじょうじ)の古いアパートに戻って、「土手町(どてまち)」と私の名前が殴り書きされた郵便ポストを空け、そこにピザ屋のチラシと「左京しんぶん」しか無いのを確認し、洗濯機を回してシャワーを浴びて布団を被ってスマホとにらめっこする、そんなしようのない日々でした。院進を決意する学力も胆力も、就活を始める気力も活力も、留年や休学を選ぶ決断力も、私にはありませんでした。
ところで『四畳半』の「私」は、一回生の春に「映画サークル『みそぎ』」「弟子求ム」「ソフトボールサークル『ほんわか』」「秘密機関 <福猫飯店>」の4つのビラを前に迷います。一回生の春の私も、ちょうど同じような状況と心境でありました。
一回生の春、所属サークルに悩んだ私は、最終的には料理サークル「おむらいす」を選びました。私は「疲れずすぐにタダ飯にありつける」しょうもない基準を第一のものとしてサークルの新歓を日々渡り歩いていたために、新歓が終わっても色んな人の美味しい料理にありつけるのではないかというしょうもない動機から「おむらいす」を選んだのでした。しかし、根暗で内向的な私は、陽気で外向的なサークルの雰囲気に馴染めず、次第に疎遠になってゆきました。サークルに入った動機が動機である以上、自炊をする機会があるわけもなく、卵焼き用フライパンは一回生の五月で役目を終えて調理台の隅で埃をかぶる始末でした。二口コンロを二口とも稼働する機会はついぞ訪れませんでした。
いや、雰囲気になじめなかったと書きましたが。夷川(えびすがわ)さんという名の偏屈な三回生だけは私は馬が合いました。しかしシチューをご飯にかけるか否かという実にくだらない口論を経て方向性の違いを悟りました。
なお、私が一回生の頃は、疫病に世界が覆われる前で、つまり、春のキャンパスの時計台には、毎晩無数のサークルや部活が看板を掲げて、新入生を一人でも多く捕食しようと待ち構えていました。誰しも道を歩けばビラを押し付けられ、説明会だけでも来て一回だけで良いからライン交換するだけで良いからほんとすぐ終わるからメシ奢るから、と四方八方から声をかけられる、空前絶後のモテ期に入るのでした。勧誘をするのは有機物に限りません。キャンパスの前の道路には、無数の立て看板が並び、政治的な主張を掻き消さん勢いで、無数のサークルが自己主張を繰り広げていました。構内の掲示板や廊下や教室の机にもおびただしいビラが貼られ積まれ、毎晩清掃員の方々が床に散乱して山となったそれらを片付けているのでした。
新歓は、休日であれば鴨川でのお花見や桂川(かつらがわ)でのバーベキューやお洒落なカフェ巡りやその他大規模なイベントも開催されますが、平日の五限後であれば、大抵そのサークルの体験活動や説明会をし、コンパにしけこむという流れでした。自費で食事に参加する必要があるサークルも少なくないですが、気前良く上回生が奢ってくれるサークルも多いものです。
(奢ってもらえるかどうかは、サークルの懐事情、規模、新歓に参加する新入生の数、文化圏などで変わってきます。他の運動サークルの数をすべて足したよりも多く存在するテニスサークルでは――むろんそれほど沢山存在する以上はテニスサークルと一口に括れるものでもなくテニスや酒にかける情熱にばらつきも大きいのですが――ともかく一部のテニスサークルの間では、新入生を確保する競争の公平性を保つために、飯および酒を奢ってはいけないに始まる多種多様の複雑な協定が交わされているそうでした)
だから4月は、大学周りの飲食店をタダで味わいつくすのが様式美でした。月曜は「ナイジェリア」でドカ盛りの白米を、火曜は「ゆうぞら」のグリーンカレーを、水曜はキャンパス北方の生協食堂の天津飯を、木曜は「琳屋」のめんたいこカルボナーラを、金曜は「キッチンこあら」のステーキを、土曜は「カフェコレクター」のオムライスを、日曜は「郷乃家」の焼肉を、その次の月曜は「めん処 夜紫」のカツとじ定食(そばまたはうどん付)を、という具合に。
(この様式美はもちろん、翌年になって新歓をする側になって初めて「食費がタダになっていたのではなく、単に前借していたにすぎなかったのだ」と悟るのまで含めて、様式美です。「露骨にタダ飯狙いでこちらの活動に何一つ興味なさそうな新入生」に表面上だけ笑顔を繕って接待する、空しさといったら)
とにもかくにも、無数の選択肢が無料の食事とともに提示される新歓期にあって、サークル選びは大変に悩ましいものでした。合格と同時に全学生に届く、生協サークル編集の「サークル大百科」の厚さが数センチにもわたることから、入学前から分かってはいましたが。サークルの種類と数は本当に凄まじいものでした。晩ご飯のメニュー選びでたとえるのならば、中学高校の部活動は精々カレーと生姜焼きとコロッケしか選択肢がなかったのに対して、大学のサークル選びは世界中の美味と珍味がそろい踏みで提示される状況でした。
もちろん、(体育会の部活動や拘束時間の極めて長い団体であればいざ知らず)大抵のサークルは複数所属することが可能ですから、「たくさんサークルに入っておいて、段々と絞り込んでゆく」ことは定石のひとつです。
しかし一日で何個もサークルを回れませんし、重要な新歓イベントは往々にして重なりますし、また入会締切を区切っているサークルも多いものです。「どちらも興味があるが、どちらとも今日が最後のチャンス」という状況は往々にして発生し、「興味のあるサークルすべての新歓を回る」ことはかないませんでした。
また、入会費が決して安くないサークルも少なくないものですが、これは何かと出費がかさむ新生活にあってはとりわけ痛いものです。したがって、「興味のあるサークルすべてにとりあえず入会しておく」こともできませんでした。私は「おむらいす」の他にも、2つほどサークルに所属していましたが、結局コミットしないうちに、どちらも幽霊になっていました。コンビニバイトのシフトのみが、私と下宿の外とを結ぶ橋でした。
(小規模な文化系サークルであればたいてい年中入会できますが、しかしサークルの人々との交友を深める難易度が上がることに気後れしてしまいました。また二回生以降も入れるサークルも多いですが、二回生になった私は、新歓に参加する気力はもう残っていませんでした。接待する側の気力や財力の消耗が激しいのは言うまでもなく、接待される側も、中々に気疲れするものです)
『四畳半神話大系』の世界は、「私」の日々の選択で無数に分岐した無数の並行世界が重ね合わさっています。新歓期の一回生の私も、『四畳半』の「私」の心境に重ね合わせ、今日ここのサークルでなく他のサークルを選んだら、どんな違った学生生活を送ることになるのか――そんな夢想をしていました。あるいは今でも時折、夢想することがあります。無数のビラを抱えながら無数のプラカードを品定めしていた、あの新歓期の五限後の時計台こそが、大学生活の最初の大きな分かれ道の一つだったように思えてならないのです。
もちろん、『四畳半』の「私」が、どの並行世界でも自身の選択肢を後悔するのと同じように。どのような道を選んでいても、やはり結局は同じような、しようもない学生生活を送っていたことでしょう。そんな予感はするのです。
樋口師匠の「(…)我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性だ」「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはいけない(…)」という発言は、けだし名言です。
それでもたとえば、あの月曜日に料理サークル「おむらいす」の新歓ではなく読書サークル「びろうど」の新歓を選んでいたらあるいはと、そんな無為で無害な空想を書き連ねるだけなら許されるでしょう。
『四畳半』の「私」は、どのような道を選んでいても、小津や明石さんと同じような関係を結ぶことに相成りますが。実際には、たとえ分かれ道の先で同じ人々と――たとえば夷川さんと――出会うことになろうとも、その出会い方が異なっていれば、お互いの関係性も異なったものになっていたはずです。いや、人々だけでなく、出会う書物に対しても同じことが言えるかもしれません。印象的なそのうちの一冊、
(k+1)
『四畳半神話大系』に私が出会ったのは、京都の生活に慣れてきた大学一回生の秋、読書サークル「びろうど」のボックス(部室)でした。
一回生の春、所属サークルに悩んだ私が選んだのは、体力や気力を要しなそうな、「各々が読んできた本を紹介する」というだけのゆるい読書サークルでした。一人暮らしや講義に慣れるのに必死で、疲れ切っていた私は、とても課外活動に精を出す余力などなく、安らぎの場を求めていました。「びろうど」は、昭和の学生運動の時代の面影を残すかのような、なんとも独特の趣あるボックスで、そこで気ままに読書をしたり、週一回の例会で各々の好きな本を聞いたりすることができる、そんなサークルでした。サークルの人びとのほとんどは、優しく穏やかでのんびりとしておりました。活動場所も活動内容も人びとも、私の性に合うものでした。
(なお、24時間立入り可能のボックスを持っているサークルは、それだけで一つの大きなアドバンテージを持っているといえるでしょう。各々が来たいときに来れ、自由に荷物を置き、寝泊りさえ不可能でない、無料の溜まり場の価値は、計り知れません。多くの歴史の浅い小規模のサークルや、すべての大学非公認のサークルは、ボックスを――鍵を大学側が管理するキャンパス西側のボックス棟を含め――どこにも持っていませんから、ミーティングひとつをするにしても、たとえば大学附属図書館の共同研究室の予約を取ったり、どこかの学部の共用スペースや自治空間を確保する必要があるのでした)
ところでこのサークルには、夷川(えびすがわ)さんという二学年上の先輩がおりました。夷川さんの性格は、四畳半神話大系のキャラクタでたとえるならば――四畳半神話大系のキャラクタでたとえるのは言うまでもなく無理がありますが――主人公の「私」に近いと言えました。少なくとも、悪友の小津や水もしたたる城ケ崎先輩や歯科衛生士の羽貫さんや謎めいた占い師よりは近かったと言えるでしょう。
要するに夷川さんは、偏屈に根差す怠惰な傲慢やら理屈で狡猾に糊塗してみせた純情やらを持つ人でした。優しく穏やかでのんびりとした人ではありませんでした。ここで夷川さんの言動をあけすけと暴露することは先輩の名誉を慮ってしませんが、種々の言動をあけすけと暴露したくなる人でした。
「麻雀も履修しないって何しに大学来たの?」
「いやそこは駐輪やめろ、もう少し裏に寄せて停めればギリギリ撤去されずに済む」
「その般教は出席つくけど四十五分遅刻まではいけるから」
「図書館の本を延滞するとその日数だけ禁止になるってやつ、レポート期間は焦るけど大学の他の図書館に行けば別に普通に借りられるぞ」
「何で油淋鶏(ユーリンチン)頼まないんですかって別に良いだろ、学食は安く済ませるって割り切ってるの、三百円出してそれ食わなくても百七十円の若鶏醬油揚げと六十円の鶏きも煮で幸せになれる舌なの」
とはいえ夷川さんはひとつ美点があり、それはよく一乗寺や北白川(きたしらかわ)の美味しいラーメンを奢ってくれるという点でした。夷川さんは種々のハラスメントと無縁の先輩であり、私は気兼ねなくラーメンをご馳走になっていました。美味しいのか不味いのか分からない表情でラーメンをすすり終わると、夷川さんは白川通(しらかわどおり)を北上して彼方の修学院(しゅうがくいん)まで去ってゆくのでした。
(なお、京都の市街は東西南北にまっすぐ通りが伸びていることで有名です。白川通は、左京で最も東に位置する南北方向の大通りで、銀閣寺や南禅寺や大文字山のそばを通る、のどかな道です。南の方のエリアから、浄土寺(じょうどじ)、北白川、一乗寺、修学院などとよばれており、さらに北上すると、岩倉具視公の隠棲した岩倉へと至ります)
さて、「びろうど」のボックスにはいつも誰かしらが本を読んだり宿題をしたり昼寝をしたりボードゲームや麻雀に興じておりましたが、週に一度の例会では、メンバーの一人が自らの読んだ本あるいは読んでみたい本について紹介するという運びになっておりました。そしてある日の例会で、御蔭(みかげ)さんという私の同期が、CMもかくやというクォリティの洗練されたスライドでもって、実に鮮やかに紹介してみせていたのが、この『四畳半神話大系』という小説でした。
『四畳半神話大系』。私はその本の名前だけは知っていました。初めて知ったのがいつだったかはとんと覚えていませんが、仰々しくも慎ましいそのタイトルと華麗な表紙は、私の印象に強く残るものでした。
『四畳半』は京都のまちで送る学生生活を描いた小説ということもあり、私以外のその場にいた全員が読んでいました。
「やっぱみんな読むよね」「私これ読んで京都の大学行こうと思った」「前から思ってたけど、君ってちょっと明石さんっぽくない?」――各々が好き勝手に感想を言い始め、私はひとり取り残されました。そこで夷川さんは、例会が終わったあと、私に『四畳半』を貸してくれました。夷川さんの美点がひとつ増えた瞬間でした。
私は『四畳半』をその日の晩のうちに読み終えてしまいました。一回生も半年が過ぎ、キャンパスライフの現実と幻想の境を段々と認識しつつも、その境を膨らませて混ぜ合わせて描かれた京都の学生生活には心奪われてしまうものです。次に夷川さんとラーメン屋「福楼夢(ふくろうむ)」で会合した折に、とても面白かったですとお礼を言って返しました。夷川さんがそれ以上の感想を問うてきたので、私は答えました。
「面白かったです。でもフィクションとはいえ、どの世界でも結局明石さんと結ばれるのは出来すぎですよね。明石さんみたいな人がいたとして、正直主人公のどこを好きになるんですか、『私』と明石さんは結ばれなくないですか。というか何で口説くのにラーメン屋なんですか、ラーメン屋」
よく考える間もなく、私の屈折した心理はつらつらと言葉を並べたてました。夷川さんはしばし黙った後、いつものようにぶっきらぼうに口を開きました。
「私もそう思った。その後で、それは私が『私』に勝手に感情移入して同族意識を抱いたからであって、実のところ『私』は私よりもずっと高尚なのかもしれない、『私』のような人間でなければ、『私』に様々なものを見出すのかもしれないとも思った。けれども土手町もそう思うか」
夷川さんはそこで再び沈黙し、怪訝にうかがう私の目を見つめ返して言うのでした。
「いや、あるいは土手町も結局、『私』のような人間なのか」
虚を衝かれた私は反論しました。ぴかぴかの可愛い一回生の私をつかまえて、かぴかぴの三回生の『私』みたいとはなんですか。『私』に似てるのは、どちらかといえば夷川さんの方でしょう。云々。
「土手町はまだ時間があるから大丈夫だと思っているだろうけれど、きっと再来年には『私』みたいに後悔する。私がそうだったように。無数の可能性を夢見ながら、可能性を狭めるのが怖くて何もしないように。ひとつの可能性を選んだとしても限界を知るのが怖くてすぐに諦めて目移りするように」
夷川さんは意に介さず断言して、スープを飲み干すのでした。そして立ち上がると二人分の勘定を払って店を出て行きました。
その後の夷川さんは就職活動やらで忙しくなったと見え、夷川さんにラーメンを奢られる機会はとんとなくなりました。
夷川さんの予言は、たしかに正確でした。私はたしかに夷川さんと同類でした。一つ違ったのは、あいにく私には、白川通の美味しいラーメンを奢れるような後輩が、できなかったという点でした。
*
「びろうど」でごろごろ過ごした時間はたしかに貴重なものでありましたが、私はもう少し活動的になっても良かったのかもしれません。
「びろうど」のボックスだけでなく、左京の地全体が、ボックスのようなぬるま湯の雰囲気でみたされていました。何もしなくても大丈夫という暖かい空気に安心して身をゆだねられた反面、しかしこのありあまる時間を空費する贅沢を味合うには、私はまだ若すぎたのではないかとも思えるのです。体力がピークとなるいま、積極的に体を動かして汗を流す方が、有意義なキャンパスライフになったのかもしれません。
もちろん、『四畳半』の「私」が、どの並行世界でも自身の選択肢を後悔するのと同じように。どのような道を選んでいても、やはり結局は同じような、しようもない学生生活を送っていたことでしょう。そんな予感はするのです。
樋口師匠の「(…)我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性だ」「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはいけない(…)」という発言は、けだし名言です。
それでもたとえば、あの水曜日に読書サークル「びろうど」の新歓ではなくジョギングサークル「ネギトロ」の新歓を選んでいたらあるいはと、そんな無為で無害な空想を書き連ねるだけなら許されるでしょう。
『四畳半』の「私」は、どのような道を選んでいても、小津や明石さんと同じような関係を結ぶことに相成りますが。実際には、たとえ分かれ道の先で同じ人々と――たとえば夷川さんや御蔭さんと――出会うことになろうとも、その出会い方が異なっていれば、お互いの関係性も異なったものになっていたはずです。いや、人々だけでなく、出会う書物に対しても同じことが言えるかもしれません。印象的なそのうちの一冊、
(k+2)
『四畳半神話大系』に出会ったのは、大学二回生の夏、アルバイト先の古本屋でのことでした。私は既に家庭教師のアルバイトをしていましたが、いっぺん個人経営の古本屋でアルバイトをしてみたいと思っておりました。それゆえ一回生の冬に、サークル活動の終わりに疲弊して立ち寄ったこの本屋でバイトの募集を目にしたとたんに、一も二もなく飛びつきました。
(一回生の春、所属サークルに悩んだ私が選んだのは、ジョギングサークル「ネギトロ」でした。私は元来スポーツがひどく苦手――小学校時代のドッジボールが大きなトラウマとなっているタイプの人間――でしたが、浪人時代の運動不足で体力がガタ落ちしたのを痛感し、この四年間で運動を全くしないのはまずい、強制的に運動をする環境に身を置かねばと思い至ったのです。ひとくちに運動音痴と言っても、「持久走だけはついてゆける」タイプの運動音痴もいます。私はそのタイプでした。カジュアルにジョギングをするだけという「ネギトロ」の雰囲気も手伝い、私は周囲にコンプレックスを抱くことはなく、サークル活動ができました。しかしながら、お酒が苦手な私は――浪人していたゆえとうに成人していたのですが――サークルの飲み会のノリというものにあまり合いませんでした。次第にサークルとは疎遠になってゆきました)
この古本屋は、一般的な「古本屋」のイメージと同じくらいには古色蒼然とした趣ある書店で、立ち入った私の心を躍らせるには十分でした。
そしてこの古本屋は、一般的な「古本屋」のイメージと同じくらいには繁盛しており、つまり失礼ながら学生のアルバイトを雇う余裕があるのか心配になるくらいには暇であったのですが、ともかくも店の主が店を空けねばならない日には、私ともう二人の学生のいずれかが店番を務めることになっていました。
もう二人の学生とは、既に二年間務めていた夷川さんという名の法学部の三回生と、私と同時期に入った御蔭(みかげ)さんという名の工学部の一回生でした。
御蔭さんの性格は、四畳半神話大系でたとえるならば――四畳半神話大系のキャラクタでたとえるのは言うまでもなく無理がありますが――明石さんに近いと言えました。少なくとも悪友の小津や城ケ崎先輩や歯科衛生士の羽貫さんに比べれば、近かったと言えるでしょう。常ににこにこはきはきしながら、万事そつなく仕事をこなし、自らの意見をはっきり言う方であり、常ににやにやおどおどしながら、万事そそっかしく仕事をミスり、周囲の顔色を窺うだけの私とは、あらゆる面で正反対の方でした。
私は大学で幾人も、きわめて知的な学生に出会ったものですが、御蔭さんもまたその一人でした。会話の中で、私が一を考える途上に御蔭さんは十を考え終わって当意即妙な返答をし、また時には数秒ばかし沈思黙考して、私が三十分図書館にこもらねば見出せないような思慮に満ちた答えを返すのでした。決してひけらかさずとも、私が知っている程度のことは概ね知っておりましたし、その一方で知に誠実な人物の常として、自身の知らないことは即座に「知らなかったのですが、それってどういう意味ですか」と訊き返す方でしたので、私は迂闊に背伸びして聞きかじりの難解な語彙を衒おうとするたびに、自らを恥じ入るものでした。
「『ジェイン・エア』――良いですね。私はブロンテ、好きです」
「『たんけん!NEO 元素のひみつ』――良いですね。私は元素、好きです」
初めてアルバイトに入った日、御蔭さんは書架を練り歩いて目を輝かせるのでした。文学も科学も、ひとしく愛する方でした。
なお、もう一人のバイトの夷川さんは、二学年上の法学部の学生で、バイトに入りたての一ヶ月間、御蔭さんと私の研修を担当し、仕事のやり方と仕事のサボり方とを、その背中で示してくれました。御蔭さんは主に前者を、私は主に後者を、それぞれしっかりと吸収して研修を終えました。夷川さんと御蔭さんは同じサークルに所属しているそうでした。
「明日のサークルの準備面倒だな。サボるか」
「それは残念です。夷川さんの好きな本、私はだいたい好きなので」
御蔭さんは本を深く愛する方であり、そのような方々の少なくない割合がそうであるのと同様に、集団の中にいるよりも独りでいるときに安息を得るタイプと見えました。とはいえ御蔭さんにはひとり、紫明(しめい)さんという親しい仲の人がありました。
紫明さんは一学年上の美大生で、長い髪を群青色に染めた、とにかく格好の良い人でした。ガウチョと背負ったギターの似合う人でした。御蔭さんがシフトを交代する頃になると、紫明さんはしばしば書店の前にやってきて、御蔭さんと二人、談笑しながら、夕日を背にして大路へ去ってゆくのでした。それはたいそう画になる光景でした。書店に足しげく通う人の中には、恐らく御蔭さんとお近づきになりたいのではないかと思しき人の姿も見受けられましたが、紫明さんはその不届きな心を手折る絶大な抑止力になっていたことでしょう。屈強なアメフト部員よりも遥かに強力な。
(ちなみに、かつての大学の春の風物詩の一つは、北方のグラウンドから南下してくるアメフト部の筋骨隆々の学生が、構内のあちこちの駐輪場で待ち構え、新入生と目が合うたび、文字通りあらゆる新入生に、勧誘を試みるという光景でした。アメフトはおろかスポーツと明らかに無縁であろう学生をも、あるいはマネージャー業務にまったく興味を示さない学生をも、見割かないなしに引きずり込もうとする彼らを疎ましく思う新入生も少なくなかったものの、露骨に選り好みをして声をかけるサークル――たとえばテニスサークルのうちの飲みと交遊の激しいサークル群――などよりも、私は好印象を抱いておりました。また、満面の笑み(目は笑ってない)を美しい顔に張り付けて、気さくにアンケートをお願いしてくる新興宗教団体の勧誘とは違って、アメフト部の新歓に参加しても、とりたてて危険は無かったはずです)
店番に入るアルバイトは基本的に一人だけだったので、私が書店で御蔭さんと顔を合わせるのは、シフトを交代する時間のみでした。私が店に入るといつも、御蔭さんはレジの椅子に座り、楽し気な表情で手持ちの文庫本を読んでいました(書店のアルバイトはきつい肉体労働とよく言われますが、この古本屋ではアルバイトがすべき仕事は多くなく、お客のいないときには本を読むことさえできました)。私がレジの前に立つと、御蔭さんは文庫本から顔を上げ、私を見て「ああ、もう時間でしたか」と寂しそうに微笑んで呟き、にこやかに会釈をしてすぐに去ってゆくのでした。
そして二回生の夏休みのある日、暴力的なまでに暑く蒸した道をふらふらで歩き、古びたクーラーで冷えた書店になんとかたどり着いたとき、このときも御蔭さんはじつに涼しそうに頁をめくっているのでした。
普段の私はいちいち、御蔭さんが手にしている文庫本の表紙を盗み見て「なんの本ですか」などと引き留めることはしませんでしたが――これは私自身が読んでいる本について他人に問われることに気恥ずかしさを覚えるからであり、また御蔭さんが日ごろ私に対して儀礼的無関心を保っていたからなのですが――このときは思わず、「それ、『四畳半神話大系』ですか?」と声を上げてしまいました。
『四畳半神話大系』。私はその本の名前だけは知っていました。初めて知ったのがいつだったかはとんと覚えていませんが、仰々しくも慎ましいそのタイトルと華麗な表紙は、私の印象に強く残るものでした。
京都の大学を舞台にした小説ということで、私の周りにも読んでいる人は大勢いましたし、大学生協の書店にも平積みに売られていました。
御蔭さんは「やっぱり読んだことありますか」と嬉しそうに言いました。私が名前を知っているだけで読んだことはないと正直に答えると、御蔭さんは「とても面白いですよ。私はもう読んだので、良ければどうですか」と貸し出してくれました。
私はその日の晩のうちに『四畳半』を読み終えてしまいました。二回生ともなるとキャンパスライフの限界を悟るものですが、それでも虚構は楽しいものです。次のシフトで御蔭さんと書店で会った際に、とても面白かったですとお礼を言って返すと、御蔭さんは笑って、「小津君、良いですよね。私は小津君目線で読んでしまいます」と言いました。
性悪な小津は、『四畳半』のキャラクタの中でも最も御蔭さんと縁遠い人物だった気がしたので、私は思わず理由を尋ねました。
「だって、主人公の『私』への愛情が、どこまでも健気じゃないですか」
御蔭さんは即答しました。たしかにどの話でも「私」と小津の運命の黒い糸は物語の始めと終わりで強調されますが、私はおもに「私」と明石さんの関係性を重んじて読んでいたので、適切な返しが思いつかずに、小津といえば小日向(こひなた)さんという恋人がいるのは意外でしたと、とりあえずの感想を述べると、御蔭さんはあっさりと言いました。
「小日向さんは、小津君と『私』が飽くまで『友愛』で結ばれていてそこに恋愛や性愛が介在していない、ということを作者が読者に明示するために置かれる一種の記号ですよね。古くからある技法です。小津君の『恋人がいる』という『ステータス』を示す意味もあるでしょうけれど」
そのうえでテクストを味わう自由も感情移入する勝手も読者に与えられているだろうと思っていますと、御蔭さんは唇の端に薄い笑みを乗せました。樋口師匠と羽貫さんのように、画一的でない人間関係も描かれていることですし。私は小日向さんを記号と断ずる御蔭さんに驚きながら、それでは明石さんはと問うと、御蔭さんは「『私』の行動原理が明石さんであるといっても、やっぱりあの話は『私』と小津君の物語ですよ」と答えるのでした。
私はあの本は、やっぱり「私」と明石さんの物語ではないかと思いましたが、そう答える気概はありませんでした。そしてそのまま紫明さんと連れ立って、弾ける笑顔で店を去ってゆく御蔭さんを見送るのでした。
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家庭教師のアルバイトやこの古本屋のアルバイトで得た体験はたしかに貴重なものでしたが、学生生活の思い出がそれだけというのも寂しいものです。学生らしく、サークル活動に精を出すのが良かったのかもしれません。そうすればキャンパスライフはもう少し色濃いものになったのかもしれません。思い返せば「ネギトロ」では、飲み会に参加しなければならない空気も、飲み会で飲みを強要する空気も一切ありませんでしたから、そもそも私は身体を動かすのが性に合っていなかったのです。私は高校の部活動でも音楽をやっておりましたから、大学でも引き続き音楽を続けるのが良かったのかもしれません。
もちろん、『四畳半』の「私」が、どの並行世界でも自身の選択肢を後悔するのと同じように。どのような道を選んでいても、やはり結局は同じような、しようもない学生生活を送っていたことでしょう。そんな予感はするのです。
樋口師匠の「(…)我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性だ」「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根元だ。今ここにある君以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはいけない(…)」という発言は、けだし名言です。
それでもたとえば、あの火曜日にジョギングサークル「ネギトロ」の新歓ではなく軽音サークル「MEATS」の新歓を選んでいたらあるいはと、そんな無為で無害な空想を書き連ねるだけなら許されるでしょう。
『四畳半』の「私」は、どのような道を選んでいても、小津や明石さんと同じような関係を結ぶことに相成りますが。実際には、たとえ分かれ道の先で同じ人々と――たとえば夷川さんや御蔭さんや紫明さんと――出会うことになろうとも、その出会い方が異なっていれば、お互いの関係性も異なったものになっていたはずです。いや、人々だけでなく、出会う書物に対しても同じことが言えるかもしれません。印象的なそのうちの一冊、
(k+3)
『四畳半神話大系』に出会ったのは、大学三回生の初夏、外出自粛で自室に引き籠っているときのことでした。
この前の冬より始まったこの疫病で世間が重い緊張の雰囲気に包まれる中、買い物をしてご飯を食べて洗濯をして排泄をするだけの生活を送っているある日、紫明(しめい)さんという、一学年上の軽音サークルの先輩からラインが来ました。
(一回生の春、所属サークルに悩んだ私が選んだのは、軽音サークル「MEATS」でした。「バンドをやればなんか青春キャンパスライフ送れそう」という不純な幻想を抱いて入会したわけではありません――その手の幻想は高校時代の軽音部で既に打ち砕かれていました。運動が苦手な者が和気藹々とサークル活動をするには、やはり音楽が手ごろだと感じたからです。昔からギターを練習していた私は、活動で周囲の足を引っ張ることはないだろうと考えていましたが、しかし周囲のレベルが存外に高く、練習が面倒になるうちに、次第にサークルとは疎遠になってゆきました)
この誘いは、軽音サークルのオンライン新歓でバンド演奏の動画を撮影するので、一緒にリモート演奏しないか、というものでした。申し出はありがたかったのですが、丁重に断りました。紫明さんとは一時期同じバンドを組んでいましたが、技術レベルの違いや私の本番での失敗から申し訳なさを感じていたのです。ギターにとんと触っていないことでしたし、またも紫明さんの足を引っ張るのは避けたかったのです。
紫明さんは引き下がってくれましたが、「なんかずっと引き籠ってなんもやってないのって『四畳半神話大系』の最後みたいじゃね」と書かれました。
『四畳半神話大系』。初めてその本の存在を知ったのがいつだったかはとんと覚えていませんが、仰々しくも慎ましいそのタイトルと華麗な表紙は、私の印象に強く残るものでした。
京都の大学を舞台にした小説ということで、私の周りにも読んでいる人は大勢いましたし、大学生協の書店にも平積みに売られていました。
名前を知ってるが読んだことはないと答えると、「読んでたのかと思った、どうせ暇なら読んでみたら」と勧められました。
私はその日のうちに電子書籍を購入し、絶望しながら読みました。三回生といえば大学生活も折り返し――いや折り返しと書けばまだ半分もあるように思えますが、就活なり院試なり研究なり卒論なりで前半二年ほどには気ままに過ごせません。そのうえ疫病で先行きが見えない情勢、キャンパスはずっと閉ざされ、大学生は顧みられることなく世間から隔離されています。「私」が小津や明石さんや樋口師匠や城ヶ崎先輩や羽貫さんなどと繰り広げる滑稽な日常は、今の私にはとても。しかしそれでもいつの間にか読み終え、さっそく紫明さんに面白かったとお礼のラインを飛ばすと、紫明さんは疫病が鎮まってきたらまた会おうと言ってくれました。
***
紫明さんの性格は、『四畳半神話大系』のキャラクタでたとえるならば――いや、四畳半神話大系のキャラクタでたとえるのは無理がありました。少なくとも悪友の小津や水もしたたる城ケ崎先輩や歯科衛生士の羽貫さんや謎めいた占い師ではないと言えるでしょう。
紫明さんは長い髪を群青色に染めた、美大で日本画を専攻している人でした(私の所属する軽音サークルはインカレサークルで、近隣の同志社大学や京都府立大学をはじめとし、北は京都産業大学から南は京都女子大学、東は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)から西は京都市立芸術大学に至るまで、市の様々な大学から学生が集って活動していました)。
紫明さんは画力のみならずドラムの技術があまりに高く、その他ギターを弾いてもマイクを握ってもサークルを運営させても、もろもろ八面六臂の活躍をし、老若男女問わずファンが大勢おり、しかしファンを食い散らかすなどの浮いたゴシップが一切ない、とにかく格好の良い方でした。
先ほど『四畳半』のキャラクタでたとえがたいと書きましたが、その有能さは小津に重なり、その後輩に慕われる様は城ケ崎先輩に重なり、闊達とした快活さは羽貫さんに重なり、サークルの明日を切り開くその姿は「私」を導く占い師にも重なり、しかし小津と異なり邪気は無く、城ケ崎先輩と異なり後輩を漁ることなく、羽貫さんと異なり酔っても人の顔を舐めたりせず、占い師と異なり数十年若く、その他「私」と明石さん含め、種々の登場人物の上澄みをすくいあげた方であったと言えるかもしれません。
私がこの軽音サークルに入るきっかけも、その一つは紫明さんでした。新歓ライブに足を運んだとき、じつに楽しそうに笑いながら、自在にスティックを回して、その細腕からは信じられないパワーでスネアドラムとハイハットとシンバルを高らかに歌わせる、紫明さんの演奏に耳を奪われたのでした。
その日の新歓コンパは――私はこの時期にできるだけ多くのタダ飯にありつくことを目標としていました。むろんタダ飯などではなく一年後の前借りだということに気づいていなかったのですが――今出川通のインドカレーの店「RAJA」で行われ、私はたまたま紫明さんと同じテーブルに着くことになりました。
その席で紫明さんは、隣の夷川さんという上級生と、このサークルの汚点や大変な点を笑顔で積極的にあげつらっていました。この態度は新入生を歓迎する側としていかがなものかという指摘が上がるかもしれませんが、私はむしろ、サークルの美点や楽しい点だけを並べ立てて強引に勧誘しようとしない姿勢に好感を抱きました(単にこのサークルが人数に困っておらず、私がサークルに入ってほしい人材でもなかったからという事情にすぎないのかもしれませんが)。
紫明さんはナンをお代わりして、スプーンですくったチキンマサラをナンにかけながら私に言いました。
「このサークルに入らなくても良いから、北白川の福楼夢(ふくろうむ)ってラーメン屋は行きなマジで」
私はその時点で「MEATS」への入会を決めました。福楼夢に行くのは半年先になりました。
そして二回生の十一月の学園祭の折、私は紫明さんと同じバンドを組んで出演する機会がありました。私はこのとき既にサークルとは疎遠になっておりましたし、紫明さんは相変わらず雲の上でしたので、二回生の夏に紫明さんが共演を誘ってくれたときには――紫明さんは信じられないキャパシティでもって他にいくつもバンドを組んでいたとはいえ――心底驚きました。
「夷川さんがベースで、もう一人新しく入った御蔭(みかげ)がボーカルでオリジナルのバンドやるから、土手町もギターで一緒にやろうぜ」
「えっどうして私なんですか、力不足ですよ」
「夷川さんも御蔭も土手町も、私以外みんな白川通沿いに住んでるから」
私が昨年の春に元田中(もとたなか)や出町柳(でまちやなぎ)や下鴨(しもがも)あたりに居を構えなかったことは幸運といえました。
なお、御蔭さんというのは、私と同じ学年の工学部の学生で、このバンドの助っ人として紫明さんが呼び寄せ、二回生の後期からサークルに入会したのだそうでした。紫明さんはドラムボーカルをやることさえありましたが、私より全然歌上手いから呼んだとのことでした。
(また、夷川さんというのは、二学年上の法学部の学生です。それ以上のことはとりたてて語ることもありません。夷川の字を見て私が思い出すものといっても、ほとんど何もありません。強いてあげるとするならば、遠い修学院の下宿の、煙草の香のしみついた壁紙、賞味期限前後の食材すべてぶち込んだ闇鍋、徹夜麻雀で四暗刻(スーアンコウ)を振り込む羽目になった一索(イーソー)の捨て牌、ショパンのピアノ曲によるアラーム音、東向きの窓の癖に向かいの建物に遮られてろくに差し込まない朝日、やけに水圧の小さいシャワーヘッド、春の木屋町(きやまち)の安いカクテル、夏の大原三千院(おおはらさんぜんいん)に至る長い長い登り坂、秋の高野川(たかのがわ)の岸辺と缶チューハイ、冬のキャンパスの喫煙所、そんなものばかりです。あとはあまり思い出したくない若気の至りのあれやこれや。煙草はもう辞めました)
紫明さんに誘われて入ったこのバンド「モラトリアム北白川」は、紫明さんのドラムは言うまでもなく、夷川さんもベースの技術もリズム感覚も無駄に優れており、御蔭さんも澄んだ声を譜面通りに正確に冷静に調音させながら情感きわめて豊かに熱を乗せて響かせていましたから、私は足を引っ張らないよう必死で練習しました。夷川さんが曲を、紫明さんが詞を書いたオリジナルの歌の数々は、そのバンド名の通り、牧歌的でありながら焦燥に満ちた学生特有の心理全開のものでしたが、私の素人耳と身内贔屓を抜きで考えても心揺さぶられるものでしたので、これを上手に奏でたいという思いもありました。卒業要件を勘定しながら単位の取捨選択をはかりましたし、河原町の京料理のアルバイトも生活できるギリギリにシフトを減らしました。
九月からバンド練習が始まり、十一月には私の完成度もバンドとしての完成度も、ある程度の形になったと自負できるものになりました。学園祭前になると、数多の軽音サークルの数多のバンドが市内のスタジオに殺到します(キャンパス内の普段の練習場所が明け方までフル稼働しますが、それでもとてもバンド数の需要に応えられないのです)。河原町今出川(かわらまちいまでがわ)であろうと四条河原町(しじょうかわらまち)であろうと出町柳(でまちやなぎ)であろうと北山(きたやま)であろうと、スタジオの予約を取れるのが日付が変わった後というのもざらでした。そして合わせが無事に終わったら北白川のラーメン屋「あけぼの」で(ここは明け方三時まで営業しているのです)、チャーシュー麺を四人揃ってすすったものでした。
いよいよ学園祭の前日には、紫明さんがデザインした簡素にして高雅なTシャツ――真白の地に左京を映した水墨画と「モラトリアム北白川」の行書体が流れる当日の衣装を眺め、私の心は高らかに弾みました。大学一回生の春ほどに高く。
「土手町さん達のバンド、マジで楽しみにしてますよ」
歌声の魅力的な後輩の鞍馬口(くらまくち)さんも、恐らくバドミントンサークルの模擬店のケバブの準備やら科学の自主ゼミの会場設営の合間やらを縫って、リハーサルの後に私に近寄って声をかけてくれました。
学園祭は、私がこの大学を志望したきっかけの一つでもあります。高校のときに私は学園祭に訪れる機会がありました。キャンパスを目の前にするまでは、精々、高校の文化祭に毛が生えたものだろうと思っておりました。
蛙の唐揚げに鰐やカンガルーやラクダの肉。折り紙同好会の巨大な恐竜。海外の密林で一人で撮影したゴリラの写真が一面に並ぶ部屋。金を払ってビンタされる店。ドロドロのサークルクラッシュをしたためた部誌。ケルト音楽の調べ。動画サイトのダンスのコピー。ひっそりとした区域にいけば、宗教系の団体や現役の学生がほとんど所属していないのではと思しき怪しげな団体が屯する。グラウンドの端には吐瀉物とともに寝転ぶ、飲みサーの学生。
わけのわからないカオスな雰囲気に吞まれながら、それぞれの学生生活に思いをはせて圧倒されました。そしてこれほど多くの人々が、それぞれ胸に抱えた偏執的なモノを一切ためらわずに曝け出しているということと、その偏執が、玉石混交であれときに人をいたく感嘆させる域にまで結晶しているということに圧倒されました。
この混沌としたジャングルで――砂漠とも草原とも田園とも都市とも違う、ほとんど誰も私を気に留めないでくれそうだしそれでも誰かが私を見てくれそうなこの場所で、私の心に溜まった何かを、声枯れるまで叫びたい、という思いで満たされました。
しかし大学一回生の文化祭は、自分の組んだバンドにもクラスの模擬店にもあちこちのサークルの手伝いにも目まぐるしく追われているうち、どれも不完全燃焼のままいつの間にか終わってしまいました。自分のキャパシティを重々受け止めた私は、二回生のいまは「モラトリアム北白川」に全力を注ぐと決めました。最も大学生活を謳歌できる大学二回生で、紫明さん達と学園祭の晴れ舞台で共演できることは、なんと素晴らしいことでしょう。
そうして満を持して迎えた学園祭当日、私は盛大にミスりました。緊張で一睡もできなかったなどの弁解の余地なく盛大に。三曲目「月面歩行」の小さなミスが尾を引いてか、四曲目「鴨川幻想」で最後のサビの三小節を丸々飛ばしました。頭が真っ白になり、私の指は止まりました。
演奏が終わって次のバンドに交替してすぐ謝る私に、紫明さんは笑って「気にすんなよ楽しかったありがとうね」と言ってくれましたが、御蔭さんも涼しく「土手町さんのギターのお陰で安心して歌えました」と言ってくれましたが、恐らく観客もサークルのメンバーも、私以外はほぼ誰も気にしていなかったと思いますが。肝心の舞台で紫明さん達の演奏や曲に泥を塗ってしまった事実は、私の心に消えることのないシミを残しました。
そして私は学園祭以降は、サークルに足を運ぶことはなくなりました。サークルを運営する代は二回生までであることと、疫病のおかげでサークル活動どころでなくなったことは幸いでした。
***
そして時が飛んで三回生の秋、災禍が少し鎮まってきた頃に、紫明さんと今出川通の「爽涼カフェ」で落ち合うことになりました。初夏にラインで『四畳半』を勧めた際の約束を、紫明さんは忘れていませんでした。午後一時に待ち合わせしていましたが、生活習慣が壊滅していた私は、「幻想即興曲」のアラームに叩き起こされてギリギリで店に滑り込みました。
紫明さんの鮮やかな群青色の髪は、黒に変わっていました。
「割と本気で、画家で食っていこうと思ってたけど。私にはこの道しかない、他の可能性は無いと小さい頃からずっと思ってたけど」
会話がしばらく進んで各々の現況の話になり、紫明さんはトマトカレーを口に運びながら、肩をすくめました。
「普通に就職することにした。大阪で」
紫明さんの口調は実にあっけらかんとしたものでした。
「美大の就職先となると、やっぱりデザイン系の職とか、なにかクリエイティブな職とかですか」
私が問うと、紫明さんは
「総合職。絵は特に関係ない」
と端的に答えるのでした。それは日本画専攻の紫明さんにとって容易ならざる道であったのかもしれませんが、尊敬の念よりも先に私は寂しさがこみあげました。
「紫明さんならミュージシャンでも食っていけるんじゃないですか」
半ば本気で私は言いました。紫明さんは即答しました。
「まさか本気で言ってるわけじゃないよな、そんな甘いわけないだろ」
それに音楽まで嫌いになりたくないし、と紫明さんは呟きました。
私は不意に、紫明さんが、私に欠落した輝きをみな投影できる偶像でないことに、気づいたのでした。有体に行ってしまえば、私は紫明さんがひとりの人間であると、そのとき初めて知ったのでした。
その後に何を話したかはあまり覚えていないのですが、一応はつつがなく会話は進行していたはずです。再び思い出せるのは、最後の部分のみです。
「ところで『四畳半神話大系』、紫明さんも読むんですね」
「御蔭に影響されて。『鴨川ホルモー』も『丸太町ルヴォワール』も、とりあえず京都の地名がつくものは読むようになった」
「意外です。七代前から洛中に住んでる紫明さんから見て、ああいう京都を舞台にした作品ってどうなんですか」
「作者にとっての京都みたいなものが見れてだいぶ面白いよ。その時代も見えてくるな、京都のまちも私の子どもの頃からずいぶんと変わってきちゃったし。そっちの大学も最近色々変わってきてるんだろ」
「悲しいことに」
「まあ、京都のまちとか大学とかがリアルなぶん、フィクションの部分が、たとえば城ヶ崎先輩と樋口師匠の自虐的代理戦争とか小津の悪行とか、もう犯罪だろみたいな感じで怖くなっちゃうけど」
「案外紫明さんも、普通のこと気にするんですね。髪が青だったのに」
「それは偏見。普通だからこそ私は染めてんの」
頃合いだしそろそろ出るか、と紫明さんは立ち上がってレジに向かいました。虚無感と自己嫌悪が渦巻いていた私にとってこのタイミングは幸いでしたが、後輩がしなければならない「いや自分の分は自分で払いますよ」と一応立ち上がってみせる例の儀式を行うのも忘れてしまっていました。店を出てから改めてお礼を言いました。
「気にすんなって。――そういえば夷川さんも、今五回生だけど、さいきん就職決まったらしいよ」
「そうだったんですね。それは何より」
「……」
「…………紫明さんは、ほんとに大阪で働くんですか。京都に残るつもりないんですか。御蔭さんは院に進むんでしょう」
「京都は好きだけど、別に大阪いても、こっちの人にはいつでも会いに行けるしな」
「……」
「まあ土手町も、頑張りや」
ふだん違和感なく関東に調整しているアクセントをそこで初めて関西に戻し、紫明さんはそのまま今出川通を西に下ってゆきました。
***
軽音サークル「MEATS」で得た経験はたしかに貴重なものでしたが、しかし振り返ってみれば得たものは、ギターの演奏の腕前のわずかな向上と、肺臓の汚れと、私には音楽が向いていないという自信のみでした。
サークルに励もうとするのでなく、たとえば学生の本分たる学問に励んでみようと試みるのも一興であったかもしれません。私が大学で勉学に励むことができなかったのは、環境があまりに自由だったからです。ある程度の強制力があれば、すなわち共に切磋琢磨し和気藹々と議論する仲間を得ることができれば、私は体系だった知を――この大学の研究者達の頭や図書館に収められた、無数の先哲が血を流してうずたかく積み立ててきたそれを、自らの血肉とすることができ、キャンパスライフは学費と時間を注ぐ価値のあるものになったかもしれません。
――なんてことを考えてもしょうがありません。私はずっと、京都の地と大学に、勝手にネバーランドの憧憬を投影して、現実から目をそむけていただけです。樋口師匠もたしなめるように、私はいい加減に、今ここにある私以外、ほかの何物にもなれない自分を認めなくてはなりません。今まで出会ってきた人々とだって、いま現在の関係がすべてで、他の可能性はありません。夢想や過去に囚われることなく、地に足をつけて前を向かなくては。
区切りをつけるために、とりあえずはスマホのゴタゴタを整理してみるのが良いでしょうか。写真フォルダ。メモ帳やSNSに記した日々の雑感。ラインのトーク履歴。などなど。
……。
……それでもたとえば、あの木曜日に軽音サークル「MEATS」の新歓ではなく、科学の自主ゼミ「無知」の新歓を選んでいたらあるいはと、そんな無為で無害な空想を書き連ねるだけなら許されるでしょう。
『四畳半』の「私」は、どのような道を選んでいても、小津や明石さんと同じような関係を結ぶことに相成りますが。実際には、たとえ分かれ道の先で同じ人々と――たとえば夷川さんや御蔭さんや紫明さんや鞍馬口さんと――出会うことになろうとも、その出会い方が異なっていれば、お互いの関係性も異なったものになっていたはずです。いや、人々だけでなく、出会う書物に対しても同じことが言えるかもしれません。印象的なそのうちの一冊、
(…)
・この感想文はフィクションです。エッセイではありません。実在の人物や団体等とは関係がありません。
・note公式の企画「読書の秋2020」の課題図書のひとつ、森見登美彦著『四畳半神話大系』で虚構感想文を書きました。
・各話をきちんと膨らませられず未完成になってしまいましたが11/30の締切に書けた時点のところまでアップしました。
・(追記:2022.3.31) 修正・加筆してアップしなおしました。なお、末尾と冒頭が繋がる構造に関してはジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』(未読)などを下敷きにしています。
・見出し画像:フリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)photo by 緋真煉
(クレジット表記は利用規約に従いました)
・筆者はラーメンが苦手なので京都でラーメンを食べずじまいでした。
・もしよければ、文章の参考のために、読後にこの感想文に関する簡単なアンケート(全十問・択一式)に協力くだされば幸いです。
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