主人公が狂っているとようやく感情移入できる
斯くも頭の冴えたるは実に久しく思われる。或いはこれが常態であった時分もあったろうかと思うと、この頃落ち着いているように思えた鬱は緩やかに慢性化しているのかと考えたくもなる。
私の精神疾患は要因が己の中では明確で、それは偏に虚無の穴を直視した事に他ならないが、あれに近付いている時こそ「正気」で、日常に埋もれている時を濁っているだとか紛らわしているだとか表現したいところである。打開すべく試み、そして実際強烈な効力を発揮した瞑想については、「正気」でい続ける事と同等に体力を食う為に、この半年は如何に燃費の良い紛らわし方を続けるかの模索期間であったといっていい。
答えは身も蓋もなくシンプルなもので、作品享受と創作の二択だった。前者は外部に依存する為に飽きるなり終わるなりすると次の作品に移らなければならないのが欠点だが、最近やっていたエルデンリングのように数百時間割く程ハマれるようなものが見つかると抑鬱状態が遠ざかってゆく。後者は自発的であらざるを得ず、享受するだけの娯楽と比すればエネルギーの消費は大きいが、際限が無いのが最大の長所だろう。娯楽の享受に限界が来て空白期間が生じた時、それら程夢中になれるわけではないにせよある程度確実に紛らわせるのが創作、というところに落ち着いた。何のことはない、どちらも昔から最も時間を割いてきたもの達である。結局私が好きなのは作品か。
近況を軽く説明しておくと、碌に風呂にも入らずずっと炬燵に篭ってゲーム三昧、という典型的な引きこもりニートのような生活をしている。寒ければ風呂に入る気も起きるが、それなりに暖かいとどうしてもどうでもよくなってくる。意識的に入らねばならんらしい。生活リズムなど勿論ご察しである。
どうやら作品を享受するばかりの日々では頭が冴える事も殆ど無く、紛らわすには良いが私自身が覚醒状態であれないのが欠点か。
良い契機があった。暇潰しにplaystation storeで買った安物のゲームがTRPG感の強い作品で、主人公が正気を失うところ等に妙にシンパシーを感じ、久方ぶりに精神疾患や狂気について考えていたところ思索と呼べる状態に入った。魔剤を飲んでいたのも恐らくよかった。私にとって哲学は精神疾患と極めて近しいものであり、哲学を詰めた結果精神疾患を発症したように精神疾患について考えると哲学に入っていくらしい。
そして、思索に入り覚醒状態にある時にのみようやく生の実感を抱くあたり、私の本分はここにあるのやもしれん、と自惚れられる。こうならねばこの程度の文章を書く気も一切起きぬのだから、自分が思っていた以上に頭が鈍っていたらしい。
おお、いつか「正気」に突っ込みたい.......真理に到達して発狂してしまいたい.......。
然らば。