断捨離で心のゆとりを見出す
前回紹介した書籍であるが「机の脇にいつもあった」と書いたが、正確には「机の脇に積んであった」状態だった。
…ということは、その分机を広く使えない…ということである。
目に入ってくる状態を広く認識できない…ということが、意外と「心のゆとりの加減」にも影響するものだ…ということは体感的にも良く分かる。
当然、物理的に目の前を狭く認識するより、広く認識する方が心にゆとりが生まれやすいと僕は思う。
過去の記事の中でも折に触れて話題にしたが、僕なんかはどちらかと言えば「断捨離」とか「整理整頓」とか…これを定期的にやっておかないと、心が安定しなくなるタチだ。(なかなか繊細なのです笑)
昔(文字を書くことを覚える以前)から結構神経質なところがあり、例えば、幼いなりに嫌なこととか心配事とかを「1つ目…〇〇のことが嫌、2つ目…△△のことが心配」って感じで、頭の中にリストアップして整理をしていた(…と言っても3つくらいが限界)。それで、整理が出来ると安心して眠れる…みたいな…四六時中そんなことを考えていた訳ではないけど、そんな性質を持った幼少年だった。
年を重ねてきて思考力や判断力が鈍ってくる中では、どうしても自分の事で後回しに出来るものは後回しにしがちになる。そうすると、色々な情報が色々な条件で頭の中に積年の澱のように溜まってきて、それが心配や不安を生む。おそらくこの状態は、中年の危機の遠因の一つでもあると思う。
加えて「情報を取りに行く」時代から「情報が降ってくる」時代になった。
その便利さや新鮮な驚きや喜びの体験より、降ってきた情報を処理する方に心血を注がなくてはならなくなってしまった。
この現代においてこそ、例えばやましたひでこさんが提唱されたような「断捨離メソッドでの片付け」や、昔から教えられてきた「整理整頓」の大切さ、そして「足るを知る」や「引き算思考」を改めて認識するに至る。
…という訳で、今日はこの机の脇に積まれた各種参考書籍を片付けることにした。ただ、別の空いているスペースに移動するのでは意味がない。確かに目の前の状態には空白が出来るけど、置く場所が変わっただけで、僕の人生において管理すべき(構ってあげる)モノの総量が減ったわけではない。
大事なことは「不要なモノを捨て、そこに出来たスペースを利用して片づけること」だ。
これは、断捨離とか整理整頓のファーストステップだと思う。人生の後半戦って結構これの繰り返し作業なのかもな…って気もする。(モノの断捨離に限らず)
机の隣に本棚がある。
見てみれば、所有しておく価値すらない本がある。それは例えばもう何十年も前に、とある資格取得の勉強をするために買った参考書だ。確かに「頑張ったなぁ」という思い出の証かもしれないが、この参考書そのものには、もう参考書としての価値はないし、捨てたからといって頑張った思い出が無くなるわけではない。
そんな訳で、この参考書を早速廃棄処分の方向とし、棚にスペースを作る。そしてそのスペースに、机の脇に積まれた「今の僕にとって価値ある書籍」を置く。
どうだろう。管理不要なモノには見切りを付けて気分がスッキリし、空いたスペースには「今の僕にとって価値あるモノたち」が整然と並ぶ。加えて、僕の目の前には以前よりも広くなった机上空間が現れた。
およそ1時間くらいのこの作業時間で、僕はまたほんの少し…心のゆとりを見出した。
ただ、中年期になるとこれがなかなか出来ない…気持ちは良く分かる。
他にやらなくちゃならないことが、次から次へとやってきて、収拾不能になってくる。そして…やがて思考停止へ。。。
現代は、本当に忙し過ぎると思う。
ただ、「忙」という字が「心を亡くす」と書いて教える通りである。
また、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という古くからの諺もある。
とは言え、生きていかなくちゃな僕ら…忙しい中でも何とか上手にやりくりをしながら、少しずつでも心のゆとりを見出していきたいものである。