しりとりをしながら、最後の音節で始まる言葉をテーマにした何かを担当メンバーが発信します。
ミラーリング 鏡に映るもの、映されたもの。両者は同じなのか。鏡からはどんな景色が見えているのか、鏡の前に立つものは鏡の奥に何を見るのか。 異なる環境に身を置く二人が毎月「対」になったテーマを綴っていく。 二人は同じ景色をみるのだろうか。
この人を死ぬまで愛し続けますって 誓い合ったとて それはそれで素晴らしいことなんだけど その時その瞬間は本気で思っていたのは確かであろうが 所詮は浅い経験値しか無い青二歳同士なわけで 生きていれば色々あるのは当然で 波長っていうの?波動っていうの?価値観の違いっていうの? ほんのわずかな角度のずれが 時間の経過とともに あーこんなにも遠くまで来ちゃったねって 同じ空間にいるのに 見えてる景色が違うじゃんって でも夫婦である事は契約なので 不倫だなんてとんでもないって世間が言う
立つ鳥跡を濁さず 水鳥が空に立ち去る様子が語源とされるこの言葉 飛び立つ際の水面の美しさから例えられ 見苦しくなく引き際が肝心だということなんだろうね。 人に最後残るものは執着だと感じる 執着は手放したようで実は手放せてなかったりする。 忘れよう、切り離そうとしても 執着は残るのである。 執着はあるときには活力になったりするので 悪いものでもないのだが 強すぎると、未練や迷いが生まれ これまた厄介なものでもあるのだな。 さてさて、この執着をどうすればいいのだろうかと…
知人に「おふくろの作った料理が美味くてさぁ」って、よく口にする人がいて、 「へぇー」なんて言いながら心のなかで「なんだよ、いい年してマザコンかよ」って思っている自分がいる。 私には母性が足らないと気づいたのは つい最近であった。 というか…母性自体がよくわかっていないのだな。 2歳の頃から祖父母に育てられたので 母親というものに甘えた経験がない。 そんなある日 子どもの頃読んだ 藤子・F・不二雄先生の短編 「やすらぎの館」を思い出し再読してみた。 主人公の男は大企業の
来年で還暦である。 いくつになっても生きるのが下手すぎて笑ってしまう。 60歳近くになっても20代からなんにも変わらないんだなって感じる。 本はたくさん読んだつもりだが いくら本を千冊読もうが馬鹿には勝てないこともよくわかった。 もうすぐこの世界ともお別れする時期がくるのかなと時々考えたりするが まぁやっと楽になれるのでそれはそれで楽しみであったりする。 生きることに執着し過ぎると 脳や身体を冷凍保存して医療技術が進歩したときに 復活を目論んでいる輩がいると聞くが はたして