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「プログラミングを通して困りごとを解決したい」という想いを持つ私が、ContractSで課題解決に没頭するワケ。

ContractSを代表する社員が、半生を語るコラム『ContractS わたしの履歴書』。登場する社員は、セールス・エンジニア・デザイナー・バックオフィス等の多岐にわたります。それぞれの分野で後世に残る仕事を成し遂げようと日々奮闘するContractS社員。彼ら彼女らが自らの言葉で語る努力や想い。読めばきっとあなたに役立つ何かが得られるはずです。

■友野 敬大(ともの あきひろ)
職種:エンジニア
趣味:ワイン、和服

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やんちゃながらも「創意工夫」が大好きだった幼少期。合氣道を通して「先人の教え」や「礼儀・お作法」を学ぶうちに、気づけば性格も落ち着いていった


私は埼玉で生まれ育ちました。入った私立の幼稚園が「創意工夫」を大事にする教育方針だったからか、泥遊びから仮面造りなど、とにかく自由な発想で何かをひたすら作り続けることに没頭するような子供でしたね。これはよく周りから驚かれるのですが、泥遊びは中学生の頃までやっていました(笑)成長していくにつれて、自由奔放な性格にプラスして体力もついてくるので、友達と家の庭で1mほどの面積のトンネルを掘っていたりしましたね。とにかくやんちゃな少年時代だったと思います。

一方で、お稽古に関してはかなり硬派で、合氣道を小4から中学まで約5年間続けていました。通っていた道場は少し特殊で、子供の部では年齢に応じて帯で色分けをするテーマ設定がされていたんです。例えば、小学生は”元気”を発散させる白・黄帯。次に小6くらいになってくると”落ち着き”を象徴する茶帯に切り替わるんです。この茶帯を渡された時からは、やんちゃ少年の私には特に学びが多く、礼儀やお作法なども叩き込まれました。

合氣道以外でも同じだと思うのですが、基本的に武術というのは、「先人の教えを倣って自分自身をどう表現していくか」という自己成長をとても大事にするんですね。そのため、武術の先生への憧れを抱いていくうちに、自然と性格も落ち着くようになってきました。

「みんなと一緒にこの場を全力で楽しみたい」がために、あえて周りに厳しいことを言う立ち回りをしてきた卓球部での日々。人を変えることの難しさを学んだ


中学では、”成長期には積極的に身体を動かしなさい”という親の教えで、卓球部に入りました。一方で、入るや否や戸惑ったのは、練習試合を適当にこなす部員の態度。私は昔から”みんなと一緒にこの場を全力で楽しむ”というのを大事にしてきたので、人を怒ったり、人が怒られたりするのを見るということが苦手だったのですが、そうも言ってられないなと一念発起し、ある日から積極的にメンバーを意識づけたり厳しい指摘をするポジションになっていました。

武術で培った礼儀が影響してか、おそらくその頃は無責任だったり怠惰な人が許せなかったんだと思います。いざやるとなった時は徹底してやることを貫いて欲しい。そんな想いで副部長として部活の士気向上に努めました。”そう簡単には人は変わらない”というもどかしさを知ったと同時に、いずれ仕事をするときは”自らを変えられる人”と一緒に働きたい、と思い始めていました。

また、エンジニアを志すに至るきっかけができたのもこの頃からです。団地に住んでいた方は想像がつくと思うのですが、団地というのは、仲良くなった子供同士でコミュニティを作る文化というのが自然と出来上がるんです。そんな中でも私の家庭は母がミーハーな影響もあって「IT環境が整った家」として知られていたので、PCに詳しい団地の子供達と情報交換が盛んになり、気づけばITマニア(笑)になっていったんです。その頃は進路のことは意識していませんでしたが、今改めて振り返ると、中学の頃からお願いして自分のPCを買ってもらう時点でエンジニアを目指すというのは必然だったのかもしれません(笑)

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中学卒業後はプログラミングに没頭できる高校へ。ソフトウェア制作や資格の勉強を通して、単なる趣味が徐々に”自分の武器”になっていくことの楽しさを実感


中学時代にPCにのめり込んだ影響もあって、迷わず情報処理部のある高校に入学しました。その部ではカリキュラムに自由度が高く、それぞれの生徒が自分がやりたいテーマ(例えばCG制作やプログラミングなど)を決めて各々で研究をしていました。

当時はブログサービスが流行った時代で、例に漏れず、私もブログを始めました。ブログにはCSSで見た目をカスタマイズする機能があり、色の組み合わせがひと目でわかると便利だなと思い、カラーコードから自分の作りたい色を作成し記憶するソフトウェアの制作などに取り組んでいました。実際、そのソフトウェアをAO入試の発表に持ち込んで、無事合格が決まった時はうれしかったですね。

また、その高校は資格取得に熱心だったので、情報処理技術者を始めとした難易度の高い資格への”登龍門”として知られる「全商情報処理検定」という資格試験にも挑戦しました。知識をつけていくうちに、プログラミングの全体像が徐々に見えるようになり、趣味だったものがこれからの自分の武器になりそうだと徐々に感じ始めたのはこの頃からでしたね。


ソフトウェアの開発を通して実感した「プログラミングを通して困りごとを解決したい」という想いの強さ。進路を決めていくにあたり、徐々に”自分”ではなく”社会”にそのベクトルが向くようになった


大学は情報工学専攻の学部に入りました。PCを触ってプログラミングの世界に没頭するのが楽しくて仕方がなかった記憶があります。もう廃刊のため雑誌名は忘れてしまったのですが、実は開発したフリーソフトが2回ほど雑誌に紹介されたこともあったんです。私は「プログラミングを通して困りごとを解決したい」という気持ちが中学の頃から強かったので、自分が解決したいと思って開発したソフトウェアが世の中にも認められたということを実感した時は心の底から嬉しかったですね。

また、PCに限らず、私は「誰かと一緒になにかに熱中できる状態を増やす」ことに生き甲斐を感じていました。そのため、今では驚くことに、当初はそれを伝播できる職業である情報処理科目の教員を目指して教員免許の取得に動いていたんです。一方、大学3年の後期に教育実習などの参加を通して、”自分は物事を知らなすぎる”という危機感を感じました。例えば、母校の情報処理部の教員の授業を見せてもらった時に、教員の方々は「情報処理」そのものが本当に大好きなんだなと分かるくらいに知識がずば抜けていて、会話に追いついていけなかったんです。私は専門知識に秀でるよりも、世の中の課題解決に目を向けた仕事がしたいという気持ちを再認識したので、この経験を経て、「教員ではなく、エンジニアを目指したい」という想いを固めるようになりました。

大学卒業後は大学院に入ったのですが、ここでも大きな変化がありました。当初、私の中では「プログラミングを通して困りごとを解決したい」という想いは自分にベクトルが向いたものだったのですが、修士論文を書く中で、「プログラミングを通して困りごとを解決し、社会の役に立ちたい」という”社会”にベクトルが向いた想いに変化していったのです。その後はSIerとしてシステムを通じて社会貢献を行うことをミッションに、就活に励みました。

新卒から9年間勤めた会社では、2年目から新規プロジェクトメンバーに立候補。法改正にあわせて柔軟なシステム構築を行ったりなど、まさに「プログラミングを通して困りごとを解決」する日々の連続だった


結果的に選んだ就職先は、約9年間勤めた、メガバンクグループのシステム開発会社です。

最初に配属された部署は、5年以上システムを使ってもらっている超重要顧客の保証システムの保守案件でした。失敗が許されない緊張感のある環境でしたが、手順書をダブルチェックしたり読み込んだりなど、細かい検証作業をする習慣が身につきました。「仕事は泥臭さが重要なんだ」ということを体感する上では大きな学びでしたね。

しかし、あまりにも大学院が自由に研究できる環境だったためか、決められた手順で決められたことをひたすらやることに徐々に不自由を感じ始めた私は、ちょうど入社2年目のタイミングで社内で自社サービスをつくる新規プロジェクトの公募が始まったことを知り、真っ先に手を挙げました。当時はオープンソースが流行り始めた頃で、新しいことが次々と挑戦できる環境だったので、ひたすら没頭。プロジェクトに関わる社員メンバーは私を含め4人しかいませんでしたが、その事業があまりにも楽しく、時間を忘れて深夜まで仕事をする刺激的な毎日を3年間続けました。

5年目からは、次の新しいサービスの立ち上げにも手を挙げながら、それまで育ててきたサービスもマネジメントをする兼務体制で、更に忙しくなりながらも充実した日々でした。特に今回手を挙げたプロジェクトはメガバンクとの合同プロジェクト。当時の法改正にあわせて柔軟なシステム構築を行う難易度の高い開発業務であったため、オフショアで40人以上の開発人材をリードしながらプロジェクトを前に進めていくという貴重な経験もさせてもらいました。

このシステム開発会社で従事した様々な仕事は、「プログラミングを通して困りごとを解決し、社会の役に立ちたい」という自分の想いを実現できた貴重な経験でした。本当にこの会社には感謝してもしきれません。

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一際目についた、ContractSからの本気度の高いスカウトメール。「契約」を切り口とした事業コンセプトやCEO笹原の”熱狂”に惹かれて入社を決意


このメガバンクグループのシステム開発会社で9年の時が経ち、チームリーディングや全体設計など”SIerとして求められるロール”を一通り果たしたと感じたタイミングで、私は転職活動を意識し始めました。
当初、まだ転職意向が弱かった時から私は転職エージェントサイトに登録し始めていたのですが、大量にやってくる日々のスカウトメールのほとんどが、取ってつけたテンプレートの様な形式で、嫌な気持ちになっていました。そんな折、ある日ふと目についたのは、ContractSのCTO花井から届いた、長文のスカウトメール。綴られていたのは「私のやりたいこと」と「ContractSの今の状態」を結び付け、「だから今あなたが必要なんです」という人間味のあるメッセージが込められた内容。気づけば吸い込まれるようにその文章を読み通し、面接に応募していました。

面談を進めていく中で、事業コンセプトという側面でも共感するところが多かったです。例えば、「契約の最適化で企業の健やかな成長をリードする」というミッションステートメントへの納得感。私が抱いていた「プログラミングを通して困りごとを解決し、社会の役に立ちたい」という自分の志とリンクし、ContractSの提供する価値に大きな未来を感じるようになりました。そして何よりも、最後の決め手はCEO笹原さんの人間性ですね。上に書いた通り、私の生き甲斐は「誰かと一緒になにかに熱中できる状態を増やす」なのですが、まさに笹原さんが”とんでもなく何かに熱中して輝いている”人だと感じたんです。この人についていきたい!と思った瞬間から入社することを心に決めました。

ContractSの仕事の醍醐味は、自ら意思決定をしていくこと。「300年続く事業の4年目」にいる一員として、壮大な事業の明るい未来を実現すべく、手と頭を動かして”型”をつくっていきたい


現在ContractSでは、”ハドソン”と呼ばれるスクラムチームにて、プロダクトのリニューアルを目的とした、サーバーサイドのアプリケーション開発案件をメインに関わっています。それは、いわば”新しい世界観”をつくるプロジェクト。仕事の醍醐味は、良い意味で何も決まっておらず、自らで意思決定をしていくことだと感じています。

私は、ContractSの社員の間で語り継がれている「300年続く事業の4年目にいる」というフレーズが大好きです。今はまだ小さなスタートアップかもしれませんが、手掛ける事業は世の中のあらゆる企業にイノベーションを起こす可能性を秘めた壮大な事業。その意味で、私の仕事は、ContractSの一人一人が信じる明るい未来を実現可能にすべく、ひたすら手を動かしその未来の”型”をつくっていく大事な仕事だと思っています。

口で語るのではなく、自らが考えて手を動かし、みんなが信じる明るい未来をつくっていきたい。その様なマインドを持つ方は、ContractSで輝ける方だと思っています。いつでも心強い仲間に出会えることをお待ちしています!

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ContractSへ興味をもってくださった方はぜひご応募をお待ちしています!
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