自意識の範囲

彼の直近の幾つかの記事の中で最も言及したくなったので、他を放置してこちらを優先する事にする。

どこから触れたものか少し迷うが、取り敢えず自意識の範囲か。

自我意識の障害、自他境界感の喪失といえば統合失調症の症状の一つであるが、彼が述べているのは自意識の拡大であり、外界からの自己への侵入である統合失調症とは逆方向の滲出であろう。あれが常に被害妄想的であるのと比べると、自意識の拡大は支配的だ。車の例に合わせていえば、実際手慣れた運転手は車をほぼ完全に支配し、体の延長であるかのように扱う。刀を扱う人間も、刀が武器でなく己の手の延長とするよう習うという。そして思うまま操れるようになった時に我々は充実的な楽しみを覚える―――水泳ならば水の中で陸地以上に自由に動けるようになった時、ピアノならば大抵の曲を直ちに弾けるようになった時、絵ならば己が思い描いた通りのものが紙面上ないし画面上に写せた時。真に楽しくなるのはその領域に至ってからだ。水と、ピアノと、ペンと自分が同期するようなものだと思ってもよい。

勿論同期の難易度はものによって大幅に異なる。PCのキーボードのタイピングとピアノの演奏では次元が違う。更に、少し異なるが操作らしい操作の必要ないもの、例えば眼鏡を自在に扱えたところで喜ぶ人間などいない。眼鏡は掛けた時点で顔の一部になる。

謂わば自意識の範疇とは、己が自由自在に操作可能な、即ち完全に支配したものの範疇だ。

そして(少なくとも記憶にある限りは)何の技術も経験も無しに最も自在に操れるものが身体に他ならぬ為、身体が自意識の収まる器となっている。赤子が己の手足や声に喜ぶのは、生まれて初めての自意識の拡張を認識する為である。ダンスや格闘技といったものになるとまた話は変わってくるが。

道具は思わぬタイミングで不調になる事もあり、その時は同期を失うものだが、我々の身体とて何ら変わらない事は言を俟たない。まして事故の後遺症等で体の一部が全く動かなくなったりでもすれば、その部位は同期できてない事になる。もっと卑近な例を挙げるなら、疲労や加齢で体が思うように動かせなくなるのは、自意識の枠が乱れてくる事になる。若さ故の万能感は、まずは身体を自由に操れるところからきている。


自在な操作といっても、己が触れている物が己の思い通りになる事に限った話ではない。例えば他者の心理を完全に操作する事は極めて困難だ(高度な洗脳はこれを可能とするのだろう)が、まあある程度は可能だ。印象操作や会話で相手を誘導する事は(相手にもよるが)容易である。そしてもっと外面的な場合もある―――支配者が命令で手下を好きなように扱う時、支配者の自意識は手下にまで及んでいる。一国一城の主というものは、その自意識が国や城全体にまで及ぶものだ。

また、命令を要さずとも、例えば自分の部屋を操り得るのは自分だけである。その点において自室というのはそのまま自意識の範囲となろう。縄張りというやつだ。故に部屋は持ち主の心を表しているのかも知れない。

因みに我の強い人間は自意識を拡大させたがるものだが、俺は空間的な支配欲が結構強い。今の家で俺が自意識を抱いているのは自室を含む二十畳程度と応接間、場合によっては200㎡を超える家全体やその周りの庭にまで及ぶ(ゾ邸という名にも表れている通りだ)。これでも全然足りんがね。

空間的な場の支配、非空間的な場の支配、そしてコミュニティの支配。その権限の及ぶ範囲が、自意識の範囲となる。

少し異なる例として、一人で行く廃墟を挙げたい。神社等でもいい。その空間にいるのが己一人である時、その空間は自分だけのものである・・・・・・という感覚がある。独り占めという言葉を使ってもいいが、部屋のように己の支配下になくとも一時的に自意識じみたものが生じる。その一時が楽しいのだなぁ。


身体の話に戻るが、手や足は己が自在に操れるものとして当然の自意識範疇となるが、例えば髪はどうであろう。髪そのものには痛覚も触覚もなく、動かす事もできない。しかし髪型は当人の自由に扱えるものである為、宿るのは部屋や眼鏡に及ぶものと同種の自意識であろう。軍や部活、更には封建時代の武士のように組織に髪型を決定される事は、身体の一部の支配権を譲る事を意味する。服装も概ね同様か。

以下の話をこのタイミングで書く予定はなかったのだが、もう少し掘り下げてみよう。自分の体の範囲はどこまでであろうか。例えば、爪は貴方だろうか。そうであるとして、切った爪は貴方なのだろうか。この質問に対しては、分離された時点で自分ではない、と考える者が多かろう。では、貴方の汗は貴方なのだろうか。貴方の呼気やそれに含まれる水分は、いつ貴方でなくなるのだろうか。

貴方が飲んだ水はいつ貴方になるのだろうか。貴方が食べた物はいつ貴方になるのだろうか。貴方が受け取った情報は、いつ貴方になるのだろうか。

生命とは、外から受け取った物を取り入れ、変じ、或いは排出し、循環しながら動き続けるものである。より唯物論的に見るなら、宇宙の中、地球という粒子の塊の上で蠢く、これまた粒子の塊に過ぎない。動きを止め、分解され、やがて別の塊に変じてゆく。動き続ける間にも他の粒子の塊と混ざり、分離し、変わり続けていく。

また3年前の貴方は、今の貴方と同一人物と言えるのだろうか。人体を構成する60兆個の細胞は、2年程度でほぼ全て入れ替わると言われている。骨すらも成人なら2年半程度である。生命はそれ自体まさしくテセウスの船なのだ。

・・・・・・存在しないのだろう、〈個〉の明確な境界など。今こうしてこの文章を読んでいる最中にも、貴方の皮膚や呼気からは水分が逃げ、或いは酸素を取り込み、循環し続けている。かつて俺であったものが今貴方になっているかも知れないし、貴方の一部がやがて俺になるかも知れない。

斯くの如き思考においては自他の境界線は存在しない事になり、しかし今こうして生きている自分は何を以て自分とできるのかという問いが生ずる。これについては物心二元論を避けて通り得ない。


個々の物質的な区別が便宜的なものに過ぎないとして、それでも過去様々に議論されてきたクオリアの類はこの場合身体とは少し切り離して考えるのが自然であろう。物理的には曖昧な〈個〉の境界とて、感覚質が確かに〈個〉の内にのみ生ずるのならば、精神の類は肉体とは独立して存在するという二元論的主張を受け入れるのも容易となる。尚ここではコギト・エルゴ・スムについては割愛させていただく(話し始めると切りがない)。

これを踏まえると、〈自意識〉の意味合いも少し変わってくる。クオリアが明確な〈個〉の意識だとすれば、ここでいう〈自意識〉は身体同様線引きが曖昧な意識である。それは意識を持たぬ物体に侵食し、やがては他者の意識にまで迫る、即ち物心を問わない存在となる。身体が循環するように自意識もその領域を気ままに変えてしまう。寧ろここにきてクオリアの不動ぶりが特殊なものに思えてくる気もする。


そういえば、極端に自他の境界を消し去ったものもある。想起すべきはウパニシャッド哲学の根幹、梵我一如である。軽く読む程度では全くわけのわからない概念なので、禅と薬物を取っ掛りにしてみるとしよう。

禅病という言葉がある。魔境、野狐禅ともいう。座禅・瞑想に失敗した時に生じる現象で、誇大妄想や幻覚、体調不良、極度に感情的になるといった症状を見せるものである。何が言いたいかというと、バッドトリップにそっくりなのだ。逆に究極に成功した際、やがては悟りの境地に辿り着くとされるが、文献にある限り悟りの境地は至高の幸福と梵我一如であるらしい。これは薬物が上手くキマった時の感覚に極めて近いようである。

・・・・・・つまり座禅とは、脳内麻薬を自発的に出しまくり、キマって楽しむものではないか、というのが私見である。俺も多少瞑想の練習してから海外で大麻ぐらい試してみようかしら。

ともかく、この領域は自他の境界を完全に取り去り、車や道具を遥かに超え万物との同期を直観するものであるらしい。直観ともなれば論理での推定は殆ど不可能なものとなってしまうし、支配下にあるものという先述の自意識の範囲にも合致しない(筈だ)。未知の領域なのでここでは安易な結論を出さず今後気長に探っていこうと思う。


論旨が迷走してきたのでもう終わらせておく事にする。かなり雑な論・・・・・・という程のものですらないが、反論・意見・補足等あれば好きに引用してくれ。ツッコミ所なら幾らでもあろう。

然らば。




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