朝出掛ける用意をしている瞬間って生きることを強制されている気がして不快です そう思いませんか?
たかな
彼氏欲しいって言ってる女の彼氏になりたくないが、死にたいって言ってる女が最期に見た男にはなりてぇな 悲しいものを悲しいと呼べば、それは文字通り悲しいことを示す過去になり、悲しかったという現実が記号として、過去の自分に成り代わり独り歩きするようになる 嬉しかったことに嬉しかったと言えば、それは文字通り嬉しかった記憶として思い出を侵蝕し汚す 好きな物を好きと呼び嫌いな物を嫌いと呼び、そうして積み重ねた無数の過去が独り歩きした結果が、言葉により生まれ言葉に固執する、言葉を失った
幼い頃につけた傷や青痣は、今もまだ残っているだろうか。 坂道を自転車でアホみたいに下って転んだあの日の傷は、今もまだ残っているだろうか。確認してみてほしい。きっともうほとんどが消えている。あるいは、覚えている傷の全ては今も残っている。 思い出なんて所詮はそんなものだ。わかりやすく残らないものが、記憶などという曖昧な物で残ってくれるわけがない。 私は常々思う。記憶は脆い。何かの拍子にすぐに消え去ってしまう。解離性健忘として、ただの一時的な極度ストレスの反応として、何かの前触れ
くだらねぇ!言うて吐き捨ててきたものあるじゃないすか。例えば小学校の昼休みの数分を使ってやるよく分からんルールの鬼ごっことか。体育の授業でやった運動会の練習とか。あーいうのをやっときゃもう少しマシな人間になれた気がするんすよね。だからなんだって話なんですけど。
SNSが便利になっていくに連れて現実との境界が曖味になっていくの面白いね 現実から束縛が無くなれば幸せになれるなんて、そんなことは決してないのに
死にたいはアイデンティティになり得るのか、という問いを繰り返してる 希死念慮に本来理由なんてない。ただ漠然と死にたい。楽しいことがあって少し気が紛れても、そのすぐ裏側には空虚がある。装飾されている。銀河がブラックホールを中心に軌道を描くように、私の体も、虚無を中心に腐食していく。
いまいち必然性がわからない。 求められてもいない投稿はしたくないし、誰かからのいいねを貰うこと以上に、その誰かに見られたくない、あるいは、もし見てもらえなかったらどうしよう、みたいな気持ちの方が強い。 そういう人間なので、おそらく承認欲求満たしにネットを利用するのは向いていないのだと思う。小説なら公募に、イラストなら、なんだろう。出版社に絵を持ち込んで、イラストレーターとして雇ってもらうとか。いや、あれはネームバリューと最低限の画力で売っているのだから、無名だけど絵が描ける
しばらく会っていないあの子を思い出すとき、脳内再生しているあの子の声が本当にあの子の声なのかわからなくなる あの子の声を忘れたとは思いたくないけれど、もしどこかで会って話したら、頭の中にあるあの子の声があの子のモノではなく、私の妄想でしかなかったことに少し悲しくなるかもしれない
ヘリウムガスの風船が飛んでいってしまったと泣き喚く子供も、恋人が死んだと自傷気味になる人も、同じ そういえば最近、あの風船を見なくなった気がする 今の子供は風船で空を飛ぶという空想をしたことがあるのだろうか 風船はいずれ地面に落ちるものだと笑っているだろうか 少し寂しい気がする
駅にはありとあらゆる死が充満している 通学と通勤と、帰宅と娯楽と 車体が過ぎ去る度に死に絶える無数の時間の中で、人の命の往来は一際目立つ 白線の上から出たら死ぬゲーム 駅が青春と希望を飽和させるのなら、線路の下には、桜以上に死体が埋まっていなければならないとは思わないだろうか
私が幸せにするから、その時まで不幸でいて
クッキーおいしかった!参考画像(沙月雨さん撮影)