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コンビビアリストの要件~コンビビアルなマネジメント⑤

 ここでは、コンビビアリストの要件についてお話します。コンビビアリストの要件(必要な自己技術)としてわたしは次の三つを挙げたいと思います。

  □ 場所形成/多元的場所環境それぞれを居心地のよい「場所」にする自己技術
  □ 主客非分離/自分と他者を非分離の相互関係として扱う自己技術
  □ 非自己/未知なる非自己と向き合い、耕し続ける自己技術

■ 場所形成/多元的場所環境それぞれを居心地のよい「場所」にする自己技術

 この本でも「社会」という言葉をこれまで使ってきましたが、そもそも「社会」は実在的なものではありません。管理しやすいように均質に抽象化されたものであるだけです。本来そこに実在するのは、それぞれ同じものごとなど何ひとつない「場所」だけです。あるのは、バナキュラーな「場所」だけなのです。
 しかしこれまでの社会は、効率的に管理し、経済をまわしていくために、均質化された「社会」の設定が必要でした。その「社会」を乗りこなす「スキル」と呼ばれる矮小化されたものが溢れ、それに他律的に振り回されている、それが現状です。

 当たり前のことですが、すべてのものごとは「一回性(一期一会)」でしかありません。まったく同じことは二度起こりません。それは自然をみていればすぐに分かることです。同じようにみえる雲も石ころも葉っぱも同じものはひとつとしてありません。雲の流れ方も、石ころの転がり方も、葉っぱの落ち方も、です。管理しやすいように、雲、石ころ、葉っぱと同じラベルがつけられているだけです。当たり前のことですが、まずこの「一回性」ということをしっかりと認識することが必要です。
 組織をマネジメントすることにおいても同じです。すべては一回性であることを前提におく必要があります。社会の状況、自社の状況、そこに属する個人の状況、そしてそれぞれの関係性、すべてのファクターが絶えず流れのように変化しているなかで、安易に「スキル」だけでマネジメントできるわけがありません。それは、人を、そして人が集うコミュニティを「機械」として扱っているのと同じです。当然、人は「機械」ではありませんので、そのように扱えばいつか必ず破綻します。この破綻の一端は、現代社会が精神的な病を抱える人を多く輩出し続けていることにみることができます。

 コンビビアリストには、一回性の本質的理解と、場所ごとで自律者として振る舞うことが求められます。多元的な空間、時間、それぞれの場所場所で、です。これは、難しいことではありません。一回性の多元的な場所を理解しそこに身を置く、それだけです。その場所に浸るのです。場所は均質的なものではないので、表層的なスキルは必要ありません。そのような「スキル」は存在しません。素の自分をさらけだすしかないのです。しかしそれさえできれば、場所の形成は為されたことになります。それぞれの場所が居心地のよい「場所」になります。素の自分をさらけだすことは自律者の振る舞いの核となるものです。多元的な場所を理解しその場所ごとで素の自分をさらけだすこと、それが一つめの要件です。
 ここで素の自分をさらけだすと書きましたが、勿論、単純になんでもかんでも、さらけだせばよいわけではありません。その姿勢、さらけだす基本姿勢、がとても大切です。それが、これから述べる、「主客非分離」と「非自己」です。

■ 主客非分離/自分と他者を非分離の相互関係として扱う自己技術

 主客非分離とは、言葉どおり、主体と客体が分離していないということです。主体と客体が分離していない状態とは、具体的にどのような状態でしょうか。

 様々な社会課題と目の前の仕事が繋がっている実感をもてている状態やお客様視点という言葉を使わなくとも、その意識を自然にもつことができている状態などです。ホスピタリティ溢れる人とはどのような人なのかを考えると分かりやすいと思います。ホスピタリティといいましたが、ここでホスピタリティとサービスの違いを明確にしておきましょう。それは「社会」と「場所」の違いに紐づけることができます。

 サービスは「いつでも、どこでも、誰にでも」がその要素で、均質化された機械的なもので一対多、多対多でしか現れません。
 それに対し、ホスピタリティの要素は「いま、ここで、この人に」であり、一回性が充分に意識された一対一のアクションです。
 「社会」と「場所」の違いをお話したところでも述べましたが、これまでの社会は、経済を無限に成長させていくために、画一的で効率的な(本質的には非効率なのですが)サービスを中心に据える必要があったのです。
 サービス的なホスピタリティではなく、真のホスピタリティを有することが主客非分離の核であり、コンビビアリストの姿勢を貫く一軸になります。これは利他的であること、ともいえます。

 人が人であるコミュニケーション様式は「ヒト」のもつ利他性によって可能になったといいます。
 前述した福祉施設Studio COOCA(株式会社愉快)代表の関根幹司さんは、利他性の象徴である「介護」があったせいでヒトは人足りえる進化を遂げてきたと喝破しています。

 この主客非分離の姿勢は和文化の底流をなすもので、欧米ではなかなか身体知的に理解されないものです。ここにも日本の伸び代があります。是非、茶道や武道、華道、着物などの和文化を探求し、主客非分離の姿勢を体感してみてください。そこで体感したものをそのまま自己に取り入れるのです。主客分離の姿勢ではなく、主客非分離の姿勢で和文化を体感することがポイントです。

 そして、コンビビアリストの姿勢を貫くもう一軸が、非自己、になります。

■ 非自己/未知なる非自己と向き合い、耕し続ける自己技術

 自分というものをすべて分かりえることは決してできません。少なくともわたしは自分のことが分かりません。もう少し正確にいうと、どこまでいっても分かりえない領域があります。分かりえる領域を自我といい、分かりえない領域が非自己になります。まずこの分かりえない領域が自分にあることを知ることがとても大切です。

 この非自己は、非言語的かつ情緒的で感覚的なものです。知識でいうなら、暗黙知といえるものです。感覚的なものであるがゆえに、ものごとや世界を観るときの視野に大きく左右します。コンビビアリストは素の自分をさらけだすと書きましたが、素の自分にあたるのがこの非自己の領域です。非自己は分かりえない領域なのですが、永遠に分かりえないわけではありません。カルティベイトする(耕す)ことで少しずつ知ることができ、その領域は拡がっていきます。

 しかし、自己の底は抜けており、永遠にすべてを分かりえることはできないのです。自分のなかにいつまでもそのような分かりえない領域がある、なんてロマンティックなことでしょう。
 この非自己の領域をカルティベイトする姿勢がコンビビアリストを貫くもうひとつの軸になります。そして、このカルティベイトに有用なのが豊かな暗黙知をもつ人(コンビビアリスト)との対話です。

 非自己をカルティベイトするとどうなるか。視野が広く、高くなるのです。深く耕すと、広く、高くなるのです。そして、周りにいる人を受け入れることができるようになります。イラっとすることは誰にでもあることですが、その多くは非自己の領域の(自分自身がもっている)嫌なところが刺激されるからです。周りにいる人に投影された自分の嫌なところがみえるからなのです。カルティベイトすると、その嫌な部分は昇華されていくので、そのような投影は起こらなくなります。

 カルティベイトする際の最大のポイントは、利他的であることです。

 利他的であることがなぜカルティベイトする際のポイントになるのか。それは利他的であることで、自我への執着が薄れ、非自己に向き合いやすくなるからです。自我は、バイアスと同じでとても強力な引力を有しています。利他にすることで、自然と非自己と向き合いやすくなるのです。

 主客非分離と非自己は、鶏と卵の関係のような、一対の関係性です。
 この二つを軸とした姿勢をもちながら、一回性の多元的な場所に身を委ね、自律者として振る舞うこと、それがコンビビアリストの要件になります。

 コンビビアリストの態様について、分かりやすく示した本があります。リュック・ボルタンスキーの『資本主義の新たな精神』(ナカニシヤ出版)です。この本のなかで、リュック・ボルタンスキーは「結合主義的世界における偉大者」の態様を挙げています。わたしには、コンビビアリストの態様を示しているように思えます。

結合主義的世界における偉大者とは

□ 物理的にも知的にも即応的、可動的であり続け、変動する世界に応答する自己の能力を増大させる仕方で変化を受け入れ、新たな投資を行うことができる人

□ 自分自身のリーダーであり、関係の上流でも下流でもリーダーであり、自己のネットワークにおけるリーダーである人

□ 適応性と多能性を有する自律した人(この自律者は策略家ではなく、自然な者:直観的存在として現れる)
  
□ あらゆる人間が接触可能であり、あらゆる接触が可能で自然であると考え、既知の人々も未知の人々も同等に扱う人
  
□ 別個の領域間の差異を無視できる人
  
□ どの場所にも属さない人間で、自分がいる場所のどこでもくつろぎ、またローカルであることもできる人
  
□ 常に手が空いており、同じ気分であり、自信をもっているが尊大ではなく、親しげであるが過度ではなく、世話好きであり、他者に期待する以上に多く与える人
  
□ 適切な仕方で聞き、答え、呼応し、良い質問をすることができる人
  
□ 他者に注意を払い、正しい即興能力を有している人

□ 他者のいうことに傾聴し、寛容に差異を認め、尊重しつつ指揮する人(≠ヒエラルキー的な長)
  
□ ヒエラルキーと境界の外で戦略的交流を行う人

□ 無秩序を道連れとし、たえず覚醒と懐疑の態度をとり、曖昧なもののなかでもくつろげる人
  
□ 高い適応性を与える経験資本を有し、様々な世界の知識をえた人
  
□ 公式の権力を断念し(安全より自律を好み)、その権威はそのコンピテンスにのみ依存する人
  
□ 変化する状況により良く適合するため、ある程度の内面性と自己の固執さを犠牲にする(自分自身にしか定着できない)人
  
 これらの態様はまさにコンビビアリストのものであり、これからの世界でくつろぐことができる人の要件だといえます。

続く

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