カリフォルニアロールはお寿司か問題 #4 崑
ダンスという文化
面白い動画を見たのでそれに関する所見を。
私語りから失礼します。僕はポッピン(popping)というジャンルのダンスをかれこれ2年しています。このポッピンダンスの特徴はヒットです。ヒットとは筋肉を高速で収縮して身体が弾けている(だからヒットです)様に見せる身体操作です。こちらの動画を見れば掴めてもらえると思います。
今でこそある程度ヒットは出来るのですが最初は勝手が分からず、そもそもかなり舐めていました。始めた理由も大学の友人が所属しているダンスサークルの発表を見に行き、その流れで初めて見ただけです。
まあ初めて何か月か経つと先輩たちがかっこよすぎてどんどんモチベーションも上がっていき、ダンスという文化への理解と興味も増していきました。そして次第にダンスの中にも多くのジャンルがあり、僕が踊っているのはアメリカ西海岸にルーツを持つダンスであったこと、色々な技の誕生秘話、この文化を偉大な物にしたOGと呼ばれるダンサーたちがいることを知りました。僕は歴史や文化が好きなので、このようなストーリーをダンサーの先生から聞くのが好きでした。
NAS ISNT BAD, but NAS AINT POPPING.
はい、意味わからないですよね。この文言は、ポッピンダンスのOGであるSlick Doggというダンサーがインスタグラムで主張して物議を醸した内容です。
動画はこちら NAS ISNT BAD, but NAS AINT POPPING.
NASとは彼の造語で、New Asian Styleの約です。彼らはダンスする際にヒットはたまにしかせず、また異なるジャンルの『型』を多用し、かなりおちゃらけた踊り方をしています。しかし、彼らは自らをポッピンダンサーと称しています。彼はこのことについて怒こっているのです。
Slick Doggがこの動画で主張したいことは一つで、「外国人が中国語を習って話すのは大いに結構だが、それを変えるのは間違いであり、そもそもそれを変える権利は無い。」ということです。
そもそも今若者に人気のストリートダンスの大半はアメリカの黒人文化の中で生まれたものです。彼は、僕たちが作った文化を尊敬してくれよ!と言っているのです。もちろんダンスは自由なものです。踊るときにこれをしてはいけない、あれをしてはいけないという制約は無いのです。
しかし、だからといって闇雲に動いても見ている人には何も伝わらないし、面白みもありません。どうすればかっこいいか、人を楽しませられるかということを考え詰めて生み出されたのが今のストリートダンスの『基礎』であり、『型』なのです。彼はこの『型』をないがしろにしているのに自分たちはその『型』を体現していると銘打っている人々を批判しているのです。
ポッピンダンスを踊る人はたいていロボットダンスが出来ます。しかしだからといって「ロボットダンサーはポッピンダンサーだ」というのはおかしい話です。これらは異なる人々が考案したもので、それぞれ考え付いた人々に「これこそロボットダンスだ!」と言う権利があると思います。
彼は別に他のジャンルのダンサーがヒットをしてはいけないと言っているわけではありません。他のジャンル(例えばヒップホップ)のダンサーがヒットを取り入れることは当然ありますし、それは完全に自由です。しかしだからといって大枠がヒップホップであるものにヒットを入れたからと言ってそれをポッピンダンスと呼ぶのはおかしいと彼は言っているのです。
先ほども言いましたが、外国人に外国語を変える権利などないはずであるというのは当たり前の話だと思います。そもそも自国の人でもそれはおかしなことではないでしょうか。僕らだって「『あ』の発音を今日から『お』にしよう!」なんてしてはいけないはずです。それはもう日本語ではなくて違う言語です。文化とは長い間育まれた『型』であり、それを壊したら単なる『型無し』になります。そんなものは全く新しくもありませんし、面白みもありません。『型』をしっかり守り、とことん学んでそこから新しいものを生み出すことこそが有意義なのだと思います。それでこそ『型破り』なのだと思います。
彼を批判する人々は「彼はレイシストだ!ポッピンの可能性は無限大だ!ダンスはアートであり、自己表現だ!」と言います。もちろんダンスは自己表現で、何をしてもいいですが、「サッカーは野球だ」と言う権利は私たちにはありません。
これは概念の話では無くて、単なる事実です。彼は「僕が黒いTシャツを着てて、あなたがこれを白いと感じたら、それは間違い」と動画内で言いましたがその通りだと思います。考えと事実があった場合、正しいのは事実に決まってます。これでもし考えが優先されるようになったら、この世は終わりだと思います。それこそジョージオーウェルの『1984』のような世界にいなると思います。
“I respect men and women who use critical thought, but not your feelings.”
カリフォルニアロールはお寿司か問題
くどいようですが、彼が提起しているのは「カリフォルニアロールはお寿司である!」と外国人が勝手に言って良いのかと言う問題です。大半の方々はこれは違うだろうと思うはずです。
それは何故か。それは文化の外の人々が勝手に寿司とは何かということを論じているからだと思います。味噌を入れてない汁物を「味噌汁の多様性だ!味噌汁の可能性は無限大なんだ!」と言ってそれを味噌汁と言うのは無理があると思います。それは、味噌汁を考案した人々への冒涜だと思います。
もちろん、『味噌汁のイデア』みたいな抽象的な単一なものがあるわけではありません。かぼちゃを入れる人もいれば、オクラを入れる人もいる。何も入れない人もいるかもしれません。しかし最低限その人それぞれの味噌汁を『味噌汁』たらしめてる要素があるはずです。それが味噌であり、お出汁です。
味噌汁の味噌はポッピンで言えばヒットです。これが無いでそれをポッピンと自称するのは確かに受け入れ難いです。しかしながら、僕の住んでいる台湾のポッピンダンサーは彼を「人種差別だ」、「ポッピンの可能性は無限大でありこの発言は不適当だ」と批判していました。僕が大好きなダンサーもこの様な反応でした。かなり滑稽な様子でした。
文化の喪失
この様な問題は至る分野で起きていると思います。この現象の怖いところは、文化が無くなる点だと思います。何もかもが曖昧になり、区別が無くなってくる。その曖昧さの中で、色々な有意義な差異が溶解してくる。これは文化の継承、発展という観点からして非常に危険だと思います。今のポリコレ優勢の時代には当然起きる現象だとも思いました。
彼はこれらのアジア人のダンサーを批判しているのではなく、彼らが自分の踊りをポッピンと称する事を批判しているのです。そして、違う踊り方をするならば、自ら流派を作ってそれを呼称すれば良いじゃないか、と言っているだけです。これの何処が問題なのでしょうか。アメリカにも、アジア人のポッピンダンサーは大勢いますが彼は別にそれを全く批判していません。結局大事なのは、『型』なのです。ポッピンなら、ポッピンの『型』が無ければダメなのです。そこを履き違えている人々が余りにも多いと思います。
皆さんは如何お思いでしょうか。他の分野でも起きている問題だと思うので、似たような事がありましたら是非コメントして下さい。オススメもしてくれたら僕が泣いて喜びます(笑)
長々と読んで下さりありがとうございました。良ければいいねとフォローの方お願い致します。