澱みながらも張り詰めた
ここしばらくはずっと絵ばかり描いて過ごしていた。日がな一日中点描を打ち続ける生活であった。酷暑のピークに達する前とはいえ、エアコン無しで丸一日中絵を描き続けるのは中々工夫を要した。服など着ておられず扇風機の風をずっと浴びるが、これはやり過ぎるとあっという間に目が乾く。必須なのは温いシャワーで、特に最も暑くなる14〜15時頃にはそうしなければまともな体温でいられず、熱中症初期症状になるか否か程度を揺れ続けていた。冬には夜に入浴しなければ体温を維持できなかったのを思い起こすと、やはり最も楽な体温調節は湯という事らしい。服を着ずに過ごせるなら、シャワーと言わずまでも時折体を濡らすのは効果的だ。
友人の結婚式を機に札幌の実家に帰省した。涼しいだろうとは思っていたが、肌寒いだろうとまでは思っていなかった。親などは北海道の気候に慣れ切っているので暑い暑いと抜かすが、関東で冷房の無い生活を送っていた身にはあまりに快適であった。気温もさりながら湿度が違う。ここ数日はそれでも多少温度は高くなったが、日本人が思い描く古きよき「夏」が北海道にはあった。本州、関東以南の夏には情緒を感じる余裕など皆無であろう。用があって1泊分だけ千葉に戻ったが、飛行機から降りた瞬間に感じた暑さはほとほと嫌気が差す類のものだった。
1つ個人的に問題になったのが、実家の緩い雰囲気に当てられて鬼気迫った点描をやるには気が抜けてしまうという事だろうか。こちらに来るまでは毎日10〜12時間、サボった日の下限として3時間程度、長ければ14時間程も作業していた。指、手の甲、手首、首、肩、腰、目、或いは意識等、どこかしらが限界を迎え作業の続行が困難になったら寝るというのが基準であり、世の真面目な受験生というものはこういう生活を送ったりもするのだろうかなどと思う。私は受験勉強などそっちのけであったからね。
精神を患う以前とは比にならぬ精度の点描で暗い絵をずっと描き続けるのは中々精神にくるもので、そもそも正常であればかなり早い段階で飽きがくる。頭がおかしくなりそうな作業を続けるには実際に頭がおかしくなってしまうのが手っ取り早く、私の場合は躁鬱とカフェイン、爆音のBGM、或いは作業前のちょっとした意識操作等を要する。
躁か鬱何れかであれば作業はできる。その時の心身の調子によってどちらかに持っていく事になるが、躁については概ねカフェインで確保できるようである。鬱にする場合は30分程度かかる。これまでに言われて腹が立った事、ネガティブな事象などを片端から思い浮かべて反芻し、精神が澱むにつれて生を恨み、過去に受けた言葉と今後受ける言葉を全て拒絶し、更に昂り、最終的に「よし明日死のう」となったら作業開始となる。……鬱ではないな、これは。何と呼ぶべきだろう。
こうした得た精神状態は目から頭部にかけての感覚が正常時とは些か異ならせ、神経が張り詰めたままを維持できるようになる。これが中々心地好い。デメリットがあるとすれば、人が嫌いになっていく事ぐらいだろうか。付き合いの長い知人は特に。即ち大した事ではない……何かを得る為には何かを捨てなければならない、というのは最早信仰にも似た私の信条である。
とはいえ当然ある程度孤独な環境でこそ捗る精神操作であり、古い木造家屋の陰鬱な自室は非常に適していたのだと気付くに至る。自分で思っていたよりも環境に依存していたらしい。またこうした状態では常に結構な音量での作業用BGMを必要とし、作業中部屋に誰か入ってきても全く気付かぬ始末であった。同じ曲をずっと聴いていても飽きるので、これまで手をつけていなかったジャンルの音楽も聴くようになったのは思わぬ収穫であった。ブラックミュージック、中々悪くない。
昨日、転機があった。岩内の神仙沼という湿地帯までドライブしたのだが(私は沼地が好きだ)、作業中聴いている音楽を流しながら久々の運転を数時間、というのは、緩みきっていた緊張を取り戻すには丁度良かったらしい。帰宅後疲れてはいたが、絵の作業を再開してみると、以前と同じような―――澱んでいながらも張り詰めた―――精神状態に入り、今朝もやや寝不足ながらパッチリと目が覚め、今もずっと仕上がったままである。
……人間の言葉はお互いが正気である事を前提としている為に、常ならぬ状態の形容はいつも難しい。
然らば。