とこやみカラス
夜が明けないままに、もう一週間。
日も出なければ星もなく…そんなある日。
「おはよう、今日も暗い空」
このあいさつにしては明るい声で、リンが歩いてくる。
その手になにか、光るものを見つけた美央が、さっそくたずねた。
「あら、なにか良いもの」
「うん、月をひろったんだ」
手のひら大の、金色に光る車輪のようなものを、人差し指でくるくるとまわしてみせた。
それは遠い昔の、木でできた荷馬車であったり、発明されて間もないころに見られたような自転車の車輪を思わせる形をして、その中心もまた、指が二本ほど入る小さな輪になっている。
真っ暗な、ほんとうに真っ暗な空にかざして楽しげな、歌い出しそうに遠くの月を望むまなざし。
「ああ、そうして見るとちょうどよい大きさ…満月だね」
美央もつられて、車輪を遠く夜空の上にあてがい眺めてみる。
ひろわれたと言われたその月はと言えば、空から消えてやはり一週間という、
そんなある「夜」のことだった。
キラキラ光る金の輪を、彼はたいへん気に入ったものらしく、それからいつでも指でまわしながら歩いているのだ。
リンの家は、獣医である彼の父が経営する動物病院の二階にある。問題のあの日、美央はちょうど、その病院にいた。
一週間前、夜の八時ごろ。
力なく横たわるカラスをはさんで、上目づかいにのぞきこむ美央と、リンの父がいた。
「まあ、助からんね」
というのが、美央がアズキと名づけ可愛がっているカラスの、今の状態だという。
「そんなはっきり言わなくたって」
「じゃ変えよう。助かるでもなし、助からぬでもなし」
ため息まじりにそっぽを向いた彼女は、その時あることに気がついた。
「なんだか暗くなったんじゃない」
「ああ、夜だからね」
と答えたのは、いつの間にか二階の自宅から降りてきていたリンだ。「そうじゃなくて」なかば聞き流して窓の外を見ると、ここに来る途中、確かに見たはずの星が見えない。三人で夜空を見上げて、それぞれに目線を走らせる。
「あ、ひとつだけ」
美央が見つけて、みなが同じほうを向いた、まさにその時、最後の星は落ちていった。
「月も流れたのかな」
リンがつぶやいて、部屋のほうをふり返ると、
白衣すがたでニヤリと笑う、父が立っていた。
怪訝そうに見守る子供たちのあいだをツカツカ窓際へ歩み寄り、どこか芝居がかった動作で窓を開け放つ。
この獣医は、すいこまれそうに暗く深い空に両手をつきいれて、こんなふうに言ったものだ。
ご覧よ、まるで歯車が抜け落ちたみたいじゃないか。
以来ずっと夜のまま。
美央が道でリンと会ってから、三日がたった。
その日は、ささやかながらも近ごろではめずらしい出来事に遭遇した。
「ほら、花が咲いてる」
友人と歩いていたとき、そう言われて目を向けたのは、街灯に照らされた公園の花壇。
「本当、なんだかずいぶん久しぶりみたい」
夜が明けなくなってからというもの、色んなことが進まなかったり変わらなかったりしているから、こんなことでさえ、めずらしく思われるのだ。
もしかしたら、なにか良いことがあるかもしれないと、そんな期待を胸に、病院に向かう。
なかに入ると、キンキンと甲高くもかすかな音が、時折消えきりそうになりながらも、ほとんど絶え間もなく鳴り続けていた。何の動物の鳴き声かと思ったら、そうではないらしい。
大きなけがをして入院中のアズキは、あいかわらずぐったりしたまま、かろうじてくちばしの動きで生きていることが分かる。獣医は「進まないね」とだけ言って、ほかの動物の世話で忙しそうにしている。とはいっても、どれも治療の成果が見える様子はないようだった。決して悪くなるわけでもない。「どうせ何もしなくても変わらないんだろうがね」と彼は独り言のようにつぶやいた。
何を感じているのか分からないけれど、そう言いながらも動物たちの世話をやめはしない獣医をこのときは好ましく思って、
「わりとさわやかに仕事しているじゃない」
ずっと幼いころからの馴染みから、思わず気安くも肩をたたくと、
「気をつけてお帰り。もう暗いから」
なんて言う。まだ午後二時だけれど。
キンキン鳴る音が近づいた。
外に出た美央に、「帰るの」とリンが声をかけにきたのだ。
「闇夜のカラスだね」
そう言ったのは、おそらく今日の彼女が黒い服を着ていたからだろう。彼の指先では、今も金の輪がまわっている。音をたてているものはこれだ。
いつでも暗いこの町を、健気にも照らそうとするみたいに、あわい光は回転とともに辺りへ散らされて見えた。
「いつもそうしているようだけれど」
「そう、楽しいよ」
なんとなく並んで歩き出した。
ちょうど美央の顔のとなり、少し元気のない、小さな月がいっしょ。
うつむいて歩く美央の目には自分の黒い服が映っている。だんだんとその色は暗い町と溶け合って、どこまでも広がってゆくよう。キンキンと音が響く中、ふたりの足音だけが聞き取れる。
「もう、着いちゃったよ」
リンの声で我にかえった。
「なんだかこわい顔してるね」
「そう、気がつかなかったけれど」
「心配してるの」
「まあね、明日も様子を見に行くつもり」
家に入る美央に、「だいじょうぶ、きっともうすぐ動き出すよ」とだけ言うと、リンは元来た道を帰っていった。
次の日、美央はリンに伝えたとおり病院に向かった。なかへ入ろうとしたら、鍵がかかっている。
「まだ開けてないのかな」
気がつくと、あのキンキン鳴る音が響いていた。(またやってる)
建物の裏手にまわって、のぞいてみようとしたところを、裏庭にいる獣医とはちあわせた。
「やあ、早いね」
「まあね、何もってるの」
暗くてよくは見えないが、彼は手のひらに何かのせて立っている。彼の足下にはシャベルがあって、さっきまで掘っていたのだろう、小さく穿たれた穴も見えた。
その様子に嫌なあせりが芽生えながらも、近寄ってみると、獣医の手のひらの上で小さなモモンガが置物のようになっていた。
「今朝方ね。うちで飼っていた子だから、庭に埋めてあげるんだ」
彼はそういいながら、モモンガをそっと穴の中に横たえて、上から土をかけ始めた。
そのささやかな儀式を終えた彼が、そこで初めて美央の方を見たとき、あまりに思いがけないものを見たような、こわばった彼女の表情に気づいて、
「裏口から入って、なかで待っているといい。リンはまだ寝ているが」
「え、起きているでしょう」
「いいや、この時間はいつもぐっすりなんだ」
「でも音が」
二人ともなんとなくだまったまま、二階の窓を見上げた。音の波に合わせるかのように、カーテンごしにも光が強まったり弱まったりを繰り返しているのが分かる。
美央は家に入ると、なかは明かりもついておらず、リンもたしかにまだ眠っているようだ。
ただ、あの金の輪がまわっていたこともたしかだ。今はもう、彼の手をはなれて、半ば宙に浮き上がるようにしている。音も光も、最初に見た頃より大きくなったように感じられた。
彼女がそれを見つめていると、やがて少しずつ回転を弱めて、部屋を照らしていた光も、それにつれて小さくなってゆくのが分かった。まるで、少しつかれた、とでもいった様子で、今にも止まりそうになったころ、リンがゆっくりと目を覚ましたのだった。
「あれ、何しているの」
まだ眠そうな目をこすりながら、かたわらに立ち尽くしていた美央を不思議そうに見上げている。美央はそれでも、リンの指先に戻り、今度は彼の指を軸にして回転を続けだした輪から目をはなせずにいた。
彼はその視線に気づいたのか、「近ごろ、元気を取り戻してきたみたい」と言いながら、自分の顔の前に持ち上げて見せた。
彼がまわしているのか、ひとりでにまわり始めているのか、美央にはもう、よく分からなくなってきていた。
予感というものがあるのなら、彼女ばかりでなく、町中の人々のあいだに、そんなものが生まれだしたのかもしれなかった。それはたとえば、もうずっと変わらないかのように思われていた暗い空を、ふと立ち止まって見上げたりするような瞬間に感じられた、そわそわした気持ちのおくに息をひそめていたのにちがいない。
そして、そんな予感を胸に今、美央はカラスを見守っていた。
手は尽くした、とリンの父は言う。
ずっと傷は癒えず、眠ったように良くもならず悪くもならなかった。それがこれから、どちらかへと転ぼうとしているんじゃないかと、そう思われてならない訳は、誰にも分かってはいなかったけれど、獣医も美央も、リンもそろってここにいる。
ただ、今日の美央には、リンが片時も手放そうとしない車輪が気になってならなかった。「止めてよ」と言ってみたが、彼は聞こえないふりをした。
獣医は包帯を外して傷口を確かめていた。なぜか塞がることのなかった傷が、どうなっているのか診ているのだ。そして何か変化を見つけ出したものらしい。
「これからがヤマかな」
包帯を巻き直しながら、そうつぶやいた。カラスはこれまでになく痛そうに、にぶい声をあげてもがいたかと思うと、パタとたおれて、また動かなくなった。
ここしばらく、時間の感覚はおかしくなっていたから、時計を見ない限りは、昼と夜の区別すらむつかしい。自分の家に一度帰ることにして、外を歩き出したとき、時計の針は十一時をまわっていた。もちろん、午前のだ。
夜、また病院へ行こう。
ただなんとなく安心していた昨日までのようではない。あせっている。
彼女には、今何かがまわりはじめたような気がしているのだ。
時計の針や、脈うつ心臓、それにあのリンがまわす金の車輪。それらと同じようなリズムで、そしてもっともっと、目にもうつらないくらい大きなものが。
誰もがそれをよろこんで迎える。どうしてか彼女は不安でならない。
早めの夕食を終えた頃、家のなかでキンキンと、耳をかすめて鳴ったように思われて、美央は窓の外を見た。
リンが近くに来ているのかと思ったら、そうではないらしい。
(ここまで聞こえるなんて、はじめて)
時間は午後六時。診療時間を過ぎてから、と考えていたけれど、やはり待てなくなった彼女は、リンの家に向かった。
途中、立ち並ぶ家々では、窓を開け放して空を見上げる人をよく見かけた。まるで何かを待っているみたいに。
歯車、とリンの父が言った。そのせいだろうか、大きな大きなからくり時計のような町、そのなかで暮らす私たち。そんなものをぼんやりと思い描きながら、彼女は道を急ぐ。かたまっていたサビが、空からふりかかってくるようで、しきりに頭をふった。
その時ほんとうにふってきたのは、街路樹の落とした小さな実だったけれど。
病院に着くと、ただの灯りではない、強い光が辺りを照らし出していた。
ひときわ大きく、耳が痛くなるほどの音が響いていた。
リンの指に、金の輪は浮き上がりそうな勢いでまわっていた。
「やあ、いらっしやい」
獣医がなぜか興奮ぎみに出迎えた。
その声に圧されて、「ええ…」とあいまいに答えながら中に入る。
アズキはまだ目を覚ましてはいなかった。しかし苦しそうだ。今はカゴの中で、横たわっている。
その前に陣取って、美央はじっと見守った。獣医はカラスにばかりかまっていられるわけではないから、何かと動き回っている。
リンが美央のとなりに座って、いっしょにアズキを見ていた。「どうだろうね」と言っている間も、輪がまわり続けている。食べている時くらいしか止まらないんじゃないだろうか。ひょっとしたらこのままで食事しているのかもしれない。
「ねえ」
彼女はたまらず言った。「それ、止めてよ」
「いやだ」
「え」
あまりにきっぱりと拒むので、聞き違えたかと思ったのだ。
「止めてってば」
彼女はむきになって彼のうでをつかもうとした。彼はその手をかわして立ち上がり、はなれてしまった。
灯りのついた診察室の中でもまぶしいほどに、金の輪は輝きを増している。
リンは窓を開けて「もう、いい頃合いか」と言った。
「どうするの」
美央が問いかけても、返事さえしない。そして彼女は、リンの指がもう動いていないことに気がついた。たしかに今は、ひとりでにまわっているのだ。
そのまま、窓の外へと、彼は輪を投げ捨てた。美央が止めようと駆け寄ったけれど、間に合わなかった。
小さな金の光をまきちらしながら、あっという間に遠ざかる。
町のあちこちから、歓声が上がった。
空のかなたへ、まわりながら飛び去った輪を目で追いながら、「もうだめ、リンのばか」
肩をおとしたところへ、
「おおい、君のカラスが目を覚ましたぞ」
と獣医の呼ぶ声がした。
大事をとって、もう一晩、病院であずかることにするが、もう大丈夫、と獣医が言い切ったので、美央は安心して帰ることができた。リンが「いっしょに行こう」とついてきた。
外は相変わらず暗い。けれど明日になれば、まちがいなく明けるのだろう。
通りでは、ぞろぞろと、人々が歩きまわっている。いつの間にか夜空に戻った星月をながめにでも出てきたものか、無言ながらも、何となく浮き立った様子で、夢のようにフワリフワリと彼らは歩く。
そんななかをふたりで歩きながら、美央はたずねた。
「ねえ、獣医の息子だもの、わかっていたんでしょう、治療すれば元気になるって」
リンは、とても意外なことを言われたように「知るワケないでしょ!」
困った様子の美央をおいて、気持ちよさそうに足を速めて、今は何もない指先をくるくるまわす仕草をしながら先をゆく。
「たしか、いっしょに帰ろうって言わなかった」
美央は「ホントに…親子そろってわけわかんない」とぼやきながら、追うでもなく歩いていた。
知らないひとのような背中は、空を見上げて、月へ向かうもののように、はずむ足取りの鼻歌まじり。
月映えの夜道、ほんとうに楽しそう。
まわった、まわった
月の輪、夜空にほのひかる
星をお供の金のくるまだ
明日をたぐって、僕らをさそって
つかれたら降ってくるだろう、あの海へとびこんで眠るだろう
日も月も星も、あの空も
ずっと先たとえば明日
その日までみんなまわる、僕もまわる