古今の価値観の混濁、二種
歴史や古い創作物を現代の価値観で評ずることの愚昧さは、周知のことであると思う。
しかし或る一定の観点で以て歴史を通観してゆく手法は、史学の分野では基本的な手法のひとつであるから、ジェンダー論が入り込む余地は充分にある。トレンドの様相を呈して久しい、とすらいってよいかもしれない。
そういった研究は、歴史に興味(理解)の浅い、もしくは歴史を攻撃対象として認識している者がフェミニズム的に歴史を断ずるのとは、同一視できない。だが私にはどうにも不思議に思える。
昔から史学研究者や時代小説作家には、上記とは真逆ともいえる現象がしばしば見られるからだ。
例えば歴史上の特定人物――誰でもいい、織田信長とでもしておこう。織田信長についてずっと研究している者が、織田信長と混ざり合うような状態になることがある。彼が書く信長像はどこか彼のようであり、また日頃の彼の言動がどこか信長のようである……そんな現象である。
日がな一日中ずっと信長のことを考え、資料に当たるたびに信長の思考を読もうとしていれば、こうなるのもなんら奇妙なことではなかろう。学問は恋情にも似て、没頭してからが本番なのだから。
そしておそらくこの現象は、価値観についても当てはまる。
中世の人々の価値観や常識を知ろうとし、あるいは知ったそれらを前提として他の資料を読むことなどを続けていると、自然と己の価値観が中世のそれに寄っていく。弊害といえば弊害なのだろうが、好きで調べていることだからそう悪い気もしない、といった具合であろうか。
現代知識が失われるわけではないので、病の原因を悪霊や瘴気に求めたりはしないまでも、元より内心の価値観というものは個々人によって如何様にでもなりうる。犬は畜生だし、子供は人間ではないし、大人にも人権など存在しない……そういう感覚がじわじわと浸透してくるようなことは、ないでもない。
こういった経験をした者と、現代的価値観で歴史を紐解こうとする者との間には、ほとんど言語を絶する隔たりがある。私がよく使う言い回しを適用すれば、「人種が違う」。
過ぎ去ったものと今あるものとを混濁させているという点だけが、両者に唯一共通する事柄である。