メニカンbiweekly #2 短編について1 −短編「集」という形式−
執筆:寺田慎平
最近は、短編ばかり読んでいます。
働きはじめたころは、学生のときのように、本に触れ合う時間がなくなっていたのですが、これではまずいと思い、比較的サクッと読める小説の、特に短編がむいているということに気づいたのが発端です。
ただ考えはじめてみると、短編には長編にはない魅力があって、そこには前々から惹かれていたように思います。
たとえば10代のころに知って以来、梶井基次郎の作品にはずっと魅了されつづけていますが、(自分の知るかぎり)彼の作品には短編しかありません。内容ももちろんですが、振り返ってみると短編という形式にもまた、魅せられている気がします。
形式ということでいえば、短編「集」というフォーマットは今っぽいのかなと思ったりします。ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『フライデー・ブラック』(駒草出版、2020年/原著: Nana Kwame Adjei-Brenyah, "Friday Black", Mariner Books, 2018)やグカ・ハンの『砂漠が街に入りこんだ日』(リトルモア、2020/原著: Guka Han, "Le Jour où le désert est entré dans la ville", Editions Verdier, 2020)など、近年話題の短編集を読んでみると、収録された短編同士の関係があるようなないような、その感じが読書の没入性を高めています。
「今っぽい」と思った理由は、現代における配信サービスと音楽の関係に似ていると思ったからです。サブスクリプションによって、音楽はアルバムという単位が解体され、曲もどんどん短くなっている、みたいな話がありますが、近年の短編も、曲単位としても聴けるし、アルバム単位としても聴ける、そんなどっちつかずの音楽のあり方に似ていて、時代の空気としてあるのかな、と勝手に思ったりします。短編小説の没入感は、音楽の没入感にも近いというか。
イ・ランの『アヒル命名会議』(河出書房新社、2020年/原著:이랑《오리 이름 정하기》, 위즈덤하우스, 2019 )なんて、まさしくそんな感じかもしれません。
と、ここまで書いたところで、近年の長編代表作である劉慈欣の『三体』の完結編(《三体 III・死神永生》、早川書房、2021年/原著: 重慶出版、2010年)が届きました。短編が時代の空気とあっているなんて適当なことを言ってしまったな、まあ長編には長編のいいところがあるし、、と自分に言い聞かせようとも思いましたが、そういえば『三体』との出会いもまた、『折りたたみ北京』(早川書房、2018年/原著: "Invisible Planets: Contemporary Chinese Science Fiction in Translation", Tor Books, 2016)という現代中国SFアンソロジーに収録された、『三体』の抜粋改作である「円」という作品だったことを思い出しました。超大作でありながら、その断片を切り取ってしまえば短編にもなる、その両義性に、現代性を感じ取ったり、、と、自分の考えの適当さをさらに増幅させておきます。
* * *
さて、この場ではしばらく短編について、自分の読書ログも兼ねながら、徒然なるままに書いていこうかなと思っています。なんだか短編という形式には独自の想像力がある気がしていて、もしかするとそれが現代の都市や建築を論ずる語り口にもなったりするんじゃないか、そんなことを期待しながら、まずは書きながら考える、そんな場にできればと思います。