『エーミールと探偵たち』子どもの悲しみと輝かしさ
1920年代のドイツで繰り広げられる、少年たちの大騒動。ケストナーが書く少年少女小説には、子どもたちへの愛と信頼があふれているから大好きだ。
「子どもを見くびらない」ってことが大人にとってどんなに難しいかは、本屋に並ぶ子ども向けの本を眺めていても感じる。私だってえらそうなことは言えない。子どもをコントロールしようとしてしまうのは、親にとってどうしようもない業だと思うけど、少なくとも時々は、子どもがもつ力を思い出さなきゃいけない。子ども自身が教えてくれることもある。こういう本を読んだときにもハッとする。
「子どもの力」の背景にあるのは「子どもが子どもであることの悲しみ」だ。子どもは大人の庇護がなければ生きていけない。つまり大人と社会に翻弄される、身体的にも社会的にもとても弱い存在だ。その前提をきちんと描いているから、ケストナーの小説の子どもたちは輝いているんじゃないかと思う。
エーミールは早くに父親を亡くし、母と二人で生きてきた。台所事情は苦しい。「暮らし」の具体的な厳しさが、最初からずっと通奏低音として流れている。環境は人間を縛る。自分に愛をたっぷり注いでくれる母親の仕事ぶりとお金の繰り回しを日常的に見て育ったエーミールが「いい子」になろうとがんばっているのは環境のせいだろう。
大切なのは、そこまで現実を直視したうえで、そういうエーミールを「かわいそうな子」だとはまったく描かないことだ。
確かに、大人から見るとエーミールは健気(けなげ)ではある。でも、読んでいて感じるのは「自分も子どものころ、こうだったな」ということ。
子どもは大人が思うよりもずっと敏感に、ずっとたくさんのことを感じ取り、考えている。そして、それを力に変える強さと優しさを持っている。エーミールはめんどくさがりでおっちょこちょいで、でも明るく賢く勇敢だ。エーミールの友だちたちも、それぞれの環境や資質からくる個性を持っている。そのすべてが子どもらしく、輝かしいと感じる。
エーミールと少年たちがやるのは「探偵ごっこ」じゃない。探偵だ。大事なものがかかってるから真剣そのもの。でも本人たちも面白くてたまらず、わくわくしている。仲間たちと新しくて難しいことに挑むのはおもしろい!
仲間といっても、昨日きょう知り合った子たちばかりだ。一緒にやってるうちに仲間になる。派手なケンカとかお涙エピソードがあるわけじゃないのが、いい。子どもたちは、小さなやりとりや行動の積み重ねで心を許し合っていく。違う環境に暮らす子や、違う個性の子とだって友だちになれる。
お母さんと二人肩を寄せ合って暮らすエーミールと、自分が裕福かどうか考えたこともない(くらい裕福)なテオドル(あだ名は「教授」)。
二人が星空の下でそれぞれの境遇を語り合うシーンがある。きっとそれぞれ思うところはありながら相手の家については言葉少なで、最後にテオドルが「じゃあ、(君とお母さんは)すごく愛し合っているんだね」と言う。複雑で、それでいて肯定的な空気も漂うシーンで、とても好きだ。人と自分は違う、違うけれど協働できるんだと、子どもたちは学んでいく。大人に教えられなくても。
大人の目線で読むと、子どもたちがあまりにもすてきで泣けてくるところがたくさんあるんだけど、でも元気で痛快なのがこの小説の最大の魅力だ。
エーミールの大事なお金を盗んだ男が、100人の少年たちに囲まれて逃げられなくなるシーンの楽しさ!
これはひとつの「デモ」の姿でもある。デモとはもともと、行進でもシュプレヒコールでもなく、「あらわれること」という意味なのだと読んだことがある。大勢が姿を現すことが力になる。民主主義の姿。この小説は、ナチスがじわじわと力をつけはじめる、不穏な時期に書かれた。のちに、ケストナーの小説はナチスに「焚書」に処せられる。
うちでは息子が小学1年の冬休みに読み聞かせた。かわいいかわいい7歳だった息子が、エーミールのお母さんの人物紹介で「エーミールを心からかわいがっている」という部分を聞いて、「おかあさんといっしょだね^^」と無邪気に言ったことは、彼はとっくに忘れてるだろうけど、私にとって幸せな思い出だ。
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