2018年10月公開小説表紙_決定_

『夜の花嫁』第七話


 2012年3月13日。

 卒業式が終わった。
 これで僕たちは名実ともに、この学校で最上級生となった。

 吹奏楽部は卒業式中、卒業生の入退場の音楽や国歌、校歌の演奏をする。部員の皆はもう帰っただろう。僕は何となく、誰もいない校舎を歩きたくて、少しだけ残っていた。

 曜は同じパートの先輩たちと打ち上げに行くと言って先に帰ったから、今日はこのままただ帰ればいい。大体の人は曜と同じように卒業した先輩と、あるいは同級生たちと、浮いた時間を浮いた気持ちで過ごしているだろう。

「お疲れ様」

 誰もいないと思っていたから、突然かかった声に僕は心臓が止まるかと思った。
 下を向いて歩いていたから気付かなかっただけで、目の前に顧問の古河先生が立っていた。

三年生がいなくなって、何か感傷に浸っているかと思っていたけれど、古河先生はいつも通りの笑顔を浮かべてそこに立っていた。

「先生、まだいらっしゃったんですね」

「今日も曜と帰るの?」

「いえ、曜はパーカッションの人たちとご飯食べたり遊んだりするって」

「そっか、もうお別れだもんね」

 うんうん、と頷きながら古河先生は窓の外を見た。
 空はどんよりと暗い灰色で、今にも雪が降り出しそうだ。そういえば毎年、卒業式の日は曇っているような気がする。

「楽器庫行くんでしょ? 先生も用事があったから、ちょっと話しましょ」

 嫌いじゃなかったが、僕は何となく古河先生が苦手だった。

 うちは母がいないから、大人の女の人というのに慣れていないせいかもしれない。
古河先生はでも、そんな僕に優しい目を向けてくれて、それが僕のそういう気持ちを見透かしてのことじゃないかと、僕は古河先生の視線から逃れたくなる。

 卒業式のあとの校内は普段の喧騒が幻だったんじゃないかと思うくらい静かで、だから余計に僕は居心地が悪かった。

「最近はどう?」

「どう、というと……?」

 古河先生は少しだけ迷ったように口を閉じた。でもすぐに、笑顔とも真顔とも何とも言えない表情を浮かべて口を開いた。

「曜のこと。実はね、曜のお母さんに、あんたが無理しすぎないように見ててくれ、って頼まれてたの。……深夜遅くまで、曜の面倒を見てくれてるから、って」

「そんな……たいしたことはできていないんです。
 曜は、やっぱり、時たま思い出したようにおかしくなっちゃうから。いきなり鞄も何もかもほっぽって走り出して、それででもどこからか鋏だけ取り出して目の前でそれを……困っちゃいますよね」

 なるべく冗談のように言ってみたけれど、どう足掻いてもそれが冗談にはならないことは十分承知していた。

 二月は特に酷かった。
 吹雪の中を僕は、鋏を首もとに突きつけ泣きわめく曜を落ち着かせるため、実に深夜二時まで説得をしていたのだ。あの時の絶望感、無力感。そういった感情は、間違いなく僕を何らかの形で蝕んでいるはずだ。
 どうやってあんな状態の曜を説得したのかを思い出せないくらい、僕は必死だった。

「あんたらまだ一四歳なのにね……どうしてそんな苦しまなきゃならないのかね」

 先生のその言葉は、ほとんど独り言のようで、僕は多分、返事をするべきじゃないんだろうと思った。
 すると、先生はちょっとだけ乱暴に、僕の頭を撫でる。

「何ですかいきなり」

 恥ずかしくて僕はすぐに逃げた。先生は楽しそうに笑っている。

「今のあんたには難しいことだけどさ。子どもは本当は甘えるのが仕事なんだ。それで、大人はそれに応えるのが仕事。だからね、何かあったら頼りなさい。その時は、先生としてじゃなくて大人として、あんたたち二人を助けてあげるから」

 じゃあ――。曜の家の状況を知っているんだから、今すぐどうにかしてくださいよ。

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