抽象的文言の攻撃的使用

唐突だが、俺がnoteで諸々書き始めたのはプラットフォームとしての出来が良いから選んだだけであって、俺は元々noteの住人ではない。Twitterの住人だ。そんな俺の記事にもしばしば如何にもnoteの住人然としたアカウントからの反応があるので気まぐれで見に行ってみると、「マキシマリストだった私がミニマリストになれた理由」「コツコツブログを続けるメリット」「信じる力の重要さ!」「日々の出逢いに感謝!」等と、よくもまあここまで戯言を思いつくものだと感心するような文言ばかり並んでいる。試しに軽く読んでみても蒙昧だとしか言われんスッカスカな人生観が踊っており、それを読んで「考えさせられました」等と宣う連中は普段からもっと物事を考えたらどうかねとしか思われん。ミニマリズムに関して言えば、黙ってその利点だけ並べていればまだよいものを、マキシマリズムと汚部屋の区別もつかないのにそれが劣ったものだという前提で話を進めるのが実に気に食わない。それでいて形骸化しているのが一層滑稽である。noteというプラットフォームは良いものの大半の住人は空虚な意識高い系に過ぎない事がよくわかる・・・・・・質の低い著者が蔓延っている場合、憂いたくなるのは蔓延らせている読者側に対してである。

別段ここで斯様にこき下ろしたところで彼らが変わる等とは思っていないし、変えるつもりも全く無い。note側からの読者を増やそうという気がないので、ただ快感に任せて見下してみただけである。


・・・・・・と、昔の俺なら正面から罵り散らかして終わっていた事だろう。否、既に罵り散らかしてはいるのだが。まあ聞け。

時に、俺は座右の銘は特に設定していない。というより正確には1つに絞っていないと言うべきだろう。これは複数抱えた金言を状況に応じて都合良く使い分けている為で、曖昧なバランスを保ち続けたいが故にたった1つの言葉で人生を定めたくないというスタンスによる。

幾つか並べてみよう。

「あまり利口でない人たちは、一般に自分の及び得ない事柄についてはなんでもけなす」(ラ・ロシュフコーの言葉とされている)

「何かを褒める為といって他の何かを貶す必要は無い」(既に誰か言ってる筈だが俺の中では先に俺が思いついているのでこれは受け売りではない。先の自称ミニマリストが好個の例と言える)

「語りえない事については沈黙しなければならない」(余りに有名且つ誤解の多い、且つ俺も理解し切れていないウィトゲンシュタインの言葉だが、スタンスとしては釈尊の「無記(毒矢の比喩)」と似るように思う)

色々ある中の一部に過ぎないが、こういった言葉で自分の言動を修正しようと努めている。数年前と比べると随分慎重になったものだが、しかしその所為で「丸くなった」等と認識されるのは心外だ。貶したくなる時は自分がそれを理解できていないからだという考えがあるからと言って、またその為に慎重になるからと言って攻撃性まで失ってしまってはミゾヲチではない。成長した結果中庸を歩むようになるという無難な「大人」になってしまうのは何としても避けたい。


と、いうわけで。何となくたまには無意味な攻撃もしておこうという適当な理由で罵ってみた。侮るなかれ、「何となく」は己の心の些細な赴きに耳を傾ける行為であって、損得や道理を排した妙である―――と言ってしまうと些か大仰だが、「何となく」で行動するのはその結果をあっさり受け止めるところまで含めて中々愉しい。そりゃあそうだ、何しろ心の赴きに従っているのだから。因みに「何となく」という動機には下手に論理的な理由付けをしない方がいいという考えがあるが、これは正しい。後述するが、言語化とは曖昧な思考・感情に枠を与える事であって、形は整うのだが本来のものとはどうしても違ったものになってしまう。心の赴きに従いたいのなら、下手に言語化して方向性を定めてしまったりはしない方がいい。やるにしても、直感的にこれだと確信できるような言語化ができそうな時に限るべきだろう。そうでないのなら保留でいいのだ。


ところで、俺は罵り方についても一家言ある。罵り方にも品位が表れるというのは「文豪たちの悪口本」で話題になった、例えば中原中也の「青錆が空に浮かんだような顔しやがって」辺りがわかりやすかろう。「ゲェジ」「ゴミカス」「クソバカ」等と小学生じみた幼稚な言葉を羅列するばかりではお里が知れるというもので、中也のような文学性を持たせろとまでは言わないものの、やはり感情を言葉にする間に通すフィルターへの工夫は欲しい。俺がよくやるのはオッカム(ハンロンでもいいが、何れにせよ用法は本来のものと少しズレている)の剃刀を敢えて使わずに形容するというものだ。例えば「特に得るもののない映画だった」を「便所の壁でも眺めている方が有意義なぐらい特に得るもののない陳腐な映画だった」ぐらいに形容を書き足すやり方である(何がどうズレているかもこれで理解し得るだろう)。これにはどの言葉を用いようかという語彙の選別、及びその選別された語彙を並び立てる最中という二段階の愉しみがある。どうせなら愉しみながらやる方がいい、という余裕をかました状態での攻撃が好ましい。

使えるものは都合良く使うというスタンスでいるので、例えば口喧嘩の様相を呈し始めた会話においては俺は(相手次第だが)詭弁を多用する。詭弁について学ぶ事はそれを使ってくる人間への対策を学ぶ事ではあるのだが、学んでいない人間を口先三寸で丸め込む武器として使うのも中々楽しいものだ(この在り方こそまさにミゾヲチ的だと思う)。先の剃刀の微妙にズレた用法についても、それがその時の俺にとり都合が良いからそうしたに過ぎない。便利なら使っちまえ。


・・・・・・このスタンスは俺の思考の限界から来ているような気もする。以下、少し遠回りな説明になる。まず俺の文章はしばしば「読みやすい」「わかりやすくて面白い」と評されるが、文を主としつつも文の道のみで食っていこうという明確な意志がある訳でもない人間にとり、この評価は必ずしも手放しに喜べるものになるとは限らない。その理由の1つとしては、俺の文章に対して明確な思考を明確な文章に表していると捉えてしまえるのだが、簡潔な文章に収まりきるような簡潔な思考しか出来ていないのだとも解釈され得るから、というのが挙げられる。「自分で言語化できないのならその程度の思考しか出来ていない」のだという強い主張(概して強い主張というものは、指標とするには粗雑だが攻撃するには大変便利だ)に基づけば、俺の元々の思考はこの文章の領域に収まりきってしまう事になる。少なくとも、複雑なものを複雑なままに説明しているわけではない。

勿論これは誤りで(説明すると長くなるのだが素通りするのはマズい気がするので述べておく)、まず人間の思考には漠然たる曖昧模糊な泉が根底にあり、そこに渦や流れ、澱みが生じた時に脳内である程度言語という枠で囲まれて表に出てくる、というものだと仮に認識しよう。言語化される前の渦はその時々によって色や形を変えるもので、その曖昧かつ複雑な性質は言語化される際にある程度失われてしまう。言葉が簡潔であればある程泉の渦も単純化されてしまうので、物書きは多く且つ絶妙な言葉の組み合わせで以て極力元の渦を損なわずに伝えようと努力する。・・・・・・己の中での渦のある程度の言語化と実際口から出る言葉との間にも一段階ステップがあるようにも思う。またこれは感情に限った話ではなく、例えば他人の主張を聞いた際に生じた違和感はこれも一種の澱みそのものであって、相手の論理の穴を見つけ、己の中である程度言葉の枠に捉えた渦を会話の流れに合わせ的確に論理の穴を突くような言語化をその場で行えて漸く「反論」となる。結構高度なのだ。

であるならば、違和感を抱く事とそれを言語化する事は別の事象であって、己の中で何となくでも反論は思い浮かんでいるのにそれを言葉として上手く表に出せない、等といった場合は違和感を抱く能力とは別の部分での不足があると考えた方が自然だろう。それは的確な比喩を挙げる能力の不足かもしれないし、思考速度が追いついていない事によるかもしれない、或いは単純に臆病なだけかもしれない。ただ1つだけ言っておくと、自分が何となく思っていた事を他人が的確に言語化したのを見て「自分もそう思っていた」「この人私に似てる」等と考えるのは思い上がりである。確実に言語化した人間の方が上だ。

とは云え、実際に言語化して表せられないのならば思考能力が不足していると言われても文句は言えない。何しろ言葉は曖昧な渦を「枠に押し込む」ものであって、そもそも押し込められるようなある程度の方向性を持った渦が生じていない場合は言語化などできる筈がないのだから。他者から(或いは本人にさえ)その区別はハッキリとつくものではない。

長くなったが、つまり俺の文章がそれなりに明確になっているのは、俺が言語化に慣れている為思考を惜しみなく(恐れずに、と言ってもよい)言語化出来ているのだとも捉えられるし、或いは単に言葉の枠にはめやすいような単純な渦ばかり生んでいるのかもしれないとも捉えられる。そしてどちらなのか、或いは両方だとしてどちらの方が要素として大きいのかといった事は分からない。しかし後者について少し思い当たる事があり、「思考の限界から来ているのかもしれない」と書いたのはその為である。

何かと云うと、以前の記事で少し触れた俺の思考の方向性の癖だ。知識や経験から得た具体的な複数の事象から共通する部分を抽象化するという思考の仕方が主となっている俺は、日常会話そのものやそれを通じた相手との共感には価値を見出せず、その1つ上(と言ってしまうが)の段階、抽象化された「法則」の方を重要視している。あくまで最初に目を向けるのは日常の事象そのもので、そこから昇華していくという訳だ。日常茶飯事や多少の損得それ自体には拘泥したくないので、挨拶すら省いて開口一番本題から入るような喋り方をする事が多い。

恐らくかなり数は少ないだろうが、その何れでもない人間もいる。彼らが端からそうしているのか、俺が今いる段階をとっくに通り過ぎたおかげでそうなっているのかは分からないが、彼らは恐らく形而上の概念そのものについて思考しているようだ。否、俺がテーマとしているものも普遍性についてであると捉えるならば形而上の端くれだと考える事もできなくはないのだろうが、抽象を考える際に必ず具体例を扱う性質上、必ず制限がかかる。俺は具象の並びから抽象化するのが好みらしい(ので為抽象的な話をする際の取っ掛りとしての具体例には事欠かない)のだが、これは抽象を抽象のままに捉える能力に乏しいのだ、と言ってしまってよかろう。抽象によって更なる抽象を考える彼らの思考にはどうにも追いつき難い。

そんな俺が、便利そうだからと言って端から抽象を取り扱う人間の言葉を抜粋して使ってしまうのだから、その言葉の本来の意図や文脈を失っている事は言を俟たない。ちらっと読んだ限りでもコギト・エルゴ・スムや「語りえぬ事については」は随分複雑な文脈で使われているので、その文脈上でしか正しくは用い得ないのだが、表面的な誤った解釈のまま使っても便利なのでつい使ってしまう。そして彼らの前で迂闊にそういった事を言うと即座に見透かされてしまう(実際クマ辺りにはツッコまれまくる)。底が知れる、というものなのだろう。


ただ、別段これで己の思考能力の限界を嘆いたりしている訳では無い。俺の思考は概ね自分の「生」に向かっており、(上記を踏まえた上でこの言葉を使うのは完全に開き直りなのだが)目的外のものについては「無記」で良いと思っている。そう思ってしまうのはその上の段階を捉え切れていないが故かもしれない(或るものの価値は、それをある程度以上に理解しなければわからないものである)が、様々なものを「攻撃」の手段として捉えるのは実にミゾヲチらしくて良い。スピリチュアルを排した東洋思想・東洋哲学、創作・芸術、美、衒学、そして攻撃。この奇天烈な組み合わせがミゾヲチを形作っているように思う。愉しい。また、それらのテーマとは別に曖昧なバランスを保ち続けたいが為に唯一絶対のものを求めない姿勢は、何となく重要な気がするのでスタイルとして採用しているものだ。斯様に長々と書いた文章に対して「で、結論は?」といった安直な単純化を求めるのは愚昧だという考えもこれに含まれるのだが、他にも幾らか理由はあるようなのでここではやはり「何となく」という言葉を使っておくべきだろう。確たる思想を持つが故にそれが言動の端々に表れているような状態の人間でないのなら、このバランス感覚を保ち続けたいものだ。

然らば。

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