【Listen/Think/Imagine】音楽とは何か~言葉・サウンドスケープ・身体
東日本大震災
音楽とは何か、何がオンガクか。幼少期から専門的に音楽を学んだ人でさえ、この根源的な問いを言葉だけで思考する経験は多くはないだろう。次々と与えられる課題やコンクールの準備に追われる中で、結果の出ない問いに向き合う時間の余裕は無いかもしれない。そもそも音楽の第一言語は〈音〉なのだから、言葉のことは哲学の世界に任せておけばいいと考える人もいるだろう。しかし社会は言葉でできている。音楽も社会の中にある限り、言葉を無視することは出来ない。
音楽を言葉で「問う」果てしない思考実験は、2011年に起きた東日本大震災をきっかけに始まった。想定外、自粛、節電、絆、東北応援、風評被害。震災直後の混乱した社会をふたたび秩序立てるために、あるいはさらなる混乱を招くように、言葉が生まれては消えていった。大地が揺れ、巨大津波が数万の尊い命を奪う。原子力発電所が爆発し、風に運ばれた放射性物質は土と水と空気を汚し、〈世界のかたち〉は流転した。パンタ・レイ。すべてのものは時間とともに流れている。その〈流転する世界〉の根源には土、水、火、空気があると、古代ギリシャの哲学者は考えた。震災直後の〈世界〉はその生命の源が揺らぎ、誰もが生きることの意味を突き付けられた。音楽もまた〈存在することの理由〉を言葉で探していた。
流転する万物、混乱する世界を支配するものはロゴスだと説く古代哲学者がいた。このロゴスとは何だろう。もしそれが言葉だとしたら、この〈世界〉は間もなく驚異的な学習能力を身に着けた人工知能によって支配されてしまうはずだ。楽典や楽譜、音楽の言葉も例外ではないだろう。しかし一方で、ロゴスは言葉ではなく〈知〉の本質だと説く哲学者もいた。音楽にも言葉とは異なるロゴスがあるはずだと直観する。
だから言葉に近づくほど、音楽の本質から遠ざかるような気持ちになる。それは同時多発的に響き合う和声を単旋律で写し取るようなもどかしさだ。そもそも音楽を言葉で「問う」思考実験の意義とは何だろう。〈言葉の世界〉の歴史を紐解けば、数千年の思考実験には未だ答えがでていない。東日本大震災の経験から筆者が各地で開催した音楽×哲学カフェでも様々な対話が生まれていた。
宇宙の音楽
2011年3月11日の夜、東北の被災地の空には満点の星空が広がったという。壊れてしまった〈人間の世界〉を包み込むように現れた「ぞっとするほど美しい星空」を記憶する被災者たちの言葉は興味深い。畏れと癒しが交錯する複雑な感情は、宇宙に生きる人間の小さな存在を浮き彫りにした。亡き人の魂が還る場所を星の光の中に見出し、心が救われた人たちもいた。星空の記憶を語る個々の言葉が響き合うとき、そこには3.11の夜空が、壮大な宇宙のハルモニアがきこえてくるようだ。
それこそが、古代の人がきいた〈宇宙の音楽〉なのかもしれない。宇宙とは人間の存在を遥かに越えた大きな存在だ。人間の小さな〈世界〉は壊れてしまったけれど、宇宙は変らずに存在すると思い知る。荒れ狂った海は翌日にはいつもの顔に戻ったが、人間が作った原子力発電所は今も壊れたままだ。余震が続く中でも川辺のシラサギは魚を探し、桜の花たちはいつもより少し早めに開花した。万物は流転しないと説く哲学者もいた。〈世界のかたち〉は流転するが、宇宙や自然の法則は変らないということか。
ところであの夜、新宿の夜空に星は出ていただろうか。古いマンションの最上階はモノが崩れカオスと化し、テレビでは津波の映像が繰り返し流された。いたたまれずラジオをつけると、坂本九の『見上げてごらん 夜の星を』が流れてきた。思わず涙が出た。「歌」が存在する理由をはじめて理解したような気がした。窓から空を見上げてみたが、しかし星の記憶はない。ビル街の灯りはいつもより少なく、しんと静まり返った〈世界〉の心許なさだけが記憶に残っている。音楽とは何か、何がオンガクか。被災地の夜空に広がった音のない〈宇宙の音楽〉と、東京のラジオで流れていた坂本九の「歌」の存在に違いはあるのだろうか。流転と不動。震災を通して経験したふたつの〈世界〉のいずれにも、確かにオンガクは存在したと思う。
壊れてしまった〈世界〉から生まれた音楽もある。震災の混乱が落ち着くと、テレビ主導で東北応援ソングが全国各地で歌われた。震災から3年後には現代音楽の作曲家・宮内康乃が、津波の犠牲となった女性が生前残した和歌を聲明『海霧讃歎』として世に伝えた。神奈川県立音楽堂主催の「音楽堂で聴く聲明―花びらは散っても花は散らない」で歌われた僧侶たちの声には、まだ生々しい津波の記憶が重なり自然への畏怖の念が沸いた。鎮魂の歌は各地で歌われる時間の中で癒しの歌へと変化し、震災から10年後に生まれた生命賛歌「海霧廻向」と共に〈祈り〉そのものへと昇華した。
コロナ・パンデミック
言葉による音楽の思考実験は12年を経た今も続いている。この3年間のコロナ・パンデミックで〈世界〉はふたたび大きく流転した。自粛、不要不急、ソーシャル・ディスタンス、新しい生活様式。またもや言葉が生み出されていく。学校では歌うことが禁止され、音楽ホールや劇場は閉鎖され、ライブハウスは最も危険な場所だとされた。しかしそれは〈言葉の世界〉の話である。2011年からの最大の環境変化は、音楽が〈インターネットの世界〉に避難することが可能になったことだ。そこには音楽のロゴスでかたちづくる別の〈世界〉が立ち現れていた。YoutubeやInstagramやTikTokはコロナ時代の音楽の解放区だった。五大陸を網羅するFMラジオのスマホアプリをインストールすると、地球上のあらゆる場所で似たような音楽が流れてくることに驚いた。異なるのは言語だけである。南米、アフリカ、ロシアと渡り歩きながら、西洋主義的な発想で〈民族音楽〉を求めている自分に気づく。考えてみればこの国で、民謡や雅楽を一日中流している局などあるだろうか。〈音〉は〈言葉〉よりも簡単に国境を越えていく。
一方で、〈音楽する人たち〉の存在そのものもコロナ禍の〈インターネットの世界〉をつないだ。SNSにあがる動画には自宅のバルコニーでオペラのアリアを歌う人、子どもを背負いキッチンでチェロを練習する楽団員、スマホ1台でライブをする有名ピアニスト、各国リレー式でひとつの歌をつなぐ実験、有名ホールの無観客公演など、今ふりかえればまるで奇跡のようにジャンルを超えた〈調和の世界〉が立ち現れていた。同時進行で常に流転していた〈言葉の世界〉とは対照的だったと思う。
水の音楽
人間の営みである経済活動の多くが止まったことで、世界中の川や空気、すなわち万物の根源が瞬く間に奇麗になったことも忘れずにいたい。畑の農作物はウィルスに関係なく、それを収穫する人たちも変らず存在した。誰もいない森では小鳥たちがのびのびと歌い、愛らしいキノコたちもいつも通り顔を出していた。人影のない浜辺でマスクをはずし思い切り深呼吸をした。波の音やリズムに音楽をきいた。公園の噴水の前では子連れの家族が各々にテントを貼って水遊びをしていた。密閉された空間を避けるように外に出ると、そこには自然が待っていた。特に海や川、水の流れは心を穏やかにしてくれた。
水は万物の根源である。それは音楽の根源でもあるだろう。この星も人間も約七割が水で出来ている。胎児が浮かぶ羊水の成分は海水そのものだという。人間が魚だった頃は全身を水に包まれて、触覚でオンガクをきいただろう。ドビュッシーやラヴェルのように水の運動や印象を音で写し取った水の音楽もある。川や海の水面を叩いて奏でる民族音楽もある。ジョン・ケージは「Water Music 水の音楽」を水で奏でた。しかし何よりも、波の音、川のせせらぎ、雨の音のオンガクがコロナ禍の心を癒した。3.11の時には〈世界〉を流転させた海の存在に心から感謝した。
筆者の根幹にある「サウンドスケープ」という世界観を提唱したカナダの作曲家R.M.シェーファーは、水の変容を絵画のような楽譜に記した。〈水〉から音楽の起源を考える彼の世界観については後述したいと思う。
第18回ショパン国際ピアノコンクールの奇跡
コロナ禍の印象的な音楽体験として、2021年秋にYoutubeで生配信された第18回ショパン国際ピアノコンクールを記録しておきたい。日本国内は緊急事態宣言を繰り返していたが、ヨーロッパではコロナ終焉の気配が感じられた。このコンクールでは各国から集まったコンテスタントたちの全予選だけでなく、バックステージや楽屋にまでカメラが密着し、予選通過を果たせなかった出場者たちにも光を当てた。休憩時間には関係者の裏話や未来の展望を語るコーナーも毎回配信されていた。勝者だけが光を浴びる従来のヒエラルキー世界ではなく、1年延期の末に開催が実現した喜びを分かち合う祝祭感に溢れていたのが印象的だった。和やかなワルシャワホール、世界中の視聴者から書き込まれるコメント、若い女性たちが運営する事務局のフレンドリーな対応も新しかった。小説やアニメや映画の中で描かれてきた”あのショパンコンクール”の印象が、ポーランドの内側から爽やかにアップデートされていく痛快さがあった。それはファイナルの指揮者アンドレイ・ボレイコの民主的な態度、出場者それぞれの個性を重視した音楽の解釈にも現れていたと思う。ファイナリストたちの親密な関係性も非常に好ましかった。21世紀に求められる新しいコンクールのかたち、ピアニストの未来像が提示されていたと思う。神格化されがちなピアニスト本人がTwitterで吐露する心情は、何よりも西洋クラシック音楽そのものを身近な存在にしていたと思う。
さらに人気Youtuber角野隼斗が出場した功績も記録しておきたい。賛否両論渦巻く中で、彼はジャンルや伝統の境界を軽やかに飛び越え、クラシックとは違う文脈でショパンを奏でていた。即興を得意とする彼のマルチな才能こそが、もしかしたら本来の鍵盤奏者の姿かもしれない。なぜ現在のクラシック・ピアニストは即興演奏が許されないのか。楽譜が『聖書』のように絶対視されたのはいつからか。コンクール後の角野は各国メディアに注目され、現在はニューヨークを拠点にグローバルな活動を始めている。「彼こそが僕のショパンだ」と語ったポーランド青年の言葉が忘れられない。
耳は流転する
正統派クラシックのピアノの音、というのは確かに存在する。2位受賞の反田恭平と角野の音はアナログとデジタルほどに異なる質感だった。ショパンのコンクールで求められたのは反田の音だ。自分もそうだった。しかし角野の音が間違っている訳ではないだろう。20世紀のカプースチンやガーシュウィン、ジブリ音楽やジャズを弾く彼の音は〈今〉を映し出し輝いている。
一方でファイナルまで残ったピアニストたちの音の深さは、不確定な未来の中で孤独の時間がつくりあげたものだったと思う。隔離された空間の中で〈耳〉は内省的に変化した。〈音〉は他者を圧倒する力ではなく、他者と共にあるための力を宿していた。〈音〉は内側に掘り下げていくと他者とつながる〈境界〉に出るのだと思う。中でも、前回ファイナリストでもあった小林愛実の奏でた音は思慮深く、ショパンの内なるオンガクに最も近づいていた。特にセミ・ファイナルで奏でた『24の前奏曲』は言葉が及ばない高みに到達した歴史的な名演奏だったと思う。
コンクール前にホールでの無観客コンサートを経験していた反田は、ワルシャワホールの聴衆の存在に力をもらったと話していた。自分の音楽をきいてくれる審査員の存在さえ有難かっただろう。深みのあるソナタを奏でたアレキサンダー・ガジェヴは孤独の時間に本を読みヨガや瞑想をしたという。ファイナリストたちは「音楽とは何か」を問い、それぞれの答えを胸に秘めて舞台に臨んだ。それを裏付けるように、楽器選定ではコンクールに勝つために開発された20世紀後半の煌びやかな音ではなく、派手さはないが人間的な暖かみのあるピアノの音が選ばれていた。
奏でるものたちの耳の変化は〈音楽の世界〉も変えていく。コロナ・パンデミックで立ち現れたのは音楽を奏でる人と他者が響き合う〈調和の世界〉だった。
戦争と平和
2022年2月にポーランドの隣国ウクライナにロシアが軍事侵攻した。祝祭感に溢れた2021年の記憶もまだ鮮明だが、次回のショパン・コンクールは既に2025年に迫っている。1ヵ月で終わると言われていたこの紛争は戦争に発展し、日本を含む経済先進国を巻き込みながら既に1年以上が経過した。この戦争はいつ終わるのだろう。〈世界〉は戦争を終わらせる気があるだろうか。
次回出場も期待されている2004年生まれのロシア人エヴァ・ゲヴォルギヤンはいま何を考えているだろうか。彼女はこの夏、日本でのデビュー・リサイタルを予定している。インタビューではあどけなさも覗かせていたが、高校生とは思えないスケール感のある力強さ、何よりその硬質な佇まいに未来を感じた人も多かったと思う。コンクール後の事務局主催の演奏会では、1位入賞のブルース・リウともブッキングされていた。優勝者にして「音楽よりも生活を大事にしたい」と語ったリウの存在も別の視点で新しい存在だった。反田と小林は夫婦となり子どもが生まれるという。音楽は「今」と同時に少し先の未来も映し出す。彼らの存在がそのまま21世紀の音楽家の姿となっていくだろう。エヴァは「まだブラームスを弾いたことがない」と話していた。
2022年夏のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで2位を受賞したアンナ・ゲニューシェネもロシア人ピアニストである。彼女は第二子の臨月間近に出場し、その親しみやすい存在感に反して、力強いチャイコフスキーを披露した。アメリカ人指揮者のマリン・オルソップとの相性の良さもあったが、彼女たちの関係性が醸し出す包容力と安定感、そして第3楽章の気迫のこもった演奏は忘れがたい。この映像が戦争中の母国ロシアに配信されていたかは不明だが、子どもを生み育てるひとりの母親が、ピアノを通して〈世界〉に平和を願う覚悟を持って、同じく世界的ピアニストである夫のサポートを得ながら、お腹の子を含む家族総出で出場する姿は芸術家というよりも「ワーママ」の姿だった。ちなみにこの時3位となったのが、ウクライナのピアニストだったことも記しておく。
戦争は分断された〈言葉の世界〉で生まれるものだと思う。それはバベルの時代から変わらない。しかし言葉と音楽は良くも悪くも響き合っている。戦争という〈世界の流転〉と音楽は決して無関係ではいられないことは歴史を紐解けば明らかだ。だからこそ音楽は〈言葉の世界〉と適切な距離を摸索する必要がある。音楽家の存在そのものが、言葉を越えた平和のメッセージとなり得ることを信じたいと思う。
「サウンドスケープ」の世界
カナダの作曲家R.M.シェーファーは、自らの知覚で発見した〈世界のかたち〉を「サウンドスケープ」と呼んだ。〈音〉を万物の根源とした音楽家の思考実験は、古代ギリシャの自然哲学に立ち返る。星空を見上げ、森に耳を澄まし、海の変容をきく。自らを取り巻く〈音環境〉に全身をひらき〈世界〉を発見したシェーファーの思想は古代哲学者デモクリトスのようだ。なぜなら、天文学や幾何学や音楽にも通じた古代哲学者の考える〈原子〉を〈音〉に置き替えると、洞窟や神殿のような大きな空間で木霊し響き合う音や声、万物のサウンドスケープがきこえてくるからだ。シェーファーが発見した〈鳴り響く森羅万象 Sonic Universe!〉は、科学ではなく音楽家のロゴスだ。著書『世界の調律 原題:The Tuning of The World』で語られる言葉は壮大な〈言葉のオンガク〉だ。
2020年夏にシェーファーが88歳で逝去すると、海外メディアは彼の〈目〉について書いた。幼少期から絵の才能を発揮し画家を志していた彼には、生まれつき重い視覚障害があり、8歳の時に片目を摘出したという。10代半ばで〈目〉から〈耳〉の〈世界〉に移ったシェーファーは、しかし伝統的なクラシック教育に馴染めずにいた。彼は自分だけの〈オンガク〉を探すためにヨーロッパに渡り、8年間の自己研鑽を積む。弱る視覚を補うように聴覚を研ぎ澄まし、あるとき共感覚的に気づいたのが「サウンド(聴覚)スケープ(視覚)」だった。
よく誤解されるのは、シェーファーが説いた〈調和〉とは純正律の和声のような整った〈世界〉ではなく、岡本太郎が述べた〈調和は衝突〉に近いものだったと思う。森羅万象が豊かに響き合い、倍音の宇宙を鳴り響かせるような多様性である。その〈世界のかたち〉を摸索し、東南アジアのガムラン音楽や自然に見出していく。シェーファーの初期の作品には合唱曲『ガムラン Gamelun』や、水の変容を美しい絵画のように記譜した代表作『Miniwanka』等がある。さらに自らの思想を一冊の本に記した。なぜ音ではなく言葉だったのか。それは地球をひとつのサウンドスケープとしてきいたとき、米ソ冷戦構造の核の脅威、経済開発による環境破壊、〈調和〉からは遠い音風景がみえて、きこえたからだと思う。それは音楽の内側から外側の世界に向けて鳴らされた〈警鐘〉でもあった。
〈水〉からはじまり〈沈黙〉へと向かう本書は、同時多発的に生まれては響き合う思想のサウンドスケープだ。矛盾やうねりを孕みながら進む文字が大河のように流れていく。その源流には天文学や幾何学や数学、何より音楽に通じた古代の哲学者たちが存在する。響き合う夜空の星々を全身できき、〈世界〉とは何かを問い考える人間の真摯な営みとつながっていく。
音と身体
音楽にとって〈音〉とは何か。映画の題名でもある「サウンド・オブ・ミュージック」とは何を意味するのか。この問いもまた、音楽を言葉で問い考えるうえで重要だろう。なぜなら筆者は7年前に音のない世界に生まれる〈ろう者のオンガク〉と出会い、確かにそのオンガクを”きいた”からだ。現在も彼らと共に「音楽とは何か」を問い、手話を含む言葉での対話を続けている。日本語とは違う文法を持つ日本手話の存在が、ろう者の音楽にとって重要なロゴスとなり得ることもわかってきた。しかし一方で、音のある/ないを越えて、言語の違いを越えて、人間共通のオンガクが存在することもわかってきた。
「音楽とは何か」を言葉で真摯に問い続けるろう者たちは、まるで古代の哲学者のようだと思う。手話が〈言葉〉である限り、彼らにもまた言葉を越えた〈知〉が存在する。そこに〈ろう者のオンガク〉が存在しているとも思う。彼らにもまた言葉を越えた〈宇宙の音楽〉がきこえている。逆に言えば聴者は、ろう者のように言葉で音楽を考える経験を積まない。〈音〉とは何かを言葉にする意義が見いだせない。2018年に『音楽の哲学入門』を記したアメリカの気鋭哲学者セオドア・グレイシックによれば、『現代の大学では、音の芸術に言及するのは無駄だという考えが浸透している』という。
85歳の母は子どもの頃の中耳炎の後遺症と高齢化にともない、今では補聴器を外すとほとんど音が聞こえない。周囲の高齢者にも補聴器を使う人が確実に増えている。補聴器をつけた耳には、倍音を含む生の楽器音は「騒音」にきこえてしまうという。高齢化した身体で成立する社会の「耳」も流転する。求められるオンガクのかたちも当然変っていくだろう。ホスピスで開催されるコンサートでは「大きな音を出さない」ことが条件になることがある。観客を圧倒するために研鑽を重ねた〈音〉は、人生の最期を待つ弱った身体にとっては脅威となり得るのである。
流転するのは「耳」だけではない。音楽家の身体もまた時間とともに変化する。若い頃はアスリートのような演奏が求められたとしても、一生それを続けることは80億分の1であるアルゲリッチほどの例外にならなければほぼ不可能だろうと思う。力強さ、早さ、複雑さは、老化とともに身体から失われていく能力だ。むしろそれが変らず一生続くのだとしたら、そちらの方が不自然だとさえ思う。幼少期からの鍛錬は「右肩上がり」の発想を育む。しかしそれは幻想だとさえ思う。音楽とは何か。その答えのひとつが〈世界のかたち〉だとすれば、演奏家が〈世界〉を捉え直し、常に〈流転する世界〉と関わり直していく態度こそ、身体の生命が尽きるまで音楽と共に生きる覚悟だとも思う。88歳で亡くなったシェーファーは晩年までユーモアを忘れず、自らが患う『アルツハイマー』をテーマにした作品を残している。亡くなる数日前には病床に音楽仲間が集まり、音を奏でると手だけで応えていたという。
「音楽の力」とは何か
高齢者が若い頃に好きだった歌を集め、ヘッドフォンで聴かせたら認知症が軽減したというアメリカ高齢者施設のドキュメンタリー映画を観たことがある。音楽で能を刺激することの大切さも感じたが、それ以上に、自分の存在を認め、自分のために音楽を選び届けてくれる他者の存在が、何よりもその人の心を救っているように見えた。殺伐とした部屋の中で車椅子に乗り、薬のように与えられたヘッドフォンから音楽を聴き涙する高齢者たちの姿には違和感があった。これは音楽体験なのだろうか。はたして音楽は認知症の特効薬だろうかと。
その人がもし高齢化難聴者だとしたら、その耳が受け取る〈音〉は歪んでいただろう。音楽が脳に刻んだ記憶は、その音楽によって想起されるのは理解できる。しかしこの時に認知症を軽減させたのは「音楽の力」というよりは、記憶を想起させるメディアの存在だろう。そこに音楽も含まれる。写真やモノ、もちろん他者の存在が最重要だ。音楽には嫌な記憶を蘇らせる力があることも忘れてはならない。生涯学習の講座の中で、子どもの頃の音楽の先生が厳しくて音楽の時間が嫌だったと一斉に語りだす高齢者たちに遭遇した。彼らが強制的に「歌わされた」た経験は、はたして音楽の時間だっただろうか。音楽を通して脳や身体に刻まれた緊張感や嫌悪感は一生つづくトラウマともなり得る。不寛容さや厳しさによって他者の人生から音楽の楽しさを奪ってしまう教育は罪深い。
音楽とは何か
音楽とは何か、何がオンガクか。この果てしない問いには未だ正解がない。それでも敢えて言葉で問い続けているのは、流転する〈言葉の世界〉に生きていることを、東日本大震災時に危機感をもって自覚したからだ。そして音楽家が書いた一冊の〈言葉のオンガク〉によって救われたからである。しかし、この流転は年々速度が増している。激流のように流れ去るSNSのタイムラインこそが〈世界〉だと錯覚することもある。人間が営む音楽は明らかに時代の節目を迎えている。しかしだからこそ「音楽とは何か」を言葉で考え、文字で残しておきたいと思う。それは音のない〈宇宙の音楽〉や〈ろう者のオンガク〉を記譜することに他ならない。立ち現れては消える一期一会のサウンドスケープに名前をつけることと同義だからだ。
この文章が人工知能を使用せずに書かれたことを証明したい。しかしその手段がわからない。この文章を書くために費やした膨大な時間に意味を見出したい。おそらく〈言葉の世界〉では「音楽とは何か」を語る言葉が日々人工的に生成されている。やがてその言葉に支配され、古代から続く思考の歴史に終止符が打たれてしまうのかもしれない。音楽をつくることや文章を書くことを手放した人間は何処に向かうだろう。
ふたたび満天の星空に〈宇宙の音楽〉を発見するのかもしれない。
※この論考の作成にAIは使用していません。
参考文献:『The Tuning of The World』 R.M.Schafer 1977
『世界の調律 サウンドスケープとは何か』R.M.シェーファー 訳:鳥越けい子他 平凡社1986
『LISTEN リッスンの彼方に』雫境 編 論創社 2023
『境界はどこにあるか 音楽・サウンドスケープ・社会福祉』ササマユウコ
アートミーツケア学会研究ノート2023
『音楽の哲学入門』セオドア・グレイシック 源河亨・木下 頌子訳
慶應大学出版会 2019
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