小説と写真の可能性〜柴崎友香『つかのまのこと』に見る視覚的意義〜
お久しぶりです。
PCが復活したものの、就職活動が開始したことによりなかなか小説を執筆する時間を落ち着いてとることができていません。
楽しみにしてくださっている方、申し訳ありませんがもう少々お待ちください。
ちなみにそうは言いつつも現在はある企画に向けて小説を執筆中です。
さて、そんな忙しい今日この頃ですが、2017年7月よりtunaちゃんと行っていた
「手書きの掌編小説に背景をつけ」た小説の投稿
という活動に関連するお話をさせて頂きます。
皆さん、この小説をご存知でしょうか?
柴崎友香さんの『つかのまのこと』というこちらの作品。
これがなんと、ページの多くを写真に費やしているという、正に僕が挑戦しようとしていたことだったんです!!!
芥川賞作家に先を越されてしまったのはなんとも悔しい。2018年8月に初版発行ということで、掌編小説で先にやっていたから良しとしましょうか。
さて本題に入っていきましょう。
こちらの小説に特徴的なのは、まず「詩」のような世界観と言えるでしょう。
写真を用いるというこの作品の構造上、どうしても文章表現に割けるページ数は少なくなってしまいます。そのことが、「小説」よりも「詩」に近い印象を抱かせたのだろうと考えています。
じゃあ写真と一緒の小説は書けないの?
というとそうでもありません。
この作品は東出昌大さんをイメージして書かれたとのことで、その後写真家の市橋織江さんがこの作品の世界を撮影したとなっています。
であれば、小説を書くこと自体に何の制約もない。
つまり、僕が感じた「詩」の印象の理由というものは、あくまで後付けにしかなっていないというわけです。
もしかすると柴崎さんはこの作品に写真がつくことを考え、それを前提に調和するよう執筆した、ということも考えられます。
もしそうであれば僕個人としては少々残念な感じもしますが(小説としての面白みに欠けるように感じてしまいました)、こういう作品を作るにあたって、写真の存在を過度に意識してしまうことは不可抗力とも言えましょう。
さて、ここまでほとんどこの小説の批判というか非難というか、そんな形になってしまいました。
じゃあこの作品はダメだったの? 僕にとって面白いものじゃなかったの?
というとこれもまた違うんです。
画像の挿入が意味すること。
小説というコンテンツは、基本的に文字で描写されたことを自分の想像力を駆使して描き出していきます。
この行為は、形あるものばかりを享受している現代の人々にとって(それが良いか悪いかはさておき)困難なことです。
僕の友人にも、そういった方々は多く存在します。
一様にしてそれらの人々は、「結局これどうなってるの?」といった主旨の質問をしてきます。
このような状況において、写真というものを挿入することは、物語を想像するハードルを下げる行為に繋がるのです。
想像力のハードルを、このような作品を皮切りにどんどん上げていくことができれば、他の小説も楽しんでいただけるのではないか。
僕はこの小説を読んでそのように感じました。
後は何より、この小説の特徴は目を引くことです。
人気俳優の起用。そしてその人気俳優の写真が、多く挿入されている。初めはその俳優を見るためだけにめくっていたページを、ふと止める。文字が目に入る。「あれ?」と思った次の瞬間には物語に引き込まれている。
小説離れなんてことが囁かれている現代において、これはとてつもなく有効な手段なのではないでしょうか?
活字離れしているのならば、別の媒体から活字に引き込めば良い。それだけの簡単な話を、簡単に信じて試してみてもいいのではないか。
そのように考えています。
僕も、まこっちゃんに被写体としてお仕事を依頼したいなぁ。
というところで本日はお休みなさい。
脳みそが疲れているのかちょっぴり要領を得ないことは見逃してくださいね。
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