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9月1日は母の誕生日だ。
同じ市内。自動車で10分くらいのマンションに住んでいる。
一人暮らし。年金と生活保護で質素に暮らしている。

元夫である父は、今から20年くらい前に失踪した。
その前に、実は母も一時的に失踪した。
失踪の原因は、元夫である父は、復縁していたと思っていたが、
母が、手当欲しさに入籍しておらず、そのことが父にばれてしまったので、突如母が失踪というもの。

急に連れ合いがいなくなったので、父は生きる力を失い、ある日失踪した。
父母2人が失踪、と思いきや、手がかりをなんとかたぐりよせて、
自動車ではしりまわって偶然的に、母は発見。
N県のとある民宿に身を寄せていた。

母の母は、自分から見たら祖母は、母を捨ててある日失踪したらしい。
自分が親から捨てられたって。なかなかなことだと思う。
このことは、父が、失踪する前に暴露話で聞いた。
西成の親戚のもとで育てられた母は、それは大変苦労したらしい。そのことは僕らには話してくれたことはないが。。

その母は、工事現場で父と出会った。
現代、建設現場で働く人たちは、レオパレスなどのしっかりプライベートが確保された住処を与えられるが、昭和40年代にそんなシステムは無い。
いわゆる飯場というところで、僕は生まれた。
僕が生まれた時に、家は無かったということだ。

その後、文化住宅に住処を移す。
父母は2人ともすさんだ環境で育ったこともあり、アルコールが大好きだった。そして父自身も虐待されて育てられたことが原因してか、父母の喧嘩は絶えなかった。
父は建設業の職人といっても、大工だったら羽振りはよいが、鉄筋工員だった。誰でもできる無資格の職人だったため、収入は不安定だった。
父はパチンコや飲み屋のツケの支払いのためによく家財を質入れしていた。
それもまた不仲の原因。

いつの日か、父の姿が消えた。この時に一時的に離婚。
その後、また父が現れて、再入籍
と思いきや、母が父を裏切り、入籍させていなかった。

さて、父母が離婚した時
生活費はどうしていたのか未だに謎だが、
我が家は、当時では珍しい母子家庭になった。

不安定な経済状況の中、母は必死で僕ら兄弟3人を養ってくれていた。

冷蔵庫が無い時もあった。
学校に行けない時もあった。
今夜、炊くご飯が無い時もあった。その時は、どんぶり鉢をもって、近所の中華料理屋に使いに出向いた。(当時は、何に恥も感じず、母の使いに走っていた)

そんな頃に、母は時々

「うちの定食」

といって、即席ラーメンを作ってくれた。
家族4人で、それぞれに一杯づつ。
キャベツ、卵がはいっていて、
母の握ったおにぎりが添えられた。

母にとっては屈辱だったと思う。
こんなものしか、子どもたちに食べさせられない・・・
今、親の立場になった自分だから、その時の心情がおおむね推察できる。

だが、当時の僕らには、これが本当にごちそうだった。

単純に、おいしい。

母にとってはネガティブな特別な食事だっただろう

だが、オリジナルな、わが家だけの食事には特別感があった。

たとえ、それが袋めんであっても
母から「我が家の定食」とだされて、喜ばないはずがない。

うれしかったし、
あの頃は貧乏だったのだろうけど
貧乏と感じることはなかった。家が暖かったように思う。

今、自分は一人の息子の親となり
もうあと数年で定年を迎えるくらいになった。

まだ、一人前とは言えない。
まだだ。

だって、親に対して、どれほどのことも出来ていないように思えるからだ。

妻とわが親との関係はなかなか難しい。
兄弟3人で、生活保護を受給している母にどれほどのことができるかはわからないが、

ただ、感謝を伝えた。

9月1日
おかん。誕生日、おめでとう。

あんたの好きな桃とブドウ持ってきたから
おいしいもん食べて、元気でおってな。

ありがとう。

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