糸つむぎの町
空を歩いている男を見た。はじめはそんな噂からだった。
タキシードにシルクハットという姿でステッキを片手に持った男の目撃談が、たびたび町の人々の間で語られるようになった。
その男は言葉を発することはなく、声掛けに応じることもない。まるでたまたま目に見えているだけで、違う世界に生きている人間のようだったという。空の上を、足元に道があるかのように歩いている姿を遠目に見たという人もいれば、いつの間にか頭のすぐ上まで近づいていた男が通り過ぎていく後ろ姿をぼんやり見送ったという人もいる。しかしそのうちに、誰かが気づいた。
あれは宙に浮いているんじゃない。綱渡りをしているんだ。
そう気づいてみれば、いつの間にか町の上空には、数えきれないほどの糸が張り巡らされていたのだった。
朝の光が町をつつめば、その光は地上へ届くよりも前に、家々の屋根の、その上あたりをめまぐるしく跳ね回ることになる。
はっきりとは見えない。
釣り糸にも似た、細くて透き通った糸が、地上から十メートルくらいの空中、あらゆる方向に張られている。それが陽の光をやたらにきらめかせているのだ。
そんなキラキラした明け方の町を、美央は歩いていた。
今日はわたしの生まれた日
それともこれから生まれる日
過去と未来が行ったり来たり
私のこころも行ったり来たり
誰にも言わない、瞬きの記憶
知らず知らず、勝手な言葉が口をつく。ひとけのない、いつもの町をひとりあるき。
美央はまだ噂の男を見たことがない。
糸を張っているのが、まるで奇術師かサーカスの芸人のように見えるというその男であることは間違いない。
不思議なことには、その糸のすべてが、どこからきてどこまで伸びているのか、全く分からない。まるで地球を一周しているんじゃないかと思えるくらいに、果てしなく伸びている。
美央はやがて、公園までやってきた。
そこかしこで心地よい木陰を提供してくれている木々の中には、空の糸よりも背が高いものも多い。
彼女は公園の芝生を囲む遊歩道に並んだベンチのひとつに腰かけると、空を見上げた。 ああ、また糸が増えたみたい。
そんな美央の目に、いきなり男の姿がうつりこんだ。
それまで気が付かなかったのは、男が木々の間から飛び出すように出てきたためだ。
タキシードを着た空を歩く男。あれがそうだ。
その時、男が足を滑らせた。(あぶない)美央は心の中で叫んだ。うかつに声は出さない。
彼女の視線は斜め上を向いている。
男はにぎりこぶしを上に突き上げたようなおかしな姿勢で宙に浮いているように見えて、実は自分がそこから落ちかけてしまった足場をとっさにつかんだので地面へ落下せずに済んだ、そんな瞬間のようでもある。いや、そっちこそが正しいということを、美央もとうに知っている。
男は美央に見られている事を知ってか、何事もなかったかのように空中で立ち上がると、黒の上着をはたいて埃を払うような仕草をして、そのまま同じ高さを保って歩き去った。
しかし、この時の美央には、ただ見送ることはできなかったのだ。
男はどこから来てどこへ行くのか、いつも突然のように人々の前にあらわれるものだから、誰も知らない。けれど今なら後をつけることができる。
美央は男が歩いて行った糸のすぐそばに伸びている、大きな木を見ながらそう思った。
木登りは得意だ。
子ザルのようにすばやく、木の幹に取りつくと、美央は糸にいちばん近い枝まであっという間に登りきった。そのまま、糸に足をかける。
こんなに細くて、果ても見えないほど長く長く伸びている糸が、びくともしないなんてことがあるのだろうか。そう驚くほどに、彼女の足をしっかりと受け止めて、ほとんど揺れたり撓んだりしない。
男の姿はまだそれほど遠くはなっていない。むしろ後をつけるにはちょうど良い距離だ。美央は両手を左右に伸ばして均整をとりながら、少しずつ足を進めていった。
しだいに木の枝から遠ざかった彼女は、ふいに我にかえったみたいに落ち着かない気持ちになってきた。まるで、小さな船でこぎ出したと思ったら、いつしか岸も見えない沖まで流されていたみたいに頼りない気分。
だいたい、木登りは得意だけれど綱渡りはどうだろう。
自分ではじめておいて、すっかり怖くなってしまっていた。
けれど今さらそんなことを思ってみたところで、ここは屋根より高い空の上。
とにかく男の行き先をつきとめてやろうと思い直して、勇気をふり絞る美央だった。
男は彼女が後を追ってきていることに気づいているのか、彼女が立ち止まると同じようにその場で歩みを止める。いつでも同じ距離を保ちながら、それでも一度も美央のほうを振り返ったりすることなく歩いていく。
時々、歩いている糸から、その上下に走っている別の糸に移って方向を変えた。気のせいか、いつの間にか元々いたよりも高い場所にいるような気がする。
やがて、男が目指す場所が美央にも分かってきた。
行く手には、大きなクモの巣のようなものが見える。すべての糸がそこにむかって集まっているみたいに、目のつまった網が広がっている。空にうかぶこの巨大なクモの巣は、何を捕まえようとしているのだろう。
男はクモの巣に足をかける。美央はそのあとを追いながら、ふとクモの巣の中心に横たわった人の姿に気がついた。顔を見ると、美央にそっくりだ。驚いて立ち尽くす。
よく見れば、それは人形のようだ。そして人形は美央の方を向いている。目が合った、そう感じたとたん、美央は意識を失った。
気がつくと、美央はクモの巣の中心で仰向けになっていた。
さきほど見た人形がいた場所。彼女は自分が人形と入れ替わっていることに気づいた。 話すことも、動くこともできない。体の中がからっぽになっているのが分かる。
男が近づいてきた。
その腕には、糸が何重にもかけられている。その糸を今や人形になってしまった美央にゆっくりと巻きつけていく。
全身がすっかり糸におおわれて、何も見えなくなったそのとき、繭のようになった糸の中に、大量の音が流れ込んでくるのが感じられた。
それはたくさんの声。空をおおう大きな網が捕まえた、町にあふれる数々の声が、糸を伝ってこのクモの巣めがけて集まってくるのだった。それらの声は、人形となった彼女のうつろな身体の端々まで、轟々と響き渡っていた。
絶え間なく押し寄せる音の奔流にかき消されるかのように、ふたたび意識は薄れ出す。今や彼女は言葉で満たされ、繭から生まれ出る予感の中で、かすかに身をふるわせる。
ふと気がついてみれば、美央はひとり並木道を歩いていた。
空を見上げてみても、どこにも糸なんてなかったけれど、はたしてあの人形は私だっただろうか。彼女はそう考える。そしてこうも思った。あんな風に生まれたのだとしたら、悪くない考えだ。言わないけれど。