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嗤う声 第一話

 荒涼とした大地の上に砂の男は生まれた。その身をさらさらと、風の乙女と共に流れ、流されるものだった。彼自身はその体が砂というだけで、他の人間と何ら変わりないと思っていた。しかし。砂の男が村々を通るたびその砂塵は人々の目をくらまし、店先の品物を台無しにし、干したばかりの洗濯物を汚し、家政を任された者は手間がかかるとため息をつく。勿論、砂の男には人々に害を与えるつもりなど、少しもない。単純に彼は人が好きだったから。人々の生命力あふれるしっかりとした肉体は、砂の男にはないもので。中でも人の笑う顔が好きだった。何故なら砂の男には顔などなかったからだ。
 だが。彼が通るたび人は顔をしかめ、憤り、嘆く。彼が望む顔を、誰一人として彼に向けてはくれなかった。彼が村を通る前には、乾いた涼やかな風の乙女が通る。灼熱の土地に住まう人々は風の乙女に安らぎ、穏やかに微笑むのだった。砂の男は人々のその美しく輝く顔にずっと憧れていた。

 誰かがおれに微笑んでくれるのなら。

 そう、強く焦がれていた。

 砂の男は今日も風の乙女に身を任せていた。その日彼が訪れたのは、誰もいない、死んだ村だった。自らの通る音だけがそこに響いている。ふと、盗賊にでも襲われたのだろう、身ぐるみをはがされ血を流して死んでいる、旅人らしき人間がいたことに気が付いた。風の乙女が砂の男をその旅人の元へと運ぶ。旅人の赤い血に砂の男のつま先が触れた。じわりと、砂が血を吸う。すると、どうだろう、砂そのものだった彼のつま先はみるみるうちに、人と同じ肉体を持ち始めた。ゆっくりと、すらりとした脛と固く張りのある太腿が現れる。旅人の血を得て、砂の男は両脚を得た。

 もっと血を得られたら、おれは人になれるのではないか。

 砂の男はそんな歪んだ考えを抱き始めた。
 砂の男は両の脚を得たことで、自分の意思で望む場所に移動することが出来るようになった。彼は初めて乾いた大地を踏みしめる。硬く、熱い褐色の土。男の脚は、その土と同じ色の肌をしていた。風の乙女が今度は、彼の指先を旅人の血だまりへといざなう。するとやはり同じように褐色の指が、手のひらが、腕がかたどられていく。指は節くれだってはいるものの、長く、美しい。砂の男は手の表裏をひらひらと何度も返し見る。その手を握り締めれば岩のようにしっかりとした拳になった。

 血が、足りない。

 旅人から流れ出た血はもう殆ど砂の男が吸い尽くしていた。両腕と両脚を得た彼は、血を求めて彷徨い出した。


 両腕と両脚だけの化物がいる。
 流れ者の男、エドウィンは、いつも通りふらりと立ち寄ったさびれた町の酒場で、そんな噂を耳にした。
「ここからちょいと西に行ったところに廃村があるだろう?そこにさ、いたんだよ。その、腕と脚しかない化物がさ。ふらふらっと彷徨って、かと思うと立ち止まって両手を握ったり開いたりしてるんだ。何をしたいのかちっとも分らなくってよ、それが余計に不気味だったぜ。」
 エドウィンは噂をしている男の話を一通り盗み聞きした後、飲み食いした分の料金をカウンターの上に置きながら立ち上がった。そして、男に向かって訊ねた。
「その廃村は、西にまっすぐ行けばいいのかい?」
「あ?まっすぐというよりは少し南寄りだが……。ちょっととは言っても歩きなら二時間はかかるぜ。今から行くと夜中だ。あんた今の話聞いてたんだろ?だったら行くのは止しときな。あれは何をするか分からんぜ。」
「おれは流れ者だからね。どこで死んでも、誰も困らない。」
 そう言ってエドウィンは屈託なく笑って見せる。噂話をしていた男は「いかれてる」とでも言いたげに、仲間と顔を合わせ、こめかみのあたりで人差し指をくるくると回した。それすらほほ笑みで受け流し、エドウィンは酒場を出て行った。

 頼りないランタンの明かりをかざしながら、乾いた大地を西へと進む。暗く静かで、辺りには風の音だけが響いていた。銀色の月の光は冷たく、しかし美しい。宝石のような星々はちかちかと瞬いている。化物を見に行くにしては、少しばかりロマンチックだなと、エドウィンは一人笑う。冷たい風が吹く夜中でも二時間も歩けば額に汗がにじむ。懐中時計を見て、もうそろそろだなと歩みを早める。しばらくすると焼け落ちたようにも見える、件の廃村が見えてきた。
「あれかぁ……。はてさて、手足の化物とはどんなものやら。」
 わくわくしながら村へと近づく。その途中で月が雲に隠れ、辺りは一層の闇に包まれた。エドウィンは目を凝らして闇を見つめた。何の音も、気配もない。しばらくして、ひゅう、とひどく冷たい風が吹いた。それと同時に月に掛かった雲が晴れ、白い月光が辺りを照らす。
 刹那、エドウィンは息を呑んだ。冷たい白い光に浮かび上がったのは、手足の化物ではなかった。
 旅人風のぼろの服に、緑色のマント。褐色の肌に砂色の、顎まである緩やかなウェーブのかかった髪。そして髪と同じ砂色の瞳と目が合った。ひゅう、とまた冷たい風が吹く。砂色の髪が揺れ、月の光を受けてきらきらと輝く。
 それはそれは、美しい人間だった。エドウィンは思わず声をかけた。
 「ねえ君、こんな所で何をしているんだい?」
 美貌の男は、ことりと首をかしげる。砂色の瞳は色を変えず、だが何かを思案しているようだった。

 人間だ。

 砂の男は、ぽかんとしてこちらを見ている、長い黒髪を後ろで束ねた男を見つけた。背が高く、がっしりとした体つきをしている。顔の造作の違いは砂の男には分からないが、平凡そうに見えた。薄汚れた、ぼろぼろの粗末な革で出来たマントを羽織っている。
 少し遅かったら見られていたかもしれない。偶然拾った錆びたナイフで、旅人の首を掻き切ったその返り血で出来たこの体を。みるみるうちに人へと化した、この体を。どうしたものかと砂の男が考えあぐねいていると、黒髪の男が口を開いた。
「ねえ君、こんな所で何をしているんだい?」
「……旅の途中、迷ってここにたどり着いた。」
 やや思案した後そう嘘を吐くと、なぜか黒髪の男は少し驚いたような顔をした。
「なんだ!やっぱり人間か!でもじゃあ僕と同類なんだな。それで、その足元の死体は?」
「分からない。物陰で休んでいたら叫び声がして……。暗かったからよくは見えなかった。」
「野盗に襲われたかな。この辺りは治安が悪いようだし。君は無事でよかったね。この人は可哀そうだけれど……。ともかく埋めてあげよう。君も手伝てくれるかい?」
 断っては怪しまれるかもしれない。そう思って砂の男は静かに頷いて彼の言葉に従った。廃れたとはいえ村と言う事もあり、埋める道具はすぐに見つかった。硬い土をやっとの思いで掘り返し、死体を埋めた。黒髪の男は両手を組み、少し盛り上がった土に向かって何かを唱えている。いつかの町で見た、「祈り」というものに似ている。そう砂の男は思った。そして謎の言葉を唱え終えると彼は立ち上がった。
「これでよし。さ、また野盗が来るかもしれない。早くここから立ち去ろう。君みたいなのは、余計に危ないからね。」
 そう言って、黒髪の男はいたずらっぽく笑う。この男も殺そうと考えていた砂の男は、その一瞬で、そうすることを止めてしまった。

 笑った……。

 砂の男の胸の内は、喜びでひどく震えた。それが、砂の男が、初めて人間から笑いかけられた時だった。
「ほら、何をぼうっとしてるんだ。早くここを出よう。二時間ほど歩くけれど、小さな町があるから、とりあえずそこに向かおう。こんな所で野宿はいけない。歩いてでも戻った方がましだ。」
 砂の男は、今度は素直に頷いて黒髪の男の横に並ぶ。二人は歩き出す。
「お前は……。」
「ああ、おれの名前はエドウィンだよ。エドって呼んでくれると嬉しいな。君は?」
 砂の男は困惑した。当然、名など無い。人々はおれを何と呼んだか。
「……砂塵ダスト。そう呼ばれている。」
「ダストかあ。通り名かい?」
「そんなものだ。」
 それで、とダストは改めてエドウィンを見返す。
「エド、お前の方こそどうしてあそこにいたんだ?」
 そう問いかけるとエドウィンは、今度は照れ臭そうに笑いながら
「手足の化物がいるって聞いたから、怖いもの見たさでね。結局いなかったけど。」
 そう言った。
 見られなくて良かったと、ダストは心からそう思った。そう美しくはない、けれどもきらめいて見えるエドウィンの微笑みを、乾いた目の端に捕らえながら。

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