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『吉祥寺の白い砂』


「どの街に行ってもそう言ってるよね」

そう言われたのはよく晴れた春の日のことだった。その日、僕たちは吉祥寺で僕の小説の販売会に行った帰りだった。

僕は確か「この街に住んだら、きっと楽しいだろう」とか、そんなことを言ったんだと思う。
意識はしていなくって、彼女にそう言われた時には本当に驚いたからよく覚えているんだ。

吉祥寺という街は駅から5分ほど歩くと、喧騒を穴の空いたポケットから落としてしまったかのように急に静かになる。人は多くいるけれど、どこか皆んな落ち着いていて、ゆったりとした時間が流れている。

それは例えば、歩く速さであったり、話す速さであったり。
カフェの外にある階段でぼうっとコーヒーを飲んでいる人がいるのも、多分僕がそう思った理由の1つだ。

東京という誰もが急ぎ足で何かに追い立てられているような、そんな街の中にひっそりと隠れている秘密基地。
そういう雰囲気が吉祥寺という街には満ちていた。

僕はもともと、どこに住みたいだとか、こんな家に住みたいだとか。そういったことを夢にみるようなタイプではなかった。

母親が借金を残してどこかに消えたこととか、付き合った女性に浮気されていたりだとか。
そんなことを繰り返しているうちに、ほんとうはどこにでもあるべきはずの。誰もがお母さんのお腹の中から小さな手のひらにぎゅっとつかんできたはずの、お日様の匂いをむっと漂わせる白い砂のようなもの。
多くの人が幸せだと思っているそれを、僕は繰り返しの中で少しずつ少しずつ、落としてきてしまったのだ。

だから、彼女にそういうことを言われた時にはほんとうに驚いた。
僕はいつから、1度なくしてしまったあの白い砂をこの手に持っていたのか。

気づかないうちに沖縄の海辺に立っていたような気持ちだった。
一度、学校の友達と訪れた沖縄の海。あそこは暑くってジメジメしていて。でも美しい海と白い砂浜がすべてを許してくれている。
そんな場所だった。

吉祥寺という街には本当に住みたいと思う。
だけれど実は、あの街を訪れるのは2度目なんだ。
1度目に訪れた時は、住みたいとは思わなかった。

ただ、そのゆったりとした空気に安心しただけだった。

彼女と再び訪れたあの日。
いや、たぶんそのずっと前から、僕は彼女と一緒にいることで再びあの白い砂を集め始めている。

手のひらにいっぱいもなくていい。
だけれどできることなら、僕の左手と彼女の右手を合わせた器に、少しずつこの白い砂を貯めていけたら嬉しいと思った。



(本編はこれで完結です。
購入していただくと「あとがき」が閲覧可能になります。今作は「自己体験作家」の作品となっていますので、是非そちらもご覧ください。

今回は自身の中でこれまでとは全く異なる小説が書けたと考えています。
そのため、多くの方々に読んでいただきたい。そう考えて、本編に関して全体を無料で読めるようにしました。)


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