『手を伸ばす』 第五話
酒を持って戻ってきた女が座ると、一樹の言葉はどんどんエスカレートしていった。
「あの女は最悪のビッチだった」
「だけど女がビッチになるっていうのは、男の側にも責任がある」
「セックスが下手っていうのは、何よりも罪深いことだねぇ」
そういう言葉はいちいち怜の思い出したくもない、忘れようと努力している過去をこれ以上なく正確に呼び起こしていく。
はじめのうちは早くここから帰ろうと考えていた怜の意識は、もうそんなことはすっかり忘れて、過去の自分と村田瑞希という女の過ごした日々に思いを馳せていた。
考えてみれば、怪しい点がなかったわけじゃない。というより、怪しい点は一つや二つどころの話じゃなかったのだ。
それを、関係が壊れることを恐れるばかり指摘できず、放置してしまった。
それが、あの笑えない喜劇的な結果に繋がったのだ。
目の前で一樹がセブンスターの白いソフトケースを取り出し、一本を咥える。火が点くと怜の鼻に嫌なにおいが広がった。
昔、彼が嗅ぐはずのない場所で、嗅ぐはずのない人から嗅いだ匂い。
彼がトラウマと呼ぶ記憶を呼び起こす一つの契機。
一樹の連れている女は、自分の彼氏が過去にしていたことには興味こそあれ、嫉妬心を抱くようなことはないらしい。
一樹の話を聞いては怜を見て、嘲りの笑いを浮かべていた。時には動物のように手を叩き大きな口を開いて笑い、時にはまるで、哀れな罪人にそうするように同情の視線でもって彼を捉える。
怜には、彼女の視線が店中に敷衍していくように感じられていた。
周囲の人々が皆、彼のことを嘲笑っている。皆、村田瑞希という女がこの沼田一樹という男とセックスをしたことの原因を、彼に求めている。
そんな錯覚を怜は覚えていた。
「悪いけど、もう帰らせてもらう」
「おいおい、顔色が悪いじゃねぇか。村田に連絡でもしてやろうか?」
その言葉に女が高い笑い声を響かせた。
立ち上がったものの、怜の顔色は実際に青白く、足取りは今にも倒れてしまいそうなくらい不確かなものだった。
「でもかずくん、この人その村田って女に捨てられてるんでしょ?」
「あぁ、そういやそうだった! 悪いなぁ怜、悪気はないんだぜ?」
今度は女の笑い声に一樹の笑い声が重なる。
過去、怜が電話越しに聞かされていた笑い声であった。
反応する余裕もない怜が考えていたのは、彼らにどう復讐してやろうかということではなかった。ただ、彼自身と一樹の差を淡々と考えていた。
沼田一樹という男は、恐らく自分に自信があるのだろう。背が高く、中高の部活で鍛えた腕は男らしさを否が応でも感じさせる。スポーツ全般が得意であることも怜は、村田から聞かされて知っていた。他にも大学生らしいカメラ、という趣味があり、そちらの腕前はプロに認められるほど。
対して怜は、自分に自信がなく、背は平均。何のスポーツもやってこなかった身体は男性というよりはむしろ女性のそれに近く、もちろんスポーツは不得意。趣味という趣味もなく、学校の成績もいたって普通。
必然的に、誰かに認められるようなこともないから、彼の顔にはいつも、自信のなさが影のように張り付いていた。
「羨ましいだろ? お前みたいな何の取柄もない男からすれば。俺はお前の失ったもの、そもそも持っていなかったもの、その両方を持ってるからな」
怜の嫉妬や怒りを掬い取るように覗き込んだ一樹は、しかしそれらの感情を手にすることはできなかった。
「別に。羨ましいと思ったことだけは、一度もないよ」
せめてもの反撃のつもりだった。
しかし、そんな慎ましやかな反撃は、この無神経な二人にかすり傷一つつけることはできない。ただ、彼らの新たな笑いの種に変貌させられるに過ぎなかった。
「おい」
その時、怜の正面から声がかかった。
一樹が目を薄くして、声の主をひと睨みする。怜であれば或いは口を閉ざしたかもしれないその瞳に、しかし声の主は怯むどころか寧ろ一歩彼に近づいた。
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