寄り道タ・タ
人通りも途絶えて舗装もされず、ただ真昼のかげひなたにだけ忘れられずあるような小路へと気まぐれに折れた頃から、薫太の背中は後をついてくるものの気配を感じ取ってはいた。
振り返っても、何も見えない。
微かな足音は、しかし次第に、確かになってゆく。
そして彼の足下にまで迫ってきた時、見下ろした先に映ったものは、忙しなく動く四肢を持つ小さな生き物だった。
薫太の一歩一歩に離されまいとするかのように駆ける姿は、その大きさから考えられたネズミの類いとは明らかに違うもので、顔先に伸びた長い鼻を見るに、どうしてもこう言う他はないのだった。小さな、小さな象。
うっかり踏みつけてしまいそうに、すぐ足下を走る象のため、薫太は追い立てられるように足を速めた。道は真っ直ぐ、長く見えた。再び見下ろすと、象は数頭に、やがては十数頭に、薄らと立ち上る砂埃の中を群れなしていた。
影のなかから生まれ出てきたようだ。薫太にはそう思われた。
彼はさらに急ぎ足になった。この道を抜けさえすれば、象たちは消え去るものかもしれなかった。
左右を板塀が隔てた道は、彼がどれ程急いでも、終わりを見せる事がなかった。曲がり角さえない。次第に、象の群れは地響きを立て始めた。薫太の腰辺りに、長い鼻先が届いた。
彼は走り出した。象たちは大型犬ほどの大きさになっていて、彼の周りを囲みだした。道はまだ終わらない。
群れはやがて、薫太の視界をすっかり遮ってしまった……これこそ象だという、巨な身体に囲まれて、彼は必死になって走っていた。今や踏み潰されそうなのは自分の方だったから……僅かにも遅れるわけにはゆかない……息を切らして、もう駄目だ、もっと速く……と、手をついて走った方が速いように思われて、そのようにしてみた……地面が震える音が全身に伝わって、骨が皆砕けてしまいそう……堪えながら、走る、走る……
薫太が、象になった自分に気づくまでには、ずいぶんな時間があったし、周りの象の背中越しに見も知らない荒野が広がるのを確かめたのも、それからの事だったのだ。
鼻や耳がだらりと重く感じられて、無性に腹立たしい。
特に鼻は走るのに邪魔になって、無駄な力を必要とした。
薫太は群れの中では身体が小さい方で、つまりは子象というわけだ。
ついてゆくのは大変ではあったが、やがて足運びにも慣れてきて、他のどのような音をも遮るような大音響と一体となって駆ける薫太は、まさに象そのものだった。
象たちは何処へ行こうとしているのだろう。
群れを率いている先頭の象を見ようと、少しずつ前へと移動してゆくと、そこに一際巨大な一頭を見つける事ができた。
煙り立つ砂に汚れた体躯が時折燐光のような蒼みがかった輝きを纏う様は、薫太をして眼前に夜空が広がるのを見るがごとき心持ちを抱かしめるのだった。
象の王様だ。額にはまるでもう一つの目でもあるかのように、紅玉のような石がのぞいている。王である証でもあろうか。
不意に、行く先にある岩陰からばらばらと、人影が飛び出した。彼らは手に手に槍のような得物を握っており、その姿はどこの国の人間かも窺い知れないが、明らかに戦闘的な意思をこちらに向けているように見えた。
その数は二、三十ほどだろうか。薫太は危険が迫っているのを感じて身体を強ばらせたが、群れはその行く先を変えることなく駆け続ける。
王が咆哮した。
群れはそれに奮い立ったように首を振りながら続く。
投石が始まった。象たちの堅い皮膚を傷つけるほどの力はないものの、視界を遮られてその足を鈍らされ、その間に人間達はまわりを囲うようにして槍先を向けてくる。王が鞭のように鼻を振るうと、一度に数人の身体が跳ねとび、他の象たちに踏み潰された。それでもなお、人間たちの顔に恐怖は浮かばない。命を落とすことなど指の一本傷つくほどにでも考えているのか、次々と槍を突き出してくる。
不思議と薫太は理解していた。人間たちは象牙を得ることを目的としており、その対価が莫大であるがゆえに命を賭けて挑んでくるのだと。
群れは血に酔ったように駆け抜け、薫太の思考もまた、次第にその熱狂に同調してゆく中、懸命に群れの速度に食らいつく。不意に突き出された槍が彼の後ろ足を薙いだ。直後にその人間は別の象に弾き飛ばされたが、薫太は数歩進んだ後、足がもつれて横倒しになる。
群れと人間たちがすれ違いざまの狂騒を終えると、人間たちがそれ以上追ってくることはなく、生き残った者たちは槍を杖にしながら去った。
薫太が倒れたまま首を持ち上げるように群れの方を見ると、王と視線が合った。群れは今や一様に、凪のように伏し目がちな面を向けて彼を待っていた。
身体を起こし、血と土が混じって粘ついた足を引き摺りながら歩み出す。視界がかすみ始めるのを感じた。離れてじっと待っている象たちの輪郭がはっきりしない。それでも群れに近づこうと一歩ずつ足を踏み出す度、そのぼやけたひと塊の輪郭は、近づくどころか遠ざかってゆくかのように、徐々に小さくなって、薫太の目線の下へ下へと降りていった。
薫太が二本の足で小路を歩く自分に気がついた時、彼の目に映ったものは、右の足首についたかすかな傷と、足下を走り抜けてゆく一筋の乾いた砂埃だった。