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〈記録〉だれもが文化でつながる国際会議2024〈ろう者のオンガク〉を中心に。

〈音楽・サウンドスケープ・社会福祉〉

 アートミーツケア学会共同理事の柊さんにお声がけ頂いて、1日から3日まで東京国際フォーラムで開催された〈だれもが文化でつながる国際会議2024 文化と居場所 アートが開く新たな未来〉、主に〈ろう者のオンガク〉関連の講演に伺いました。登壇者や会場には、アート×ケアの〈今〉を象徴するような実践者・研究者の方たちが多かった印象があります。
 2025年はデフリンピックの開催年です。招待講演がフランスの国際的ろう芸術祭〈グランドゥイユ〉のディレクター・デイビッド・キーザー氏(ろう者)だったことから、この国際会議そのものがキックオフ的な位置づけなのだろうと思いました。が、オープニング・パフォーマーに急遽パラリンピックでも活躍された〈ピアニスト〉が選出され、演奏がどのように〈音のきこえない〉ろう者に伝えられたのか気になりました。残念ながら筆者はオープニングを見ていませんが、演奏に対して合理的配慮が無かったことを指摘されている参加者の声も伺いました。この国際会議は〈Creative Well-being Tokyo〉が主体ということで、もっと広く〈文化〉や〈アート〉や〈居場所〉を考える場だったのもしれません(そもそもWell-beingとは何か?という考察はまた別の機会に〉。いずれにせよ、全体的な内容は非常に意義あるものでしたので周知が行き届いていたらと残念な思いがしました。多角的なタイトルのために〈だれも/対象者〉が〈だれ〉なのか見極められず、お声がけ頂かなければ〈参加資格〉があるかさえ判りませんでした。いずれにせよ、〈ろう者のオンガク〉をめぐる世界が来年のデフリンピックを軸に大きく動き出しているのは確かです。
 そこで初日の招待講演のデイビッド氏の話をきいて思い出したのが、2019年にトット基金が招聘したイギリスのろう者で、アート手話プログラムキュレーター・ジョン・ウィルソン氏のことばでした。人種問題や差別の歴史から「ろう者と女性は同じ」と指摘されたとき、とても腑に落ちる思いがしたのです。
 つまり両者には社会に向けた戦略的な〈ことば〉が必要だということ。〈社会〉とはマジョリティ男性が中心となって動かしている場です。ろう者・デイビッド氏の講演からは、国際芸術祭の運営に欠かせないスポンサーやパートナーとなる企業や大学や自治体、つまり〈聴者の男性〉を説得するための〈ことば〉を獲得している背景が伺えました。〈社会のことば〉を鍛えることで開かれる扉がある。
 一方で芸術祭そのものが、主役であるすべてのろう者が安心して居られる〈心地よさ〉を担保するために、また作品をより楽しんでもらえるように国境を越えた〈国際手話〉を導入しているのも印象的でした。これは日本で開催する芸術祭の公用語を英語にするような発想です。
 個人的には講演の最後に紹介されたろう者/聴者の共作〈歌〉の映像が興味深かったです。ろう者には聴者の〈旋律〉が〈音〉で伝わらないからこそ〈手話歌〉に違和感を覚えるのですが、歌の旋律を〈ラップ〉に代えた〈リズムの共有〉にすると突破口がみつかる。〈手話ラップ〉にはろう者/聴者の〈境界〉に生まれる新しいオンガクの可能性を感じました。

シンガポールの〈BothSindes,Now〉、ろう者のオンガク、春日台センターセンター。この3つの事例は〈当事者のことば〉を〈きく〉根底で響き合っている。
 

 2日目は牧原依里さんの〈ろう者のオンガクを追究する〉の発表へ。2016年の映画『LISTENリッスン』公開以来、ろうコミュニティ内の〈ろう者のオンガク〉をめぐる議論、当事者研究はコネクトでもお伝えしてきたように日々進化を遂げています。特にこの日の発表は、聴者の音楽人類学/音楽社会学の研究者にこそ届いてほしい内容でした。お互いに新しい領域だからこそ、共同研究や対等な対話が生まれる可能性を感じました。 
 コロナ禍にエル・システマジャパンや東京芸術劇場が主体となって企画して下さった牧原さん/雫境さんとの〈オンガク対話〉は、2011年の東日本大震災以降、聴者の音楽家として〈音楽とは何か〉を問う自身にとっても必要不可欠の時間でした。そして、そこで得た自身の結論は〈ろう者のオンガクを定義するのは、当事者であるろう者のことば〉だということです。  聴者はろうコミュニティ内で手話で語られる静かで熱い議論に、どうか謙虚に耳を傾けてほしいと願っています。
 例えばデフリンピック関連企画で予定されている、ろう者/聴者の共同舞台作品の会場が〈聴者の音楽〉のために建てられた〈東京文化会館〉で本当に良いのか。合理的配慮やアクセシビリティに着目した場合、本来は会場の〈非対称性〉から問う必要があります。逆の見方をすれば〈聴者の音楽〉のために建てられた場所には、どのような合理的配慮が必要になるのか考察する好機とも言える。ただし芸術作品そのものを〈考察の材料〉にしてしまう訳にはいかない。それこそが芸術の搾取になってしまいます。 
 この10年近く、牧原さん/雫境さんとの対話を重ねてきた筆者が自省するのは、マジョリティ(聴者)は非対称性に無自覚になりやすいことでした。〈ろう文化〉の正しい理解のみならず、たとえ両者に〈アート〉という共通言語があったとしても、聴者に内在する圧倒的な〈パワー/音〉には常に自覚的であるべきなのです。その上で芸術家としてのリスペクトがあるからこそ対話が成立する。ろう者/聴者の境界線が消えるような瞬間を可能にするのもまたアートの力です。
  しかし当たり前に「音」がある世界に生きる聴者には、ここがなかなか気づき難い。だからこそ〈芸術や音楽のことば〉をもつ通訳者や翻訳者が必要ですし、ろう者が時間をかけて丁寧に積み重ねている議論を、聴者が安易な言葉で乱暴にまとめてしまうことがないようしたい。アーツカウンシルや東京藝大をはじめ〈ろう者のオンガク〉に関わる皆さまには、ここを切にお願いしたいと思いました。 

 『LISTENリッスン』は公開以来、雨粒のように社会に波紋を広げて、ろう者と聴者の世界も静かに響き合ってきました。自身はその〈関係性の美〉にサウンドスケープの真髄を感じていて、その場を〈Rerational Music/関係性の音楽〉と名付けています。
 だからサウンドスケープを〈場の関係性〉と捉え直すと、この日牧原さんと同じセクションで発表された多国籍シンガポールの団地で高齢者の居場所〈Both Sides,Now〉を立ち上げた演劇人の実践例、そして地域共生文化拠点『春日台センターセンター』をはじめ、地域で対話を積み重ねながら心地よくひらかれた居場所をつくる建築家・金野千恵さんの事例も、〈ろう者のオンガク〉を考えることと根底で響き合うと思いました。誰かの〈ことば〉を〈きく〉こと、蔑ろにしないこと。響き合う〈関係性の音楽〉を生むためには繊細で丁寧なプロセスが欠かせません。
 〈ろう者のオンガク〉とは何かを考える、〈ことば〉にすることで世界と響き合っていく。そして次世代のろう者、聴者と響き合っていくときに,
両者の境界にも新しい〈オンガク〉が生まれていくことでしょう。

 余談ですが、ちょうど同じころ会場の東京国際フォーラム近くの東急プラザ7Fでは、若いアーティストやアクティビスト、フェミニストたちが解放区のようなフロアを使って、想い想いの〈ことば/表現〉を展示していました。初期衝動や自由な表現のなかに生まれる〈わたしのことば〉に、耳をすます時間でした。

画像:Creative Well-Being Tokyoサイトより


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