『現代思想』3月臨時増刊号掲載の千田寄稿文などについて

『現代思想』3月臨時増刊号に掲載された、千田有紀さんの「『女』の境界線を引きなおす 『ターフ』をめぐる対立を超えて」という寄稿文に関しては、ゆなさん、夜のそらさん、少年ブレンダさんらがブログで書いており、twitter上でも様々な人が言及している。また、ゆなさんのブログに対して千田さんが「誤読」を指摘し、ゆなさんがそれに返答するブログを書いている。さらに、2月26日(水)に、「No Hate TV」でも、千田寄稿文がとりあげられた。

 千田さんの寄稿文だけでなく、複数の方々のブログ、千田さんの指摘等を読んでみた。私自身はジェンダー/セクシュアリティを研究していたわけではないし、社会学者でもない。また、トランス女性でもない*1)。千田寄稿文の詳細な問題点については、複数の方々のブログ記事に書かれているので、ここでは繰り返さない。本稿では、千田寄稿文、およびその後千田さんがnoteに投稿した記事から感じ取った疑問点などをとり上げていきたい。

第1章 千田寄稿文の疑問点 
 1 「差別意識」という言葉の用法
「「男性器はついているけれども女性だというジェンダー・アイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。女性たちがトランス女性と風呂やトイレを共有するときに、不安の源として「性器」に目が行くのは、これまた理由のないことではないのだ。
 ペニスに関するこういった一連の意味は、「ターフ」が作り出したものではない。彼女たちはその「常識」をなぞっているのだ」[p.249]

「必ずしも『差別意識』からではない」という書き方では、「男性器はついているけれども女性だというジェンダー・アイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚える人たちには、差別意識に基づく人と差別意識に基づかない人の2通りいるということになる。しかし、千田寄稿文ではその点が曖昧になっている。女性を日本人、「男性器はついているけれども女性だというジェンダー・アイデンティティがあるから女性」「トランス女性」を中国人(や韓国人など、非欧米系の海外の人々)に置き換えると、そのひどさがわかる。

「中国人という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも『差別意識』からではない。日本人が中国人とトイレやお風呂を共有するときに、不安の源として『顔』に目が行くのは、これまた理由のないことではないのだ」

 目に見えない(証明できない)「差別意識」を持ち出して、「いやそうではない」という物言いでは、結果的に目を向けられる側の心情を切り下げることになる。目を向ける側の本心がどうあれ、目を向けられる側からすれば、目を向けられて不快な思いをしたという過去は変更不可能なのである。千田さんのこの記述は、たとえるなら、セクハラおやじの言動を「コミュニケーションの一環」として正当化するような不愉快さがある。なぜなら、感じた側の実感を無視しているからである。シス女性の不安を記すのであれば、同時にトランス女性の不安も記さなければ、片手落ちと言われても仕方あるまい。

2 トランス女性の思いの矮小化
「問題は『二元論の片方にトランス女性を『女性』として認めて入れる』かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと『感じられる』かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、『トランス女性が安全にトイレを使う権利』であるべきだ。なぜそこが従来の『女性』トイレだとアプリオリに決められているのか。私たちに必要なのは、どのような分割線を引くことで、すべてのひとに安心、安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことに合意することではなかろうか」[p.253]

 後半の数行を読むと、大局的に見ることが大切かのように受け取れる。千田さんの言いたいことは分からなくもない。しかし、腑に落ちない点もある。まるで、セクシュアルマイノリティがカミングアウトをした際の、シスヘテロの人たちのある種の反応を目の当たりにしたかのような印象を覚えるのだ。たとえば、以下のような具合である。おそらく、似たような経験した方もいると思う。

 当事者:実はゲイなんです。
 相手:大事なのは人間性ですよ。
 (ゲイと書いたが、その箇所はレズビアン、トランスジェンダーなど、自分のセクシュアリティに置き換えて読まれたい)

 「大事なのは人間性」という返答がダメなのは、以下の2点による。
 1 その「人間性」はシスヘテロの人間性であり、そこにセクシュアルマイノリティが想定されていないこと。
 2 「人間性」の一語で、これまでの当事者の苦しみやカムアウトに至るまでの葛藤などが、全て無にされること。

 トランス女性が求めているものは、「女性がトイレを安全に使う権利」である*2)。「皆が安全だと『感じられる』かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない」という記述は、トランス女性が求めているものを結果的に矮小化しているように感じる。それこそ、シスヘテロの人々が「人間性」の一語でカムアウトを無にするかのように。

 カメラを引いて大局的に見ることの重要性は否定しないが、カメラを引くことでレンズに映らなくなってしまうものが出てくるのである。そして、写真や映像に映らなかったものは、結果的になかったものとされてしまうのだ。決してそうはならないと誰に断言できようか。

 3 千田寄稿文の印象
 千田寄稿文はとにかく読みにくい。一文が200字を超えるような超長文が頻出するわけではないのだが、文と文、話題と話題のつながりがわかりにくいのだ。そんな寄稿文を読んでいる間、上野千鶴子さんの「<わたし>のメタ社会学」という文章の一部が思い浮かんできた。ちなみに千田さんは、東大上野ゼミの出身である。

「その文章が「難解」であるとすれば、たんに悪文であるか、それとも書き手自身にとって未消化なことがらを書いているからにすぎない。「難解さ」は社会科学の記述にとって何の名誉にもならない。[p.417]
           上野千鶴子(2015)「<わたし>のメタ社会学」
                  『差異の政治学』 岩波現代文庫

 千田さんにとって、トランス女性の問題は「未消化なことがら」なのではなかろうか。未消化のことがらを扱った結果、読みにくい文章になったように感じられた。

第2章 noteに投稿された千田さんの記事について

 1 安易に共闘を呼びかける甘さ
 千田寄稿文のタイトルは「『女』の境界線を引きなおす」であり、決めたのは千田さん自身である。そのタイトルにした理由を、「『女』の境界線を引きなおす意味―『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について」という記事で、千田さんは以下のように書いている。この文は、ゆなさんのブログ記事を受けてnoteに書かれたものである。

「生物学的な本質主義にまみれていた『女』というカテゴリーを、さまざまな存在―トランス女性も含む、現実に存在する多様な女たちを意味するカテゴリーにずらしていくことを主張するとてもいいタイトルに思われたのだ。
 『女なんてしょせん』と女の本質を意味づけようとする、そういった追いかけてくる意味づけから逃れるために、「女」というカテゴリーを生物学的な本質主義から解放し、「共闘」しようという、トランス女性へのメッセージでもある」

 まず、「共闘」などと軽々しく言ってくれるなと思う。「共闘」を呼び掛ける前に、シス女性とトランス女性の共闘はいかにして可能なのか、その考察がすっぽり抜け落ちている。

 上野さんは、「ゲイ・スタディーズとフェミニズムは出会えるか?」を考えるために、4つの問いを立てたことがある*3)。

 ・敵は誰か
 ・誰が担い手か
 ・何を問題にしているのか
 ・共通の敵はあるか
     上野千鶴子(2015)「ゲイとフェミニズムは共闘できるか?」
                   『差異の政治学』岩波現代文庫 

 「女」の境界線を引きなおしさえすれば、シス女性とトランス女性は共闘できると千田さんが考えているのなら、その見込みは甘いと言わざるを得ない。政治の野党共闘を見るまでもなく、共闘には双方の合意形成が必要である。そもそも、共闘に限らず、誰かと何かを行おうとする際に、確認事項があるのは当然である。必要不可欠である確認や合意形成をすっ飛ばしたまま(自身にとって都合のいい)メッセージだけを届けようと思うなど、虫がよすぎる。トランス女性から見れば、シス女性のトランスフォビアが根本的な不信になるはずだ。トランスフォビアの顕著な例が、terfによるトランス女性への言動ではなかろうか。

 LGBT相互の間でさえ、共闘という言葉は(私が把握する限り)聞いたことがない。たいてい聞くのは「連帯」である。シス女性とトランス女性の場合、前者はマジョリティ、後者はマイノリティである(女性は男性と比べればマイノリティではないかという点は、ここでは問わない)。マジョリティからマイノリティに呼びかける場合、マジョリティ側の意図とは無関係に、受け手側がその呼びかけをマジョリティからの「施し」として解釈するかもしれない。こうしたことにセンシティブになれないのであれば、安易に共闘など呼びかけるべきではない。共闘の安易な呼びかけは、むしろ無神経ささえ感じられる行為である。

 話がそれるが、何かを呼びかける以前に、他人に声をかけること自体、慎重に行うべき行為である。「がんばれ」などはその典型例である。その言葉に追いつめられると感じる人もいれば、言葉自体より言葉がけが自分を気にかけてくれる証しだと受け取る人もいる。上野さんは別の著書で、こんなふうに書いている。

「私は『がんばって』と他人に言うのもイヤだし、他人から言われるのもイヤだ。がんばりたくなんか、ないのだから。それでなくても、女はすでに十分にがんばってきた。がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。今、女たちがのぞんでいるのは、ただの女が、がんばらずに仕事も家庭も子どもも手に入れられる、あたりまえの女と男の解放なのである」                           [p.226]
            上野千鶴子(1986)「おんな並みでどこが悪い」
                    『女という快楽』 勁草書房

 上野さんが上記の著書を出したのは30代後半、つまり今の千田さんよりも若いときである。千田さんは50代にもなって、この程度のことも想定できないのだろうか。「千田さん、あなた社会人を何年やっているんですか?」と問いたくなる。学術誌ではなくnoteとはいえ、「共闘しようというメッセージ」などと、青年の主張的なことを書くような年齢ではあるまい。

 2 自明性の領域を抜けること
 千田さんにとって、トランス女性の問題は「未消化なことがら」なのではないか、と先に書いたが、未消化というより、最初から目に入っていない(トランス女性のツイートなどが網膜に写っても、それが情報として脳に伝達されていない)のが実情ではないかという気がする。ここでも、上野さんの「<わたし>のメタ社会学」が思い浮かぶ。

「人は訓練によって『情報』の量を増やすことができる。ひとつは自明性の領域を懐疑と自己批判によって縮小することによって。もうひとつは異質性の領域に対して自己の受容性を拡大することによって」[pp.409-410]

「『情報』の価値とは自分にとって自明なものと自明でないもののあいだの落差である、と。したがって自明性の世界に生きることで『複雑性の縮減』(ルーマン)をはかっている人々には、当然のことながら『情報』は発生しない」[p.410]
            上野千鶴子(2015)「<わたし>のメタ社会学」
                   『差異の政治学』 岩波現代文庫

 千田さんの場合、シス女性という自明性の世界に生きることで、トランス女性が発する声が「情報」として届いていないように(私には)見えた。「女」の境界線を引きなおすことが千田さんの本心であるなら、自明性の領域から抜け出ることが必須ではなかろうか。

「自明性の領域から抜け出るにはどうしたらよいか? 研究者の自問自答から答えは出てこない。自分にとって未知なもの、ノイズとなるもののなかにしか、新しい『情報』はない。(中略)自明性の外側にあるこの『当事者のカテゴリー』を『聞く力』をもてるかもてないかが、観察者に問われている」[pp.410-411]
           上野千鶴子(2015)「<わたし>のメタ社会学」
                  『差異の政治学』 岩波現代文庫

 トランス女性という「当事者のカテゴリー」を聞く力をこそが、今の千田さんに必要なことではないか。それができないなら、トランス女性に「共闘しよう」などと断じて呼びかけてはいけないし、その資格もない。

 3 千田さんの言いわけ(というか、居直り?)
 noteの記事の終盤に、千田さんは以下のように書いている。

「ゆなさんのブログを引用しながら、『現代思想』編集部や編集者に抗議するというひとたちもいたようだが、そもそも「ターフについて書いてくれ」と依頼されたものではない。「ポストフェミニズム」について書こうと思っていたが、私のなかでは、それほど切り口は変わっていない。これらは、まさにポストフェミニズムの事象についての問題である。論文の責任は(論文でも論考でもエッセイでも好きに読んでくれて構わないが)、すべて私に帰するものである」

「好きに読んでくれて構わない」と本気で思っているなら、そもそもnoteに言い訳めいた記事を掲載しないはずである。好きに読まれて誤読されると困るからこそ、あわててnoteに記事をアップしたのではないか。noteに記事の前半で、千田さんはこう書いている。

「専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである。そうであればあるほど、そのような恣意的な「要約」が拡散させられるのであったら、研究者はたまったものではない」

 実際の論文ではなく、非専門家による恣意的な要約が拡散されたら研究者として困るという気持ちは、想像できなくもない。だからこそ、千田さんはnoteに記事をアップしたのだろう。ならば、好きに読んでくれて構わないなどと、居直りめいたことを書く必要はない。読み手に度量の大きいところを見せようとして、かえって失敗しているだけである。ここでもまた、上野さんの言葉が思い浮かぶ。

「記述は思想や研究を伝達する手段ではなく、それ自体が完結したパフォーマンスである。したがって表現能力を欠いては研究者は存在しない」

                         [pp.418-419]
           上野千鶴子(2015)「<わたし>のメタ社会学」
                  『差異の政治学』 岩波現代文庫

 自身のパフォーマンスが不出来だったからと言って、アスリートやアーティストは観客やファンに向かって言い訳をするだろうか。『現代思想』の寄稿文も、noteの記事も、それぞれ千田さんのパフォーマンスである。その自覚が、千田さんには欠けているのではないか。


 おわりに
 長くなったので、ひとまずここで区切る。1本の寄稿文とnoteの記事だけを読んで判断するのもナンだが、「この人は学者として、フェミニストとして大丈夫か?」という疑問が深まるばかりであった*4)。不遜を承知の上で言わせてもらえば、「お師匠(上野千鶴子さん)の著書を読んで勉強し直してください」というところである。そのくらい、素人目に見ても疑問や欠点だらけな文章であった。ひとまず、千田さんの今後の言動に注視したい。ただし、これは千田さんへの期待ではない。50代でこの程度なら、その後は知れたものだろう。伸びしろの有無が問われる年齢ではあるまい*5)。

(補)
*1)私の場合、上野千鶴子さんの著書を読んできた者で、東大上野ゼミ出身である千田さんの寄稿文を読んでみて、トンデモナイと感じた一人である。立ち位置的には、上野ファンといったところ。
*2)ゆなさんのブログ(ゆなの視点)には、次のように書かれている。
「「トランス女性が女性トイレを使う権利」と「女性が安全にトイレを使う権利」が対立させられるのは奇妙だというのは同意します。なぜなら、私たちが求めているのは後者の「女性が安全にトイレを使う権利」に過ぎないからです。(中略)私たちも女性であり、安全を必要としていて、しかしシス女性と同様の成否が嫌暴力の可能性があるにもかかわらず、シス女性の一部からはときに「男性用トイレを使えばいいではないですか」とまで言われているのが私たちの実態です。」
「千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで」より
*3) これは、東大5月祭で行われたアカ―主催のイベント『ゲイ・スタディーズ・ミーツ・フェミニズム』に上野さんが招待されたことがきっかけとなっている。
*4)千田寄稿文を読むまで、千田さんの書いたものを読んだことがなかったと思い込んでいたが、田中美津さんの『この星は、私の星じゃない』(2019年 インパクト出版会)に収録されている「いまここの『いのち』を生きる」「『リブ』は何を変えたのか」というインタビューの聞き手が千田さんだったことを思い出した。そのことを忘れるくらい、件の寄稿文がキョーレツだったということだろう。
*5)遙洋子さんの『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2004年 ちくま文庫)によれば、上野さんは「私は私を乗りこえる研究者を育てるという行為をしている」とよく話していたそうだ。ただ、その上野さんを乗りこえる研究者は千田さんではない気がする。では、誰がそうなるかと訊かれても私にはわからない(そもそも、東大上野ゼミ出身者を全員把握しているわけではないし)。

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