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素の自分に向き合う~コンビビアルなマネジメント⑧

D’ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?

 フランスの画家ポール・ゴーギャンがタヒチで描いた作品の左上に書かれた言葉です。
 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という意味です。

 コロナ禍で素の自分に向き合う機会が増えたとされていますが、本質的にそれを実現するのはなかなか難しいことです。その理由は、個々人には無意識化されている特有のバイアスがあり、それを外すことが至難の業であることを「真に」認識することが難しいからです。
 自分の目の前に拡がっている世界は自分だけのものでしかなく、隣の人のものとはまったく異なることを「真に」認識するということです。そのためには自分自身をより深く知ることが必要です。自分とは何者か? 自分の思考の癖はどういったものなのか? 何をしたいのか? どうしてそれをしたいのか?……。禅問答のような問いを自らに発し、それを自らで掘り下げなければなりません。自己と対峙するには集中を要します。
 わたしは、この掘り下げを次のようなステップで行っています。そして企業や事業のビジョンやコンセプト、戦略を考える際にも基本的にこのステップを踏むようにしています。

ⅰ  現在との対峙
内なる声(自然)に耳を傾け、自分とは何者か? 自分の思考の癖はどういったものなのか? 何をしたいのか?……の問いに向き合う。

ⅱ  過去との対峙
現在と対峙して得られた「何をしたいのか」の「何」は過去のどこかで心に刻まれた「想いの種」が発露したもの。それが、いつどこでどのように刻まれたのか過去を遡りながらそれを追求する。同時に無意識下にある自らの価値/判断基準を意識する。

ⅲ  現在と過去の結合
現在と過去の軌跡を繋ぐ。暗黙知化されていた自らの価値観と「どうして」それをしたいのか、この二つを言語化する。

ⅳ  未来との対峙
未来を想い描く。このステップでは、現在や過去と切り離して実現したい未来を具体的に想い描く。

ⅴ  未来と現在、過去の結合
描いた未来と現在/過去をひとつの軌跡として繋ぐ。描いた未来からバックキャスティングして、現在/過去に立ち戻る。結晶化したひとつの軌跡(ものがたり)を言語化する。

 自分と向き合い、自らのなかに刻まれた想いの種を認知することで、現在/過去と未来との軌跡が繋がります。そしてこの軌跡は他者との密度の高い対話によって純度が高まり結晶化されていきます。
 結晶化された軌跡は素の自分が未来に向けて歩む際の「羅針盤」となります。

 道に迷うことを恐れることはありません。この変化の激しい時代、一度も道に迷わないということなど決してありません。唯一恐れるべきは「羅針盤」をもたないことではないでしょうか。

 わたしは、この「羅針盤」は「ものがたり」のカタチをしていると考えています。それは他者とシェアするためです。社会や組織、様々なコミュニティは、他者との「協働」が前提です。ひとりで歩み続けることはできません。様々な人たちの「共感」を得る必要があり、それが個としての自立の基盤ともなるのです。

 今日クリアに描いた「ものがたり」が将来変化してもまったく問題ありません。一年後、一か月後、変わっても構わないのです。例え、それが明日であったとしてもです。それはとても自然なことだからです。但し、変化したという事実、そしてどこが変化したかは認識しなければなりません。そのためにも、現時点での「ものがたり」を(稚拙であっても)クリアに描き切る必要があります。描き切ることができてこそ、その本質をシェアすることが可能になり、周りの人々の「共感」を得ることができるからです。

 言語化した「ものがたり」に完成はありません。非自己をカルティベイトし続けることと同じです。定期的に内なる声に耳を傾け、直感に従い、自分自身であったり、組織や事業の「ものがたり」の更新を図り、全面的に描きなおす必要性を感じた際には、躊躇なく愉しみながらゼロに戻ることが求められます。
 素の自分に向き合う、内省をする際のポイントは二つあります。

 ひとつは自然のチカラを最大限活用すること、そしてもうひとつは豊かな暗黙知をもつ人と対話すること、です。木々に宿る葉は一枚一枚すべて違います。森のなかに転がる石ころも一個一個すべて違います。雲のカタチもひとつひとつ違い、みる人によってイメージするものもまったく違います。そんな当たり前のことを身体感覚としてダイレクトに受容できる環境は当然「自然」のなかにあり、そのような環境だからこそ心が解放され、他者とも自らともフラットにかつ真摯に向き合うことができるのです。

 スティーブ・ジョブズも「直感は知性よりもパワフルだ」という言葉を残しています。

 直感的な自分の内なる声を聴くのに、五感を解放してくれる「自然」は重要なファクターです。しかし、この五感が解放される場所、自然を感じることのできる場所は、現代の都市のなかには少ないのが実情です。だからこそ、自らの意志で意識的に、そのような環境に飛び込む機会を創らなければなりません。ここ数年キャンプをはじめアウトドアブームとなっていますが、その背景にはこのような潜在的な欲求があるのではないかと思います。

 もうひとつ、わたしが自然をおすすめする理由は(こちらが最大の理由かもしれません)、「自然」には誰もが公平に「従う」ことしかできないからです。

 自然のなかに身を置くと、人工的な環境とは違い、心地よいことばかりではありません。雨が降ったり、暑かったり、寒かったり、時には命の危険に晒されることもあるかもしれません。しかし、それこそが「自然」なのです。そのような厳しくも豊かな自然、外なる自然、のなかでこそ、本来の五感が研ぎ澄まされ、囁きのような小さな内なる声、内なる自然、が聴こえてくるのです。

 素の自分と向き合い、素の自分を知ることは、結果的に自己肯定感に繋がります。自己肯定感は自律的アクションの源であり、コンビビアリストの核となるものです。

 少し話が逸れますが、自然と人と関係性は、近代以降、大きく変容し、結果として現在の自然と対峙する都市文明が形成されてきました。現代はその弊害が顕著に現れてきている時代です。社会やコミュニティ、そして個人のライフスタイルの基盤において、自然と人の関係性を抜本的に見直し、再構築を図る必要があると思います。すべての産業は、自然と人の関係性を改めて自問し、再構築していかなければならなくなるでしょう。そしてその先に見えてくる産業は、コンビビアルなものになる、ならざるを得ない、とわたしは考えています。自然と人の関係性を見直すことで、人と人の関係性も豊かになり、その人の人生は勿論、企業、コミュニティ、結果として社会もコンビビアルになるとわたしは確信しています。

 次に、もうひとつのポイント、豊かな暗黙知をもつ人との対話についてお話します。

 他者との密度の高い対話で、自分と向き合う純度が高まると言いましたが、勿論、他者であれば誰でもよいわけではありませんし、ただ会話をすればよいのでもありません。可能な限り、豊かな暗黙知をもつ人との「対話」であることが求められます。

 豊かな暗黙知をもつ人は、木で例えるならば、みえない地中に深く拡がる根っこがある木といえます。木の強さ(しなやかさ)、豊かさは、地中に隠れている目にみえない根っこで決まります。いくら地表にみえる部分が立派にみえたとしても、根っこが浅かったり腐ったりしていれば簡単に大風で倒れてしまいます。ただ大風が吹いただけでは簡単に木は倒れません。根っこが腐るから倒れるのです。この根っこを如何に深く拡げていけるか、それはその人の生き方、生きる姿勢の方向次第です。根っこを深く拡げていこうとする、つまり素の自分と向き合い、どれだけ暗黙知を耕すことができるか、です。

 深さは、広さと高さに繋がります。

 日々の一瞬一瞬に如何に真面目に向き合うか、その純度がその人の暗黙知に影響を与えます。日々の一瞬一瞬に真面目に向き合う……、固く重いように感じられるかもしれませんが、そんなことはありません、その逆です。自律的に愉しく生きているからこそ、飽きずに日々の一瞬一瞬に真面目に向き合い、様々なことから学びを得ることができ、その結果として、自然と暗黙知が耕されるのです。

 暗黙知が最もよく耕されるのが、より豊かな暗黙知をもつ人の根っこを感じたときです。たわわに実った果実や綺麗な花々、立派な幹といった目にみえるものではなく、目には見えない豊かな根っこを感じたときなのです。豊かな暗黙知をもつ人との対話で、自分の根っこは深く拡がります。対話から滲みでる、情緒的で非言語的な暗黙知に新たな気づきや視点を感じることができるからです。

 まだ、自分が未熟な根っこしかもっていなかったとしても心配ありません。生き方、生きる姿勢の方向軸がずれてさえいなければ、豊かな暗黙知をもつ人は、しっかりと向き合ってくれます。そして、そこで得た気づきや視点はそれぞれ「お互い」の暗黙知として定着し、徐々に形式知化、身体知化され、知の連鎖がはじまります。これは知的好奇心を刺激し合う、共に学びあう関係性といえるもので、知の基盤の再構築にも必要不可欠なものになります。

 豊かな暗黙知をもつ人との対話、そして自分自身との対話、これを繰り返す(循環させる)ことで、根っこ(生き方、生きる姿勢)の方向軸はブレなくなります。大切なのはこの「循環」です。「循環」させることで、それは「習慣」化され、よりしなやかで豊かな根っことなるのです。

 ところで、1・01の365乗がどれくらいになるかご存知でしょうか?
 答えは、37・8です。
 では、0・99の365乗はどうでしょうか?
 答えは、0・03です。

 つまり、一日1%の成長を続けると、一年が経過する頃には、当初1だったものが37・8になり、逆に一日1%減じていくと、一年後には0・03とほぼゼロになってしまうということです。
 たかが1%、されど1%。暗黙知が豊かになるスピード、根を張っていくスピードも1%ずつなのではないでしょうか。

 わたしは広葉樹の森のなかに住んでいるのですが、この1%を日々感じることができます。木々の芽がふくらみ、花が咲き、葉が茂り、色づき、落ちていく、毎年その循環が淡々と繰り返されていきます。1%ずつ変わっていくので、知らない間に変化したように感じることもありますが、一年を通して考えてみると、とても劇的で美しい変化です。

 ここに面白さがあるとわたしは感じています。
 一日だけ、昨日よりも二倍頑張る、ということはできますが、それは到底長続きしませんし、結果として習慣化されることもありません。それに対して、毎日、昨日より1%成長し続ける、これはやろうと思えばできるのに、なかなかできません。習慣化してしまえば、意識しなくても自然とそのような姿勢になるのですが、現実はなかなかそのようにいきません。それは1%の成長はとても分かりにくいからです。実感を持ちにくいから習慣になりにくいのです。

 では、1%の成長を担保するにはどうすればよいでしょうか。

 わたしはここで、「自立とは頼れる人、コミュニティを複数もつことである」という言葉を思いだします。個々人で1%の成長を目指す際に、同じ質の志をもった仲間やコミュニティを頼るのです。仲間を含めた総体として1%の成長を目指すのです。
 強い、しなやかな自立した個を目指し毎日を過ごそうとしても、実際にはそういうわけにいかない日もあります。澄みきった青空がどこまでも広がっている日もあれば、どうしようもないどしゃ降りの日が何日も続くこともあります。それが自然な状態です。それをコントロールすることなどできません。自然をコントロールしようとするのと同じです。自然をコントロールすることはできません、自然には従うしかないのです。ですから、自分がどしゃ降りで1%の成長ができないときは、仲間に託せばよいのです。そして、仲間がどしゃ降りのときには、自分がその仲間の分まで頑張る。素和美小学校に掲げられている標語「One for All, All for One」そのものです。

 大切なのは37・8になることを目的にしないことです。37・8になることを目的にせず、同じ質の志をもつ仲間とともに、愉しみながら、目の前の1%の成長に愚直に向き合う、のです。それを続けているといつしか自然と自分の成長を感じることができるようになります。
 言葉にすると至極当たり前のことでしかありませんが、それを体現化できた未来は結果として希望に満ち溢れたものになっているはずです。もし、今、希望に満ち溢れた未来を確信できないのであれば、この当たり前で簡単なこと、その場所ごとで目の前の1%の成長に仲間と共に愚直に向き合うことにトライするべきではないでしょうか。
 一人ひとりのトライで組織も社会も世界も変わるはずです。
 
 ここまで、素の自分に向き合う、ということについて、個々人の視点を中心にお話してきました。自分の存在意義をよりシャープにしていこうとする姿勢/方向軸、それがコンビビアリストの要件だということです。

 これは企業組織をはじめとする様々なコミュニティにおいても同じです。コンビビアルな企業組織にするには、それぞれの企業の存在意義を耕し続ける姿勢が必要です。企業に参画している人がそれぞれ「なぜ、わたしたちは存在し、どのような価値を提供するのか」を絶えずブレずに考え抜くということです。
 そのプロセスを通して自分の存在意義と参画している企業/場所の存在意義をすり合わせていくのです。これは個人にとっても企業にとっても、とても大切なことです。それが100%重なり合わさることはないかもしれませんが、重なりあう部分が多ければ多いほど、仕事は「仕事」でなくなり、個人の自律的なアクションが自然と企業がとるべきアクションに繋がることになるからです。生きることと働くことの関係性がしなやかに豊かになっていくことになります。

 企業の存在意義を耕し続けることは、経営層や事業戦略室などの一部の人々だけがすることではありません。その人たちがリーダーシップを発揮することは当然求められますが、企業に参画している人すべてに通底する課題であるべきです。すべての人が当事者意識をもって、この課題に愚直に向き合う姿勢をもっていること、それがコンビビアルな企業組織の要件です。全員なんて無理だろう、このようなことを考えるのは我々上層部だ、という考えをリーダーとなるべき人が少しでももっているならば、まずはそこを徹底的に修正していく必要があります。
 リーダーがこのような姿勢であると、フォロワーである多くの参画者は自ら考えることを即座にやめてしまいます。簡単に自律を放棄し、他律の「仕事」しかしなくなります。そこに、悪意はまったくありません。自然の成り行きであり、当然の帰結です。エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのいう「自発的隷従」の状態です。
 その関係性は組織の習慣となり、脈々と受け継がれ、参画者にとってそれはいつしか自然なこととなり、この軛から逃れられなくなります。そのような組織には他律しかなく自律はありません。それではコンビビアルな組織にはなりえません。

 些細なことに「想い」は現れます。

 些細なことは、1%と一緒で、とても分かりにくいものです。だからこそ、大切にしなければなりません。そしてその些細なことは決して「スキル」でカバーすることはできません。その人、その組織がもつ姿勢/空気感から発露されるものだからです。本書でわたしが「姿勢」にこだわっている理由はここにあります。逆をいえば、些細なことを大切にすることで、正しい姿勢/空気感を維持することで、コンビビアルな組織への歩みは加速します。

 コンビビアルな状態は、とても素晴らしいものではありますが、その環境を組み上げていくには基本的なブレない姿勢が大切で、それに紐づく一貫した仕組み、仕掛けが必要不可欠です。少しでもブレると砂上の楼閣のようにあっという間に崩れ去ってしまいます。リーダーとなるべき人は、このことを充分に留意すべきです。

 参画している人に変化を求める前にまず自らの姿勢をしっかり直視し、自らが立脚している知の基盤の再構築をしてみましょう。そして参画している人は、それぞれ自分自身のためにも、当事者意識をもって、この課題と向き合ってみましょう。コンビビアリストからなるコンビビアルな企業組織は、社会や世界に希望をもたらすのですから。

 最後に、素の自分に向き合うステップやその際に留意すべき点などが分かりやすく精緻に描かれているU理論をご紹介します。U理論は、アメリカ合衆国マサチューセッツ工科大学のC・オットー・シャーマーによって提唱された「バイアスに左右されずに個人やチーム、組織、コミュニティ、社会が変革していくための原理」を明らかにした理論です。

続く

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