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추억의 박춘석 멜로디~思い出の朴椿石メロディ~

ご無沙汰しております。
2024年元日に能登を中心とした日本海沿岸で震度7の揺れと津波が発生し、今なお被災され復興が滞っている状態と新年早々不穏な幕開けとなりました。令和も6年経ち平成もだんだん遠くなるにつれて昭和から活躍された多くの著名人も鬼籍に入られた。年功序列とはいえ昔からあるものが消えてしまう悲しさはいつになっても慣れません。

韓国の歌謡曲を思い出す

挨拶もほどほどに先日とあるYoutubeの動画を観た。福岡のJNN系列のテレビ局であるRKB毎日放送が1980年に放送した「鳳仙花~近く遥かな歌声~」なるドキュメンタリーである。韓国における音楽の歴史や日本統治下から受け継がれた歌謡曲について取り上げた特集だが実に充実した内容でした。今のK-POPの源流を垣間見たといえるほど1970年代の作詞家や作曲家、作家などのインタビュー、韓国人歌手のレコードについてとてもセンシティブな話題だった。ドキュメンタリーには이미자(イ・ミジャ)や美空ひばりなど日韓を代表する歌手も出演されていたのが特徴的である。
かく私が韓国の歌謡曲を聴いたのは幼少期で、在日の韓国人が多く住む地域が近くにあり、戦前に日本統治下だった韓国で生まれたおばちゃんがお世話してくれた。まだ3~4歳だった私に韓国の歌など多くのことを教えてくれたおばちゃんの影響もあり、韓国=身近な国という印象も強く、歌もしばしば聴いていた。しかし昨今のK-POPは耳に合わず…演歌好きが相まってポンチャ(演歌調の歌謡曲)を聴いている。しかし今の日本でK-POP以前の韓国の歌謡曲を聴いている人間など私一人だけなのかと思うほど情報は一切入って来ない。

私の身の上話はこれまでにしておいて、このドキュメンタリーで私が特に驚いた箇所がある。なんと!朴椿石が日本語でインタビューを受けているのだ。
韓国でも著名な作曲家として知られる朴椿石は、かつて美空ひばりの『風酒場』を作曲されていたのは知っていたが…日本語が堪能だったのは存じておりませんでした。よく聴いていた韓国の歌謡曲も多く作曲された先生だけに驚きが多かった。しかし日本で朴椿石の名前はほとんど知られていない。だが先生の作曲された曲は少なくとも韓国や日本の歌謡曲に多大な影響を与えたのは事実であり、先生の作曲した歌は今なお韓国国内外でも歌われいる。今回は朴椿石の功績を紹介したいと思う。


朴椿石先生 引用:https://www.youtube.com/watch?v=HJqrfsn0PFY

朴椿石について

朴椿石(박춘석・パクチュンソク)1930~2010
ソウル出身、高校時代にジャズピアニストとして活躍し、吉屋潤に誘われ学生楽団で活躍。ピアニストとして頭角を現すと自身でも楽団を立ち上げ、楽団で活躍する傍らで外国曲の編曲や自身でも作曲活動を開始。1956年には『雨降る湖南線』でヒットを飛ばすと次々とビッグヒットを連発。一躍韓国を代表する作曲家となる。更に歌手の育成にも尽力し、朴椿石門下のアーティストは軒並み売れるというジンクスまで出た。朴椿石の師団は時代の寵児となるほど名をとどろかすも、1994年に病気の影響で車いす生活を余儀なくされるが1995年には長年の功労で文化勲章を受章。2010年3月に脳卒中が原因でこの世を去る。生涯で約2700の曲を作曲。

朴燦鎬『韓国歌謡史Ⅱ 1945-1980』より

この当時の日本でいえば筒美京平が思い起こさせるほど多くの作曲と歌手の育成に尽力され、以前このnoteでご紹介したKBSテレビの「歌謡舞台」で亡くなられた際に追悼番組を編成。多くの師団歌手が先生の死を悼み哀悼として先生の作曲した曲を歌い偲んだ。下記の動画はその時のものである。

そうした朴椿石が手掛けた多くの歌は今なお韓国の方に歌い継がれ愛唱されている。私もそのうちの一人である。そこで私が独断と偏見で決めた朴椿石メロディ珠玉の5曲を挙げさせていただきたい。


아리랑 목동(アリラン牧童)

突然だが、日本でサッカーの応援歌といえば…『WE ARE THE CHAMP ~THE NAME OF THE GAME~』ですが、韓国では『아리랑 목동』というほど国民の愛唱歌。この歌は1957年に歌手の朴丹馬の公演時に披露されヒットした一曲。後に『純情』でヒットした코요태(コヨーテ)がカバーして韓国の応援歌として著名なものとなる。内容はナムルを掘る娘を花にたとえて美しさを際立たせた内容である。「アリアリドンドン~スリスリドンドン~」のメロディが耳に残る。

비 내리는 호남선(雨降る湖南線)

上記でも記載したが、朴椿石を一躍スターダムにのし上げた『비 내리는 호남선』(雨降る湖南線)は1956年に歌手の孫仁鎬が歌いヒットした。汽車の別れを歌うこの歌は、多くの韓国人に愛唱され、新人歌手コンクールでは約8割がこの歌を歌うほどセンセーションを起こした一曲。抒情的なメロディが聴く人をさめざめとさせるのが印象的な曲。ちなみに韓国には鉄道に関する歌も多く、『이별의 부산 정거장』(別れの釜山停留場)や『남행 열차』(南行列車)などヒットした曲も多い。

섬마을 선생님(島の村の先生)

『동백아가씨』(椿むすめ)で一躍スターとなった韓国の歌謡曲の女王・이미자(イ・ミジャ)が1967年に地球レコードに移籍した朴椿石とタッグを組み、繰り出したビッグヒット。島に赴任した独身の先生と19歳の少女の恋を歌った一曲。このコンビによる『黒山島むすめ』や『黄昏のブルース』など次々に名曲をリリースした。今なお「歌謡舞台」では주현미(チュ・ヒョンミ)や장윤정(チャン・ユンジョン)らの後輩歌手に歌い継がれている。

가슴 아프게(胸痛く)

これぞ朴椿石メロディ!と言う方も多い一曲。あまり韓国の歌謡曲を知らない方もこの歌は知っていると言う人もいるだろう。韓国の国民的歌手の남진(ナムジン)の代表曲。愛する二人に連絡船の別れを描写したこの歌は김연자(キム・ヨンジャ)ら後輩歌手や海を越えて日本でも美川憲一などに歌われた。남진はこの歌で一世を風靡し、今なお韓国の歌謡番組には欠かせないベテランとして活躍されている。

마포종점(麻浦終点)

韓国の女性デュオである은방울자매(銀の鈴姉妹)が1968年にリリースした『마포종점』(麻浦終点)は深夜のソウルを舞台にした哀愁を嘆いた含んだ一曲。哀愁あふれるメロディに姉妹のハモリがとても印象的な一曲。当時地球レコードに移籍して間もない은방울자매の楽曲を担当することとなり、ヒットした。余談だが姉妹は実際の姉妹ではない。日本のこまどり姉妹と度々比べられることがある。

とまだまだ先生の作曲した名曲をご紹介したいのだが、なにぶん数が多くどれも良くて絞り切れない…ここに上げていないだけでもまだまだ名曲は多いがその中でも5つご紹介させて頂きました。それに朴椿石だけではなく吉屋潤、羅花郎、金富松といった韓国を代表する名作曲家も次々とご紹介できればと存じます。

【参考文献】

『韓国歌謡史Ⅱ 1945-1980』朴燦鎬 邑楽舎 2018

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