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日記の効能①

はじめに


はじめまして。23歳フリーターです。つい最近、誰にも依頼されてないのに1冊目の書籍となる「フリーターとして生きる」という本を書いた僕ですが、今度は2冊目の書籍となる「日記の効能」という本を書こうと思います。2冊目といっても今回の本も誰かに依頼されたわけではなく、僕が勝手に書いているだけです。そして、1冊目の本に関しては本どころか、1冊の冊子にもなっていません。僕は本にならなければWordかなにかに文字を書き写し、プリンターでコピーして1冊の冊子にしようと思っているのですが、まだその作業すらしてないんですね。そして今は1冊のノートにただひたすら頭の中に浮かんだ考えを書き起こしている段階です。毎日毎日、僕は何かしら考えていて、もちろん皆さんも考えているとは思いますが、僕はそれを文字にして、言葉にすることで1冊の本になると思ってるんですね。そして、日々考えていることを文字にする、言葉にすることはある意味、日記と同じだと思うんです。パソコンに打つのも、ノートにペンを持って文字を書くのも同じ。自分の考え、思いを綴る作業は日記と捉えています。なので僕は今、日記を書いているんです。もちろん誰かに依頼されて書く文は、日記とは言えないかもしれません。それを何というのかは分かりませんが、執筆と言ったりするのかもしれません。しかし、僕に関しては誰にも依頼されておらず、ただただ自分の考えを書いているだけです。23歳のフリーターで、アルバイトをして生計を立てている普通の人間です。決して秀でたものがあるわけでもなく、週2、3本ほどYouTubeを更新したり、こうして日記を書くだけの人です。そんなに自分をダメな人間だと思っているわけではないですが、決して何か特別な才能があるわけでもないと思っています。YouTubeだって収益化するまでに3年半かかりました。今の登録者数も1,420人です。決して多くはありません。再生回数も毎回300回程度です。最初の頃は10回、20回が当たり前でした。これでもだいぶ増えたほうなんですね。だから僕は、本当に地道にコツコツやらないとダメだと分かっているので、この本も時間をかけて毎日ちょっとずつ書くしかないんです。そして今回の本は何を書こうかなと思ったときに、日記の良さについて書こうと思ったわけです。僕は今、日々書く日記を1冊の本にしようとしているわけですが、自分しか読まない日記とこうして誰かに読まれるかもしれない日記と分けて書いてるんですね。ちなみに昨日は自分だけに向けた日記を書いたのですが、ほんの2ヶ月前までは自分だけに向けた日記をほぼ毎日のように書いていました。日記を書くと心が落ち着き、癒されるような感覚があるんですね。日記の良さだけで本1冊分の文字が書けるかどうかは不安ですが、とりあえず書けるだけ書いてみたいと思います。ちなみに僕が日記を書き始めたのは2021年の8月で、今が2022年の5月なのでちょうど日記を書き始めて10ヶ月が経ちました。決して長い期間書いてきたわけではないですが、10ヶ月を長いと見るか短いと見るかも人によって違うので、僕には日記の効能について書く資格があると信じて書きたいと思います。いや、もはや書く資格なんていりません。書きたいから書くのです。そう言い聞かせるだけで、僕は思い切って書くことができるんですね。これも日記の良さです。自分で自分を励ませる。自分で自分を後押しできる。「お前は日記の良さについて語っていいんだ!お前ならできる!」と自分で自分を鼓舞できるんですね。もちろん「お前には書く資格はない。お前はダメだ」と否定的な言葉を投げかけることもできますが、それは自分で自分を苦しめるだけなので、ここでは言わないようにします。しかし、日記の中でついつい自分を苦しめてしまうことがあるのも事実です。「自分なんてまだまだだ」「情けない」と書いたことも何度もあります。それもアリです。なんでもアリなのです。しかし、本を書きたいという前向きなエネルギーが働いているときは、どうにか頑張って自分の背中を押してあげましょう。お前ならできる、自分にはできる、きっとできる、と口から吐く言葉ではなく、ペンを持ってノートに書く文字として自分を後押しするのです。口から吐く言葉では自分を応援できなくても、文字であれば簡単にできちゃいます。自分を励ますことだって、癒すことだってできます。簡単にね。さあ、自分に言ってごらん。「今日もお疲れ様。君は本当によく頑張ってるよ。大丈夫大丈夫。きっと上手くいくから。今日はゆっくり休んでね」と、文字に書き起こしてみてください。きっと大丈夫。きっと上手くいく。これは僕が大好きな言葉なのですが、文字に書き起こすとなんだかすごく落ち着くんですね。文字に書き起こすというよりも、自分が書く文字、自分にしか書けない文字が落ち着くのかもしれません。自分が書く文字は、誰にも真似できません。あなたが書く文字は世界でたった1つであり、それだけで価値があります。字の上手い下手も関係ありません。例え自分では下手だと感じても、それは味のある字、コク深い文字だと捉えておきましょう。地球上のどこかには必ず「あなたの文字は素敵だ。beautiful! 」と言ってくれる人がいます。そんなわけ‥と思うかもしれませんが、それが事実なのです。信じるも信じないもあなた次第。それなら信じてみましょうよ。そっちの方が楽しいじゃないですか。僕は今すごく楽しいですよ。こうして文字を書くことが。日記を書くことが。今しか出会えない考え、言葉を吐くことがこんなにも楽しいなんて誰が教えてくれるんですか。そうです。僕です。僕が教えます。教えるというと何かおこがましいので、伝えます。伝わったらいいなと思います。この本を読んだ10人に1人、いや100人に1人でも日記を書いて楽しい、心が落ち着く、癒されたと前向きな感情が起きてくれればそれほど嬉しいことはありません。何かを始めるきっかけを与えられることは本当に嬉しいものです。僕のおかげで日記を書き始めた、YouTubeを始めた、嫌だった会社を辞めた、どれも最高に嬉しいじゃないですか。自分が思ったことをただ言葉にするだけ。誰が得をするとかそんなことは考えず、とりあえず書いてみる。それだけでオッケーなのです。日記はとにかく自由です。自分の好きに書いてみてください。自分の好きなペンとノートを買って、ありのままの想いを書き綴る。1文字でも1行でも20行でもいい。疲れたら辞めたらいいし、書けるだけ書けばいい。ルールなんて決めない。毎日書いてもいいし、書きたいと思ったときに書いてもいい。週1でも月1でもとにかく自由です。僕は自由が好きです。ルールを決めて守れなかったら自分が苦しくなります。もちろんルールが必要なときもありますが、自分に向けた日記にルールなんていりません。絶対に自分しか読まないんだから自由にすればいいんです。そう考えると、

「ルール=自由に書くこと」

なのかもしれません。また面白い考えが浮かびました。これです、日記の面白いところは。これを読んでるあなたが面白いと思うかはさておき、僕は最高に楽しんでます。やっほーい!と。てことで少し疲れてきたので今日はこの辺にします。疲れたら終わる。自由に書き殴ること。ルールなんていらない。あるとすれば自由に書くこと。そんなお話でした。またね。

日記を書き始めたきっかけ


今日は僕が日記を書き始めたきっかけについて話していく。僕もみんなも何か始めるにあたり、それを始めるきっかけみたいなものってあるはずだ。こうして僕が本を書いてることも、YouTubeを撮ってることも、すべて誰かの影響を受けてたりする。そしてこの日記は、藤井貴彦さん著書の「伝える準備」という本を読み、日記を書き始めた。僕はとにかく影響を受けやすい人間で、影響を受けたらすぐ行動に移したくなるし、その人のことが好きになる。それくらい単純な人間だ。そして、僕には好きな人が何人かいるのだが、そのうちの1人に坂口恭平さんという方がいる。もう僕にとっては雲の上のような存在で、言葉はおかしいが、本当の人間、これぞ人間というような方だ。自分の感情に従い、自分が思うままに生きる。絵を描き、曲を作り、畑をし、死にたい人を助けるいのっちの電話をし、料理もし、なんでもする。なんでも継続する。とにかく継続する。この継続の天才。淡々と積み重ねられる人こそが坂口恭平さんなのだ。僕はそんな師匠を本気で見習っており、こうして本になる確率なんてほぼ0の執筆を続けている。執筆といえばカッコいいが、僕にとってはただの日記。しかし、執筆と言うとテンションが上がることに気づいたので、これからは執筆と言わせていただく。こうした小さな感情の変化をキャッチし、すぐに言語化できるのも日記の魅力だ。皆さんは日記に何を書けばいいのか不安になっている人はいないだろうか。何を書いて、何行ほど書いて、なんて余計なことを考えていないだろうか。何を書く、何行ほど書く、そんなものはどうでもいいのだ。何を書けばいいのか分からないと思ったなら、日記に「何を書けばいいのか分からない」と書けばいい。そしたら必ず次の言葉が浮かんでくる。日記で大切なのは、頭の中に浮かんだ言葉をすぐに吐き出すことだ。本当にすぐに。とにかく早く。こんなこと書いていいのだろうか。そんなことを考えてはダメ。書いていいのだ。当たり前に。それは何故か?誰も読まないからだ。あなたしか見ないからだ。だから何を書いたっていいし、何行書いたっていいのだ。ルールは決めないこと。ルールがあるとすれば自由に書くことだと最初に言ったはずだ。自分が楽しく、楽に書けるスタイルを見つけていこう。タイピングか紙に書くか。紙だとすればどんなノートでどんなペンだとテンションが上がるか。ちなみに僕は1冊1,500円くらいのノートを使っている。本1冊分の値段だ。ノートなんて100円くらいで普通に買えるのに、敢えて15倍のお金を出して買っている。それでもいい。それによって僕は楽しいし、テンションが上がるから。書き心地も最高で、また書きたいと思うから。また書きたいと思うから継続できるし、継続すればするほど1冊の本となりうるほどの文字数になるんのだ。僕は今書いているこの日記に文字数は決めていない。何文字でもいいと自分に課している。疲れたら辞める。書きたくなくなったら手を止めるだけだ。しかし今はまだ書きたい、頭の中にある考えを言葉として吐き出したいと思っているので、とにかく吐き出させる。吐き出すことで頭はスッキリする。吐き出すことで、悩みやモヤモヤもスッと消え去る。しかしまた時間が経てば頭の中の雲行きが怪しくなってくる。そうなったらまた日記を書き殴って、言葉を吐き散らかすだけなのだ。悩みやモヤモヤも案外良いものだと思う。だってこうして書くことが無限に出てくるのだから。しかし、それも全て吐き出せば終わりだ。書くことが無くなったということは、ひと段落着いた状態でもある。自分ではどうしようもない状態。これ以上書いても無駄だと気づけた状態。後はゆっくり休んで明日に備えようという心持ち。それらは全て良い状態だ。どんなに中途半端なところで日記を書き終えたとしても、あなたが辞めたところが最高の瞬間であり、「今日は全てを吐き出した。やることはやった。お疲れ自分。あとはゆっくり寝るだけだよ」と自分に優しく呟いてあげてほしい。そしてまた、何かモヤモヤが浮かべば書くだけ。シンプルなことだ。悩んだら書く。モヤっとしたら書く。超簡単じゃないか。僕はシンプルな考え方が好きだ。やるかやらないかで悩んだらやる。とりあえずやってみる。そう決めていたとしても、もしやらなかったら、そっちの選択が正しかったんだと思うことにする。それだけ。簡単でしょ。結局は、自分が選んだものが正しいということだ。あなたが日記を書いていることも、この本を読んでいることも、今働いている職場も、その職場を思い切って辞めることも、全部正しいのだ。そこに間違いはない。間違いがあるとすれば、自分の選択を間違いと思うことが間違いだ。大丈夫。きっと上手くいく。今やっていることも、これからやることも、過去にやっていたことも全て、いつか点と点が繋がって線となる。僕が過去に野球をやっていたことも、いつか線となって繋がるかもしれない。これから先で出会った人と野球の話で盛り上がるかもしれない。「野球やってたんですか?!」「最高ですね!ポジションはどこだったんですか?」なんて盛り上がって、「今度キャッチボールしよーよ」なんてことになるかもしれない。人生はいつ何が起こるか分からないのだ。だからこそ自分の選択に自信を持つことが大切だ。今日は日記を書き始めたきっかけを話すと言いながら、きっかけの話はすぐに終わり、もう今は自分でも何の話をしているのかよく分からなくなった。でもこれでいいのだ。これが正しいのだ。ここの話もまたいつかどこかで繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれない。そんなもんだ。では、ちょっと手が痺れてきたので今日はこの辺で。バイバイ。

日記の中に眠る自分と話す


日記を書くことは、自分と向き合う時間でもあるのかもしれない。今の感情を吐き出すこと。自分は何を考え、何を思い、どうしたいのか。こんな気持ちを素直に吐き出すことで、見えてくるものがあることを僕は知っている。それは、日記を書く前は想像もしていなかった自分の気持ちや考え方だ。例えば、僕はつい最近、親友に嫉妬していた。親友が毎日イキイキと働き、人生を充実させていることに嫉妬していた。そして、その嫉妬の感情を素直に吐き出した。親友が羨ましい。僕は何をしているんだ。親友は毎日楽しそうに働き、人生を充実させているにも関わらず、僕は日々を平凡に生きている。別に平凡が悪いわけではない。むしろ、平凡というのは素敵なことだ。しかし、楽しそうな親友と自分を比べてしまっては、平凡すらも良く見えなくなくってくる。そこで僕は親友に対する嫉妬心を、何も考えずに書き綴った。誰にも見られない日記だからこそ、心の底から思ってることをズバズバと吐き出した。そこで気づいた。僕は親友に嫉妬しているのではなく、親友が羨ましかったのだということを。何を当たり前のことをと皆さんは思っているのかもしれない。しかし、僕にとっては大きな大きな発見だった。僕は本当はもっと楽しく働き、もっと自分の人生を充実させたかったのだ。しかしどこかで自分の感情に蓋をして、自分を押し殺していた。自分はこのままでいいんだと。しかし違った。僕はもっと何かに挑戦したい。今やっていることに打ち込みたい。親友への嫉妬心が自分が望むものに気づかせてくれた。他者と自分を照らすことで見えてくるものがある。そう気づかせてくれた瞬間だった。そこで僕は新たな挑戦として、珈琲屋で働くことに決めた。すぐにアルバイトに応募し面接を受けた。そして無事合格を貰い、2日後が初出勤となる。正直不安も大きいが、その分ワクワクも大きい。続かなかったらどうしよう。一緒に働く人と馴染めなかったらどうしよう。そんな不安はもちろんあるが、そうなったらそうなったときだ。それで人生が終わるわけではない。自分には合わなかった。ただそれに尽きる。失敗を責める必要はないし、続く続かないが自分を否定する要素になるわけでもない。続けたかったら続けるし、続けたくなかったら辞めるだけなのだ。自分を否定して何になる。挑戦した自分を褒めればいいではないか。一歩踏み出すことがどれほど大変か。特に最初の一歩。自転車の一漕ぎ目は一段とパワーを必要とする。そんな大変な一歩を踏み出すこと。まずはそこに価値がある。その後はなるようにしかならない。何かを始める前からその先のことなど考えない。その先のことを考えて、細かく細かく計画を練って、その計画通りに人生が運ぶ人などいるのだろうか。そんなことがあるわけがない。人生はそう計画通りにはいかないし、自分の思い通りにはならない。それが人生だ。それが人生の醍醐味だ。だからこそ面白い。今はフリーターでも、これから先何が起こるかは全く分からない。5年後、10年後の自分なんて全く想像できないし、想像しようとも思わない。計画も練らないし、ひとまず今できることを全力で取り組むことしか考えてない。本を書くこともそのうちの1つだ。30歳になるまでに何冊の本が書けるか。そのうち1冊も出版できなかったとしても、それでも僕は書き続けたい。何より楽しいから。こうして自分の思い、考えをノートに吐き出すことは楽しいのだ。是非、皆さんにも試してほしい。生きてたら悩むことも、辛いことも、悲しいことも多々あるだろう。そんなとき、ノートに生きる自分と、今日記を書いている自分で対話を繰り広げてほしい。ノートの中には自分がいる。紙に自分の感情を綴ることで、紙の中にいる自分があなたの言葉を聞いてくれる。だから安心感を覚える。なぜ日記を書けば心が落ち着くのか。安心するのか。それは紙の中にもう1人の自分がいて、あなたの話を聞いてくれているからだ。この薄っぺらい1枚の紙の中にあなたが生きている。あなたは1人ではなく、紙の中にもう1人存在する。そのもう1人のあなたが、あなたを癒し、時にあなたを救うことになるだろう。そして時に、自分では気づけなかった心の本音が見つかったり、人生を大きく変えるほどの助言をくれることがあるかもしれない。それが日記に隠された偉大な力だ。とにかく自分の本音、感情を爆発させること。爆発させればさせるほど、日記の効果は上がっていく。誰も見てないから大丈夫。安心して。見てるのは紙の中に潜むもう1人のあなただけ。自分と自分との対話。この対話を繰り返すことで気づける何かがある。そしてこの何かは人によって違う。僕も分からない。書いてみるまでは分からない。だから書く。その何かとは、心の安らぎ、謎の安心感、明日への希望かもしれない。何かがある。そこには。どうだろう。少しずつ日記を書きたくなってきたんじゃないだろうか。別に日記を書かせることが僕の目的ではなく、日記を通して楽しんでいることを伝えるのが僕の目的なのだ。だから僕は楽しく、日々日記を書き綴るだけでいいのだ。気楽でしょ。なんせ日記は自由なので気楽でなきゃ意味がない。自分を安心させ、全てをさらけ出せる準備が出来ていないと良い日記は書けない。だから自由に伸び伸びと書いていく。それでいい。てことで今日はこの辺で。またね。

2022/5/23(月)のプチ日記


まずは本を5冊書く。これは僕の目標だ。今書いている本は2冊目で、これを書き終えたら次へと進んでいく。なぜ僕が急にこんなことを言い出したのかと言うと、先ほど坂口恭平さんがツイキャスをしていて、その中で質問コーナーがあったときに僕が質問してみたのだ。「本を出版するのが夢です。1冊目を書き終えて今2冊目を書いているのですが、本を出版するにはどうしたらいいのでしょうか?」と質問を送った。そしたらたまたま坂口恭平さんが読んでくださり、「本にならなくてもいいから5冊書こう。5冊書いたら出版してる。5冊書ける人は10冊でも書けるよ」と答えてくださった。この返答が僕の背中を押してくれ、地道にコツコツ書き続けようと思うことができた。

自分への問いかけ


どうしたら自分は満たされるのか?どうしたら自分は満足感を感じるのか?満足感を得るには何をして、何がどのくらい必要なのか?こんなことを自分自身に問いかけ、文字と共に答えを導き出していくのも、日記の1つの醍醐味だ。満足感というのは、ご飯をたくさん食べることでの満足感や、お金をたくさん使うことでの満足感、人の役に立ったときの満足感など、満足にも色々と種類がある。また、ご飯を食べるときでも、高級料理を食べたからといって満たされるわけでもなく、安い定食屋さんでお腹いっぱいご飯を食べた方が満足するときだってある。その逆も然りで、人それぞれ自分が満足を感じるポイントは異なり、それは時と共に変わっていくものなのかもしれない。しかし、満足を感じることで僕たちは満たされ、「幸せだな〜」と感じることができる。そして幸せになればどうなるか。他者に目がいく。他者を救えるほどの余裕が生まれる。こういうことだ。僕は今、満たされているのだろうか。今日は朝8時にスタバに来て、トールサイズのアイスコーヒーを頼み、本を1冊読み終えて、今は日記を書いている。これだけ見ると幸せで満たされているように見えるかもしれないが、なぜか心の中はソワソワしている。それはこの後、新たなバイトの初出勤が待ち受けているからなのかもしれない。はたまた、このままフリーターでアルバイトをしながら、こうして本を書いたりYouTubeを撮ったりして、僕の将来は大丈夫なのだろうかといった不安からきているのかもしれない。多分どっちもである。しかし、何を考えても現実は変わらず、僕は僕に必要な分だけのお金を稼ぎ、その他の時間をこうして自分が楽しむための時間に使うことに変わりはないのだ。しかし、それだけだと明らかに満足感が足りておらず、毎日淡々と生きているだけで充実感も感じられない。そのためにこうして本を書いたり、YouTubeを撮ったりしているのだろうか。これらは満足感というよりも、自分の時間を楽しく過ごすための手段に近いと感じる。YouTubeを撮ったからといって満足するかと言われるとそうでもなく、まあ少しの達成感みたいなものはあるかもしれないが、その程度のものだ。僕が満足感を感じるタイミングは、昼間から温泉に浸かってのんびり過ごし、温泉後にコーヒー牛乳を飲むことであったり、天気の良い日に大好きなRickie-Gさんの曲を流しながら、自然を見ながらドライブしたり、親友と一緒にカフェで時間を気にせず話す時間であったり、路上で人生相談をしたときに「ありがとう」と言われる瞬間であったり、考えてみれば色々と満足を感じる瞬間はある。日々を満足して過ごすのは、それはそれは大変だと思う。嫌な職場、嫌な上司、少ないお金など、嫌なこと、足りないことを言い出せばキリがない。しかし、そんな嫌なこと、足りないことがある中でも、上司からのたった一言の「いつもありがとう」という言葉や、少ないお金でもお腹いっぱいご飯が食べられることができれば心はグンと満足する。誰かを救うことで満足を感じる人はその誰かを救えばいいし、誰かを笑わせることで満足する人は、誰かを笑わせればいい。僕の親友は人を喜ばせることで満足していて、人からの「ありがとう」が頑張る源だと言っている。だからバイト先が忙しくて人手不足のときはいつも出勤していて、上司から「助かったよ。ありがとう」と言われれば、「いつでも声をかけてください」と元気よく返している。そんな親友を見て僕はいつもすごいなと感じる。そして、尊敬する親友を見ていると、人が最大限満足を感じる瞬間は「ありがとう」と人から感謝されたときなのではないかとすら感じる。また、僕自身も路上で人生相談をしたときに、「心が楽になった。ありがとう」と言われたときは、今まで味わったことがないほどの満足感を得た。お代の100円を貰ったのだが、「100円もいらない。もはやお金などどうでもいい。ただ人の相談に乗ってありがとうが貰えればそれでいい」と本気で思った。もはや「ありがとう」という言葉には、100円の何倍、何十倍の価値がある。少し片付けを手伝ったときのありがとう。ありがとうにも軽いありがとうと重いありがとうがあるが、人生相談をやっていると軽いも重いも両方を味わうことがある。どちらも嬉しいのだが、たまにとてつもなく感謝されるときがあり、そんなときにやっていて良かったなと強く思う。僕のおかげで嫌だった会社を辞めたとの連絡がきたときは、それはそれは嬉しかった。嬉しすぎてすぐに電話をして「おめでとうございます」と伝えた。最高に満たされた瞬間だった。この瞬間をまた味わいたいと思った。しかし、大きな満足を求めていては、目の前の小さな満足や幸せを取りこぼしてしまう。天気が良くて幸せ。手が動いて本が書けて幸せ。働く場所があることにありがとう。側にいてくれる親友にありがとう。小さなありがとう。大きなありがとう。どれも大切に感じながら、今日も楽しく生きていきたいな。

日記で成長に気づく


今週は週6でバイトがあり、今日も8時間半のバイトを終え、今この日記を書いている。文字だけで見るとたくさん働いて大変そうだなと思うかもしれないが、疲れはそこまでなく、この日記を書けるくらいの体力は残っている。いや、本音を言うと今日はもう日記を書かずに寝ようかなと思ったのだが、それでもこれは日記であり、本の執筆も兼ねているので、少しでも先に進めたいという気持ちが勝ったのだ。最近は毎日のように働いているが、それでも朝1時間早く起きて動画の編集をしたり、執筆をしたりと、忙しい日々を送りながらも、仕事以外の自分のやりたいことも着実に進めている。違う。仕事以外ではなく、動画の編集もこの執筆も心のどこかで仕事という認識があるから、少し頑張ってでもコツコツ継続しようと思えるのかもしれない。きっとそうだ。現にYouTubeでも毎月3千円弱のお金は入っており、チャンネル登録者の数も、再生回数も決して多くはないが、4桁のお金を稼いでいる。これは立派な仕事だ。他にもこの執筆では一切お金は入ってきてないが、心のどこかでは、書き続けていたらいつか必ず1冊の本になるという確信がある。それは今書いているこの本ではないかもしれないし、10冊、20冊を書き終えて、やっと1冊目の本が出版となるかもしれない。それは誰にも分からない。しかし、続けることで知らず知らずのうちに誰しも成長しており、僕も無意識のうちに、1度にたくさんの文字を書けるようになったりと、以前より執筆を苦と感じることがなく、楽しみながら続けることができているのかもしれない。もちろん今書いているこの日記は、全くもって苦ではない。すごく自然体で、自分の書きたいように書いている。そして、続けることでこれよりさらに先の世界が見えたりするのだ。それは今の自分では到底想像できない世界。まだ見ぬ世界が待っていると信じている。このように僕たちは、自分が今やっていることで無意識のうちに成長しており、もはや無意識すぎて成長を実感できないほどだ。成長を実感できないとどうなるか。歩みが止まる。継続がストップする。この本も完成することなく終わる。それだけだ。それだけと言ったが、僕はこのそれだけは絶対に嫌だ。だからこそ、日々自分の中で小さな成長に気づくことを大切にしている。成長は実感するものではなく、気づくもの。気づくことで実感できるものなのだ。そして、成長に気づく上で日記は大きな役目を果たしている。僕はこの日記の1番最初のページに、日記を書き始めた日付と年齢、現在の仕事、YouTubeのチャンネル登録者は何人で動画は何本更新していて、月の収益はいくらなのかなど、日記を書き始めた当時の記録を事細かく書いている。中には当時やっていたことで、今はやっていないこともあったりするが、それはそれでいいのだ。大切なのは辞めたことではなく、新たに始めたこと。日記を書き始めた当初から今も地道に続けていること。そこに目を向けるのだ。僕であれば初めて日記を書き始めた当初は無職フリーターだった。無職フリーターであるにも関わらず1人暮らしをしていて、何もしていなくても毎月の生活費は消えていき、少ない貯金を切り崩しながらどうにか生活していた。でも今はどうだ。貯金が底を尽きそうになって始めたジムのバイトと最近始めたコーヒー屋のバイトを掛け持ちしており、週7働かない無職フリーターから、週6働く働き者のフリーターへと進化した。また、日記を書き始めた当初のチャンネル登録者は767人で、更新していた動画も108本だったが、8ヶ月後の今ではチャンネル登録者は1,427人で動画も倍以上の218本を更新している。ここで大切なのは、チャンネル登録者の数ではなく、108本から218本と地道に積み上げた動画の数だ。チャンネル登録者の伸びというのは、正直僕にはコントロールできない。どれだけ自信のある動画をのせても、全然再生されなかったり、高評価も少なかったりと自分の思うようにいかないことが平気で起こる。こればっかりはしょうがない。しかしどうだろう。チャンネル登録者が増えるかどうかはコントロールできないとしても、動画の本数というのは自分次第でどこまででも積み上げることができる。1,000本でも10,000本でも自分が更新し続ければ必ず増えるのだ。だからこそここに目を向けてあげる。何かを始めたり、辞めたり、コツコツ続けることは、自分次第でどうにでもなる。僕は新たにバイトを始めたし、こうして日記も書き始めた。この日記を本にしようとも思っているし、YouTubeもコツコツ続けている。他にも、路上で人生相談をやってみたりもした。もちろん始めたり、続けるだけでなく、辞めたこともたくさんあった。ラジオを更新しなくなったり、最近では筋トレのモチベーションもめちゃくちゃ下がっている。でもそれでいいのだ。何かを辞めることは決して悪いことではなく、今までそこに費やしていたエネルギーを、他のどこかに注ぐだけなのだから。嫌な仕事を辞めることだって最高なことだ。むしろ、1つの実績でもある。嫌な仕事をするというのは、相当なエネルギーを必要とする。それを辞めたのだから、これからは半分のエネルギーで生活費を稼げる仕事を探し、もう半分のエネルギーで自分のやりたいこと、やってみたかったことに没頭してみるのはいかがだろうか。そこから新たな可能性が花開くかもしれない。嫌な仕事をしていたら、精神的にも肉体的にも疲弊して、自分のやりたいことすら頭に浮かばない。きっとそれどころじゃないはずだ。だからこそ、辞めることは決して悪いことではなく、辞めたことで余ったエネルギーを別のどこかに使える最高にハッピーなことだと認識しよう。全部都合よく捉えたらいい。自分がやりたいことを続けるには、都合よく前向きに捉えることは必要不可欠だ。この日記もゆっくりと地道に進めていく。決して焦ることなく、書きたいときに歩みを進める。疲れたら辞める。書きたくなったら書く。自分の心に耳を澄ませながら、自分自身との対話を繰り返す。この対話の積み重ねが、自分という人間を深く知ることに繋がり、自分を深く知ることで、自分という人間を上手に活かすことだってできる。だからこそ書き続ける。継続する。継続する中で自分を知り、成長に気づいていく。これさえできればどんなことでも上手くいく。きっと大丈夫。これからものんびりゆったり、調子が良いときは少し飛ばして、一歩ずつ前に進んでいく。たまには過去の自分と比べて成長に気づきながら、また今日も頑張ろうと前に進むエネルギーを手に入れるのだ。それでは今日もお疲れ様。おやすみなさい。

心強いパートナー


悩み、迷い、苦しみ、そんなとき誰があなたの話に耳を傾けてくれるだろうか。今僕は悩んでいる。そして苦しんでいる。まずはそのわけを話したい。そして聞いてほしい。最近僕はよく「将来は何がしたいの?」という質問を投げかけられる。その質問に対して、僕はこれといった返事ができずいつも苦しんでいる。僕はこうして本を書いたり、YouTubeを撮ったり、人のお悩み相談に乗ることが好きで、でも決してそれらで生計を立てることはできずにいる。だからこそ僕は、2つのアルバイトを掛け持ちしながら何とか生活しているのだ。僕にはこれといった将来の夢はないが、やりたいことはいくつかある。しかし、「やりたいこと=将来の夢」が必ずしも一致するわけではなく、コーヒーを淹れたいではダメで、コーヒー屋を開きたいと言わなければ世の中からの評価は低いみたいだ。結局はそれでお金が稼げなければダメで、お金が稼げなければ意味がないといったものなのだろうか。もちろん自分が好きなことや、やりたいことでお金が稼げるのは理想だ。僕も心の中ではそうしたいと思っていて、だからこそこうして本を書いたり、日々YouTubeを撮っている。しかしこれら全てがお金を稼ぐためで、お金が稼げないと意味がないと思ってしまえば、この日記には全くの価値がないことになってしまう。それではあまりにも面白くない。お金を稼ごうが、稼がまいが、人には平等に価値があって、お金を稼げる額がその人の価値を決めるわけではない。また、夢の大きさがその人の大きさを示すわけでもなく、正社員だから凄くて、フリーターだから価値がないではあまりにも辛いではないか。フリーターで夢を持っていれば良くて、夢を持っていなければダメというのは悲しいではないか。どんな状況でも、どれだけお金が稼げなくても、どれだけ社会的な評価が低いフリーターだとしても、あなたには価値がある、あなたは自信を持って生きていいと受け入れてくれる人がいれば、どれだけの人が救われるだろうか。これはフリーターに限った話ではない。正社員で働いている人も、そうでない人も、会社の仕事ができなくて上司から罵声を浴びている人も、あなたには価値があるし、あなたが輝く場所は必ずある。僕はまだ輝いてはないし、これから死ぬまで輝かないかもしれない。一生そこら辺に転がっている石ころみたいに、時に誰かに蹴られ、誰にも気づかれずに終わる人生なのかもしれない。それでもこうして自分の想いを言葉にし、誰かの心が救われるのなら、それほど嬉しいことはない。僕は自分がよく悩むからこそ、誰かの悩みを聞いてその悩みに対して一緒に考え、きっと上手くいく、大丈夫と何の根拠もなしに背中を押してあげたいのだ。それは根拠のある大丈夫よりも、何の根拠もないけどこの人が大丈夫って言えば本当に大丈夫なんじゃないかと思える大丈夫の方が価値があると思ってるからだ。もちろん僕はまだそんな人間ではないし、僕の大丈夫にそれほどのパワーが込もっているわけではない。でも、本気の大丈夫は必ず伝わるし、これまでも「気持ちが楽になった。ありがとう」と言葉をかけられたことが何度もある。だから大丈夫。きっと上手くいく。僕が自分にそう思ってるんだから。この気持ちは目の前の相手にも届くはずだ。そう信じている。きっと上手くいく。大丈夫。そう自分に言い聞かせていても、やっぱり時に不安になったり、落ち込んだりして、こうして日記に弱音を吐く。日記は誰もが持ってる悩み、苦しみ、悲しみを永遠に聞いてくれる最強の存在であり、最高のパートナーだ。僕は人に弱音を吐いたり、悩みを話すのが苦手だが、日記であればいくらでも語りかけることができる。そして、日記に僕の悩みを聞いてもらうと友達に話すとき以上に心が落ち着いたりする。それは日記は僕に対して何も返事をすることなく、ただひたすら僕の話を聞いて、僕の悩みを受け入れてくれるからなのかもしれない。他の人に悩みを話せば、もっとこうした方がいいとか、それはお前が悪いとか何かしらの返事が返ってくる。悩みを相談しているのだからそれは当たり前の話なのだが、全部が全部いい返事ではなく、返答次第では傷つき、自分の自信が一瞬で消え去るほどの感覚に陥ることがある。逆に、日記にはそのような感覚は一切なく、ただひたすら何も言わずに話を聞いてくれるだけだ。相手の返答に怯えることなく、相手の顔色を伺う必要もない。自分の話が他の誰かに漏れる心配もいらない。あなただけの心強い味方だ。きっとあなたの心を癒し、救ってくれる。あなたはあなたのままで大丈夫だよと声をかけてくれたり、時には直した方がいいこともさりげなく気づかせてくれるはずだ。それは文字を書き続けたらきっと分かる。だから安心して書き続けてほしい。周りに弱音を吐ける人がいない?相談する人がいない?大丈夫。あなたには日記がある。そして僕もいる。先の見えない未来。これから何をしようかと分からずにいる現実。それでもきっと大丈夫。日記を書き続ければ答えは勝手に降ってくる。だから安心して生きていい。大丈夫だから。今日も全てを吐き出して心が楽になった。日記さん、話を聞いてくれてありがとう。これからもずっと宜しくね。それではまた。

今しか吐けない言葉を紡ぐ


フリーターとして生きている僕。フリーターで不安を抱えながら生きている今だからこそ吐ける言葉。そんな今しか出会えない言葉を紡いでいきたい。きっと今の考えと、10年後、20年後の考え方は違って、でもどこか似たところもあって、全くブレずに変わらない部分もあるはずだ。そして、フリーターとして生きる今だからこそ、共に先の見えない未来に不安を抱えながら生きている人の気持ちが分かるし、背中を押してあげられる言葉を紡げる気がしてる。僕もあなたも今しか吐けない言葉がある。明日、明後日に今と全く同じ文章を書いてと言われても無理な話だ。今日と明日は違ってて、見た目も中身も変わっていないように思ったとしても、頭の中で考えることは変わり、日記を書く内容も異なる。だから面白い。僕は本を書いている。日記であり、執筆である。今の頭の中にあるリアルを日々書き続けている。1つ書けば、2つ目が生まれる。新たな言葉との出会いがある。2つ書けば、3つ目に出会える。昨日と考え方が変わっていることに気づく。3つ書けば、4つ目が生まれる。その頃には今までの自信が崩れ去っていく。4つ書けば、5つ目が生まれる。言葉と共に自分を癒し、救い、何とか前を向いて生きていく。書けば書くほど気づいていく。日記の凄さに。よく分からないが何か救われていることに。人が続けることには意味がある。水を飲むことも食べることも寝ることも。そしてまた、日記を書くことも。それは生きるためなのかもしれないし、誰かを喜ばせるためかもしれない。はたまた、自分を救うためなのかもしれない。僕自身こうして日記を書き続けている背景には、必ず何らかの理由がある。そして今回の本は、その背景を語る本でもあるのだ。語ることで気づける何かがある。むしろ語らなければ気づけるものも気づけないのだ。大好きなあの子とも、たくさん話して、たくさん本音をぶつけあって、築ける関係性がある。話さなければ内に秘めたままで終わってしまう。ストレスも溜めれば溜めるほど最後の爆発は大きい。だから吐き出す必要がある。今しか吐けない言葉。それは悲しみ、怒り、喜び、その時々によって違う。今だからこそ吐ける言葉を、今しか吐けない言葉を、思い切り紡いでほしい。溜め込んでいいことは全くない。溜め込みすぎると便秘になる。インプットしたらアウトプットする。食べたら出す。ストレスを抱えたら吐き出す。単純なことだ。今の想いを吐き出すことは、心の便秘を防ぐことに繋がる。毎日よく悩み、ストレスを抱え込む人は、日記を書くくらいが丁度良い。言葉が溢れてくる人は溜め込んでいた証拠だ。むしろそこまで書くことが無い人はまだ書かなくても余裕な状態なのかもしれない。僕はなぜか短い頻度で言葉が頭から溢れ出す。それは普段からよく悩み、考え、不安を抱えているからなのかもしれない。でもそんな自分にも感謝している。すぐに溜まるからすぐに出せる。いわゆる快便状態だ。でももしここで僕が言葉として出すことを辞めてしまえば、僕は溜まりに溜まってもう何もしたくないほどの鬱状態に陥るのかもしれない。そう考えてみると、僕が初めて日記を書き始めたのは毎日不安で不安でたまらず夜も眠れないような状態のときだった。今は毎日すぐに眠たくなってスッと眠れるのだが、当時は将来の不安やお金の不安から夜に考え込むことが多々あった。頭の中に言葉は溢れているのに、僕には吐き出す場所がないからそれはそれは辛かった。もちろん吐き出そうと思えば恋人でも親友でも家族にでも言えた。でもそれは何だか情けなくて言えなかった。だから自分の中に溜め込んでいた。そして当時は溜め込んだものを吐き出す術を知らなかった為、ずっと自分の中で抱え、外の月をボーッと眺めることしかできなかった。毎日毎日ボーッと眺め、眠気がくるのを待っていたことを覚えている。しかし今はどうだ。当時とは状況も180度変わり、アルバイトもし、こうして日々自分の想いを日記に吐き出すことも始めた。おかげで心も健康だ。悩んだり落ち込むこともあるが、それでも書き出せば気持ちはスッキリする。全部が全部出せなくても、ほんの少し吐き出すだけでも楽になるものだ。だからこそ今しか吐けない言葉を紡いでほしい。今自分が抱えているものを、全て紙の中に落としてほしい。頭がスッキリするまで、手が痺れるまで、とにかく書き続けてほしい。溜めたら出す。溜め込みすぎる前に出す。これさえできれば完璧だ。まずは自分の心を大切に。日記を通して自分を癒し、共に快便状態を作っていこうではないか。

とりあえず書いてみる


日記においてとりあえず書いてみることは大切だ。まだ書きたいことが浮かばないとか、頭の整理ができてないとか、そんなことは完全に無視していこう。書きたいことは、何かを一つ書くことから一気に繋がっていき、そこからさらに広がりが生まれる。頭の整理もいきなりできるものではなく、書けば書くほど整理される。だからとりあえず書く必要があるのだ。僕も今何を書きたいのかいまいちピンときてないし、もちろん頭の整理も全くできてない。むしろいつもできてない。書きながら頭の中に浮かんだ言葉をノートに書き殴り、書き終えた頃には頭の中が良い感じに整理されている。これは日記だけでなく、何事にも通ずることだと思うが、とりあえず書いてみる、とりあえず始めてみることは本当に大切だ。完璧な状態は訪れない。100%完璧な状態を待っていたらいつまで経ってもスタートできない。10%、20%でスタートを切る。この10%、20%とは「書きたい」「筋トレしたい」「YouTubeを撮りたい」という「〜したい」と思ったらひとまずやってみることだ。そこで一旦躊躇してしまうと、やらない理由が生まれたり、でもやっぱり面倒くさいなと動きが止まってしまう。書きたいと思ったなら何でもいいから書けばいいし、筋トレしたいと思ったなら、いきなりジムに行かなくても家で20回×3セットの腕立て伏せをしたらいい。そしたら急にジムに行きたくなるかもしれない。何かをほんの少し始めるだけで、後に大きく響いてくる。僕も今、執筆という名の日記を書いていて一瞬手の動きが止まった。何を書こうかなと考えていたが、何も思い浮かばなかった。何かを書きたいけど、何も思い浮かばない。ならその心境を書く。疲れたなら疲れたと書く。自分を褒めたいなら自分を褒める。自分を褒めることで自分がどれだけ頑張っているかを再確認できる。毎日働いて、自炊して、洗濯もして、もう生きているだけで凄すぎない?と自分に求めすぎることもなくなる。僕たちは生きてるだけで十分なのに、「もっと〜しなきゃ」「まだ足りない」と「もっと」や「まだ」という言葉に縛られている。僕も一緒。僕たちが今生きているということは、既に満ち足りていることでもある。お金もあって寝るところもあって、生きるだけの食糧もあって、この本を読めるだけの心の余裕もある。そう考えたら僕たちは既に満ち足りていて、自分に対する要求などいらないんじゃないかとすら思う。嫌なことは辞めたらいいし、もっともっとと追い求めることは辞めて、まだ足りないと足りないことばかりに目を向けない。自分の中に既にあるものに目を向けてあげる。僕は本を書いている。それは、僕には字が書けて、ノートを買えるほどのお金があって、自分の思いを誰かに届けることも好きで、届けた思いが返ってくることも好きで、それで感謝なんかされたら生きてて良かったと実感できるほどだ。自分は満たされている。そう思えなくても生きてる限り満たされてると信じてみる。それでも今の環境が苦しければとにかく逃げ出してみる。あなたが満たされる場所はそこではないのかもしれない。生きていくにはお金が必要で、お金を稼ぐのにもそれなりの体力とそれなりに安定した精神が必要だ。職場によっては身も心もズタボロになる場所だってある。でもきっとどこかには身も心も安定したまま、あなたが生きてくだけのお金を毎月確保できる職場だってある。これもまた事実。とりあえずできることから始めてみる。それは自分で考えてみる。一旦紙に書き出してみる。何でもいいから頭の中に浮かんだ言葉をひたすら書き綴ってみる。そしたら見つかる。希望の光が。あなたを幸せに導く小さな光が。その光の方へ向かい、信じ、歩んでいく。大丈夫、きっと上手くいく。始めることも辞めることも怖いこと。誰もが一緒。今日も始めることで緊張し、辞めることで怖がっている人が世の中にたくさんいる。あなたにはみんながついている。僕もいる。僕とみんなと一緒に、少しずつ前を向いて歩いていこう。とりあえず書いてみてね。ではまた。

上を向いて歩こう


最近ふとした時に、坂本九さんの上を向いて歩こうを口ずさんでいる。ほんの少し声に出して歌うだけで、ほんの少し気持ちが明るくなる。歌えば歌うほど、どんどん心が楽になる。生きてると悩みや不安はつきものだ。そんな時に気持ちを楽にしてくれる曲があるのは心強い。そしてまた、日記もそのうちの一つだ。日記とは自分が自分に歌う一曲の曲作りなのかもしれない。自分に向けた応援歌。自分を励ます歌。自分の悲しみに寄り添う歌。それはその時々によって違う。日記は曲の中での歌詞であり、後はここにメロディーをつければ一つの曲となる。歌詞も自分に向けた言葉だからこそ、同じ気持ちを抱えている人にはダイレクトに突き刺さる。いや、メロディーなどなくてもこれは一つの曲なのかもしれない。自分が書いた文章を読み上げるだけ。これは一つの歌となる。そして僕は今、先ほど自分が書いた言葉を読んでみた。すごくいい感じだ。歌と本に共通していること。それは言葉を贈ること。自分が届けたいメッセージ、自分に向けて書いた言葉、誰に向けて書いたにしろ、歌を聴き、本を読んでいる以上は言葉を受け取っていることになる。そしてその言葉を受け取ることで、ほんの少し気持ちが楽になったり、心が明るくなったり、明日を前向きに生きる一つの役割を果たすのかもしれない。ここ最近僕はなぜか心がモヤモヤしていて、毎日のように上ではなく下を向いて歩いていた。これは決して目線の話ではなく、常に心が下を向いている感覚だった。しかし昨日、親友と久々に会っていつも行くブックカフェで語り合い、その後は一緒に温泉に浸かったことで全ての悩みが洗い流された。下を向いていた心も徐々に上を向き始めた。お互いがこれからの未来に不安を抱えていたけど、俺らならきっと大丈夫、きっと上手くいくとそう言い合った。いつか一緒に面白いことをしよう。お互いがそれぞれの人生を生きる中で、年に1回か2回はお互いの仕事を掛け合わした何かイベントみたいなものをやってみたい。僕と親友はいつか「やりたくないことを辞める学校」をしようとも言っている。これはどんな内容なのかはまだ決まってないが、人間を人間に戻す場所、そんな場所を作りたい。人間を人間に戻すとはどういうことか。僕にとって本来の人間とはどういう人なのか。僕にとってこの人が本来の人間だなと思う人は坂口恭平さんだ。自分のやりたくないことは一切やらず、自分のやりたいことだけをやって生きているように見える。自分の好きなこと、やりたいことを毎日毎日継続させたことで、やっていることが1つの生業となっている。そしてまた、生きるためのお金はバイトで稼ぎ、その他の時間で自分の好きなこと、やりたいことをやりまくりなさいともよく発言している。僕は坂口恭平さんが大好きで、坂口恭平さんのツイートや本をいつも拝見している。ちなみに昨日もブックカフェで坂口恭平さんの新刊「読みぐすり」を読ませてもらった。坂口恭平さんの言葉、生き方を見ていると、人生はやりたくないことではなく、やりたいことを軸にして生きるべきなのではないかと考えさせられる。好きなこと、やりたいことをやっている時間は当たり前だが幸せで、やりたくないことは生きるため、やりたいことをやるために最低限すればいいのではないかと思う。まずは自分が好きなこと、やりたいことを必死に探す。それさえ見つけたら後は自分のやりたいことを中心とした人生を送る。週5でフルタイムで働いていたとしても、朝少し早く起きて自分の好きなことをやる時間を作る。毎日毎日継続させる。仕事は生きるためで、その他の時間はあなたの好きなように過ごせばいい。僕は今日も8時間のアルバイトがあるのだが、朝からこの日記を書いている。窓から見える綺麗な空。外から聞こえる鳥のさえずり。そしてやりたいことである日記(本の執筆)をひたすら書いている。今書いている日記が本になる、ならないはさて置き、この日記を書いている時間がなにより幸せなのだ。幸せというよりも、1冊の本を完成させるために毎日少しずつ進めることが楽しいのかもしれない。毎日何かをほんの少し進める。それだけで今日も1日頑張ったと思えるし、1つの達成感を味わうことができる。僕たちに必要なのは、好きなこと、やりたいことを通して味わう充実感だったり、毎日何かをほんの少し継続させることで得られる達成感なのかもしれない。嫌な仕事からは嫌な気持ちしか芽生えないが、自分がやりたくてやることは前向きな気持ちしか働かない。もちろん今書いている本の内容やYouTubeの動画の質とかを考えて、全然良いこと書けなかったなとか思うと苦しくなるが、内容や質など放り投げて、今日も前に進んだこと、継続させたことを評価すればそれで充分じゃないかな。ジムに行って筋トレできなかったとしても、家でほんの少し腹筋しただけでも良いじゃない。ちゃんと継続したんだから。自分の好きなこと、やりたいことをやる時間は尊いもので、これから先も自分の好きなことを大切にした生き方をしたいなと思う。自分が今やっていることは全て自分のやりたいこと。今書いている本も、この後行くバイトも全て。てことで洗濯物を干してから、アルバイトに行ってくる。今日も1日頑張ろう!ではまた。

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