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食べ物のありがたみに泣いた日
幼少期から思春期までの想い出には空腹感が伴っている。
まったく食べれなかったわけではない。
父がいた頃は父が時々帰宅すると、母はいそいそと父の好物を準備していて、幼いワタシは父の膝に乗せてもらい父の好物をお裾分けしてもらったり、
(父が自宅に居た記憶は数えるほどしか残っていないのだけどね。)
学校生活が始まると有難いことに給食があったので、飢餓に苦しんでいる国の子供たちに比べたら、食べれる場所があるだけでも恵まれていたと思う。
ワタシが7歳の時に父と母が離婚。
母はワタシと妹を連れて母の実家のある東京区内に引っ越し、
狭いアパートで親子3人の生活が始まった。
前回の記事を序章としたのは、ここからが本当の意味で、
常に空腹な日々となったからだ。
それでもワタシはまだマシだった。
学校に行けば給食が食べられたから。
しかし4つ下の妹は保育園にも行かせてもらえず、
しばらくの間は自宅で母と過ごしていたので、
まともな食事を与えてもらえず、いつもお腹を空かせていた。
時々、祖母が仕事帰りに様子を見にアパートに来てくれていたのだが、
祖母が来ると幼い妹は、祖母の持っているバッグの中を弄るのがお決まりになった。
祖母が働いていた蒲鉾工場で廃棄する出来損ないの蒲鉾を探すのだ。
廃棄分をお土産でよく持ってきてくれていたから。
そのお土産がない日は、妹は祖母の衣服に染みついた
蒲鉾のにおいをクンクンと嗅ぐ。
ワタシと妹がひもじい思いをしているのだと知っていた祖母は、
「何か食べさせてあげなさい」と、母にお金を渡す。
そのお金は出前になるときもあれば、パン屋の総菜パンになるときもあったけれど、
もう母親からの温かな手作りご飯など諦めていたし、どんなものでも食べられるだけで有難いと子供ながらに思うようになっていたけれど、、、
同じくらいの年頃の子達が、昨日の夕食には何を食べたかなどの会話を聞くたび、薄暗い部屋の万年床に体調を頻繁に崩しては寝込む母の姿、母の思った通りにワタシが動かないとヒステリーになって殴ったり蹴ったりしてくる母の姿がいつも頭に浮かび上がり、次第に母を嫌うようになっていった。
ああ言えばこう言う。
母を嫌いになって母に反抗し始めて毎日言われてきた言葉。
小学中学年(4年生)あたりから今に至るまでだ(笑)
中学生になるまでは、母のヒステリーや暴力とワタシは闘っていた。
大人しく「ごめんなさい」というような子供ではなかった。
というより、母を嫌いになり軽蔑し始めてから闘うと決めた。
それまではどんなに理不尽な扱いを受けていても、
「お母さん、ごめんなさい」と、殴られながらでも言っていたのだ。
母からしてみれば、ある日突然それまでされるがままだった娘が、
牙を剝いて反撃してくるようになった!どうにかせねば!!だったと思う。
壮絶な母娘バトルだったと思う。
母が理不尽なことでヒステリーを起こすと、それに対し口で反論を唱える。
母もワタシも次第に声は大きくなり、最後は叫び声や怒鳴り声になっていた。
ただ、まだ子供だったワタシは身体も小さかったので、
いつも母の最終兵器の暴力には勝てずにコテンパンに打ちのめされていたのだが(笑)
そしてそれは一日に何度でも起こっていた。
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