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真夜中の大通りは
「此処からなら、飛べる」
もう十歩進んで「まだ飛べる」
さらに十歩。「此処からは無理」
線路を大きく跨いだ陸橋になっている大通り。
ヨフネが独り呟いたのは、多くの車がヘッドライトを点けて走り抜けて行く道路脇の歩道を、橋の頂点へ向かって緩やかに登っている途中の事だ。弓形になった陸橋の起点から終点までの距離は四百メートル程あるだろうか。歩道は等間隔に並ぶ街灯を境に歩行者用と自転車用で分かれている位には広く、左右を同じ高さのフェンスで挟まれている。右側のフェンスが道路との境界、左側は下に転落しないためのものだ。その左側は、すぐ下にも細い道が通っていて、その向こうにビルやマンションが建っていた。坂を登るに従って下の道との高低差は大きくなり、決して高所が得意な訳ではない彼が、もう飛び下りるのは無理だと判断する位になると、もう見下ろすにも太腿付近にゾクリとする嫌な感覚を伴う事になる。それにしても、わざわざ「飛ぶ」必要もないであろう場所で、どこまでの高さなら飛び下りることが出来るかなどという事を、彼はどうして確かめているのだろうか。
彼がこの道を通るのは週に一度、時間は夜の二十三時頃だ。
Ⅰ駅からR大学の前(かならず南側の歩道だ)を通って西へ向かい、左へ折れた大通りを歩くおよそ二十分の間、彼がいつも想像している事がある。
もしも今、誰かに追われる事になったなら。
どうやって逃げようか、何処へ隠れて、どうやり過ごすのか。
周囲の地形や建物を見ながら、そんな事をずっと考えて歩いているのだ。
先程の「飛べるか、飛べないか」はフェンスを越えてとびおり、下の道を逆方向へ走って追手を振り切る事を想定している。
その内に、彼の想像は何時も人間離れした芸当にまで及びだす。ここから飛んで、一旦、下の道に建てられたあの街灯の上に着地する。そこを中継地点に今度は近くのマンションのバルコニーに飛び移り、雨どいを伝って下に降りて……
そんな事を考えている為に、彼の頭の中には、空想上の追手が現れた際に隠れる場所の候補が幾つも存在する。
尤も、このような街中で隠れられそうな場所というものは大抵、誰かの土地であり建物であって、勝手に入る事の出来ない所だ。
けれど、彼はこう思う。
灯りの消えた民家だとか、営業時間を終えて人の出入りも見られないビルだとか、昼間と違って何だか誰かの場所というよりも、全てが自分の場所になったような感じに見えてこないだろうか。人が少ないといってもまあ、車は横を絶え間もなく通って行くのだけれど、それも何だか、ただ光の川が流れているのを見ているよう。何なら時折、通り過ぎる人だって、顔がよく見えないから本当に人かどうかなんて、確かめた訳じゃないから分かりゃあしない……
橋の上から隣のマンションの三階辺りが同じ高さに見えたりすると、ここから届くんじゃないか、などと思ってしまう。何ならビルからビルへ飛び移る位の事さえ、何だか夜中だと出来そうに感じてしまう。
よく見えないという事が、あらゆる物をぼんやりとさせる。
橋の頂点が近づき、線路の手前まで来ると、下の道は線路に沿って曲がってゆく事になる。そして何本かの線路が左右に伸びているのを見ながら橋の真中を過ぎれば、今度は徐々に下ってゆく。歩道からはまた、すぐ下に道が現れたのが見えた。今度は下の道との高低差が次第に縮まってゆくのを確かめながら、彼はまた呟きだす。
まだ無理……やっぱり無理……ここからなら飛べる。
やがて「飛ぶ」必要もないほど高さが縮まり、下の道と彼が歩いている歩道とが交わる。そこで左側のフェンスは無くなった。
其処からしばらく歩くと、いつも曲がる交差点で大通りから外れて、彼の住む町が近づく。先程までと違い、人の匂いが強くなってくると、もう車も光の川では無くなり、運転している人間の顔も、彼の目にはっきりと見えてくるのだった。
一週間後の夜も、ヨフネは同じ道のりを歩いていた。
R大学の正門を通り過ぎた辺りで、彼は異変に気付いた。何者かが、彼の後を即けているようなのだ。男だ。かなり距離を空けるようにしているが、彼が立ち止まるとその男も足を止める。それだけではなく、不自然に道を変えても、また元の通りに戻っても、その都度ついてくるのだから、間違いない。日頃から誰かに追われる事を想定して歩いているからそう思えるのだと片づけて良い事態ではないようだ。何が目的であるかは分からない。分からないがしかし、人の後を黙って即けてくるような相手に碌な目的があろうとは思えない。彼は今こそ頭の中にある「隠れ場所リスト」の出番だと確信したものであった。
今いる場所から最も近いのは……
ヨフネは真っ先に、目をつけていたビルとビルの隙間を目指した。隠れるだけでなく、そこから向こう側の通りへ抜ける事も出来る。彼がその隙間へ逃げ込もうとすると、そこにはすでに、誰かが横を向いた体勢で直立しているのに気が付いた。その何者かは、顔だけをヨフネの方に向けると、言葉は発せず、人差し指を口に当てる仕草をした。
此処は駄目だ。
彼はすぐにその隙間を諦め、既に閉店時間が過ぎた雑貨店の看板まで走った。二枚の板が上部の丁番で繋がり、下部を広げて立てる形の物だ。空いた両脇から入って身を隠す事の出来る大きさがあった。
彼が看板の脇に身を屈めると、そこにも誰かが顔を伏せて蹲っているのが見えた。追手はまだ距離を詰めてはいない。
仕方がない、次の場所だ……
≪H町六丁目三番地の小さな空き地に設置された自動販売機≫
道路側を除いてコの字状に石塀が囲い、草が生えている中に自動販売機が置かれている。その裏側に隠れようとすると、誰かがいる。
≪Y町四丁目二十五番地 ビルの入り口(庇の上)≫
一枚の鉄板のような平坦な庇は、直ぐ隣の塀から足を掛けて登る事が出来るが、見上げると既に誰かが横たわっている。背が高いらしく、庇の端から靴の踵部分が僅かに見えている。
≪H町一丁目三番地 民家≫
誰かがいる。住宅とブロック塀の間にある狭い空間に立ったまま外の様子を窺っており、上の方の穴の空いた透かしブロック越しに覗く目が怯えたように揺れている。
≪N公園(植込みの陰)≫
誰ががいる。植栽の向こうに膝を抱えながら蹲り、硬い葉先に鼻をくすぐられ、くしゃみが出そうなのを必死に我慢しているようだ。
≪同じくN公園(木の陰)≫
誰かがいる。あまり大きくはない木の幹に隠れながら茶色の服を着た手を伸ばし、枝に擬態させている。
≪同じくN公園(東屋)≫
誰かがいる。屋根の裏側に貼り付くようにして、懸命にしがみついているが、梁を掴んだ指の力は、今にも限界を迎えかねないように見える。
≪E町六丁目八番地 民家(駐車された車の下)≫
誰かがいる。車の下で仰向けになっているが、こんな夜中に非常識な車の持ち主に依頼されて、渋々整備に訪れた業者でない事は確かだ。
≪C町三丁目一番地 ビル正面(下の空間の空いた階段がある)≫
誰かがいる。階段の形にあわせて膝を曲げ、まるで空気椅子のような格好だ。太股を微かに震わせてながらも、見事に形を保っている。
≪G町二丁目三十二番地 民家(こんな街中に珍しい庭の犬小屋)≫
誰かがいる。小屋の正当な主である犬は外に追い出され、小屋に潜った者の手だけが見えている。犬が鳴かないように次々と食べ物を与え続けているようだが、いつまで持つだろうか。
人気がない処ではなかった。何処にも人が隠れている。全てのビルの隙間に、あらゆる物陰に。其処ら中に誰かが隠れていて、じっと息を潜めている。皆、朝になるのをその場で待っているのか。
心拍の上がった息遣いが聞こえてくる。緊張で引き攣れた筋肉が衣服に擦れる音がする。数え切れない程の気配に囲まれて、もう何処にも空いている場所など無い。
男はまだ追ってくる。ヨフネはS町駅近くの交差点を曲がって大通りに出ると、やがて陸橋に差し掛かった。ここは隠れる場所もなく、逃げている彼の背中は追手の目に晒されたままになる。
歩道から左脇を見下ろすと、もう下の道が離れて見える。近くのマンションと見比べれば、おおよそ二階と三階の間といったところだ。いつもであれば、この辺りから「もう飛べない」と判断しているギリギリの高さと言える。しかし彼はフェンスに手を掛け、乗り越えると直ぐに、下の道へ飛び下り、そこからさらに大通りから離れる為、右へ折れて走った。追手は思いがけないヨフネの行動に、直ぐには反応出来ないと見え、もっと低い位置まで上の歩道を戻ろうとしているらしい。時間を稼ぐ事が出来た彼の頭に、忘れていた最後の隠れ場所が浮かんだ。それに先にも通ったN公園だ。また戻るとは思うまい。いくつかの曲がり角を経て、公園の入り口をくぐった彼は、あるベンチを目指した。
ヨフネが向かっているのは防災の為に設置された箱状のベンチで、中には防災用品が収納されており、座面が上下に開閉する作りになっている。本来は鍵を掛けてあるべきなのだが、つい先日、彼が興味本位で触ってみたところ、鍵が壊れて自由に開ける事が出来る状態だったから、次の点検に来るまではそのままに違いない。それに、中の空間にはまだ余裕がある事も把握している。
やがて前方にトイレが見えてきて、その近くに見覚えのあるベンチがある事を確かめたヨフネは、真直ぐにベンチに向かって足を速めた。すると、不意に彼の斜め後ろ、公園にある別の入り口からあの男が現れた。先回りをされたらしい。もう駄目か……
男は直ぐに背後まで迫る。しかし観念しかかったヨフネに手を掛ける事なく、そのまま追い抜いて行った。男はヨフネが目当てにしていた防災ベンチに辿り着くと、座面を開けて中へ入る。ヨフネは訳が分からず自らもベンチの前で立ち止まってしまった。ベンチの内部で、収納物を押しのけて身を横たえた男は、座面を掴んで下ろしながら、呆然と自分を見下ろしているヨフネに向かって、人差し指を口に当てた。
パタン、と蓋が閉まった。