インド武術から見た近代スクワットの起源
はじめに
2023年6月初旬に、Tarzan誌より「スクワットの起源について」取材依頼があった。
スクワットは加重スクワット(ウェイト・トレーニング)としても身ひとつで行う自重スクワット(Air Squat or Bodyweight Squat)としても現在世界中で盛んに行われており、別名『エクササイズの王(The King of Exercises)』とも呼ばれている。
以下はこれを契機に始まった私の個人的な「スクワットの起源探求」のプロセスを覚書的にまとめたものだ。
スクワットの基本は、足を肩幅ほどに開いて立ち、背筋を伸ばした状態でそのまま膝を曲げて重心を下げていき、足を折りたたんで太ももが地面と平行よりやや深い状態まで腰を落とし、再びそこから立ち上がっていくもので、一般には手の動きを加えて勢いを付けたりはしないで、このシンプルなしゃがみ座りと立ちを繰り返していく。現在は加重・自重ともに世界中で盛んに行われているが、歴史的に見ると先行したのは加重スクワットだった。
一方で、インド武術の世界では伝統的に両腕でリズムをとる自重スクワットが用いられ、それはクシュティ・レスリングと強く結びついてインドの言葉でバイタック、英語では『ヒンドゥ・スクワット(Hindu Squat, 日本ではヒンズー・スクワット)』と呼ばれている。このヒンドゥ・スクワットと欧米的な近代スクワットの関係性や如何に?というのが本稿の主題になる。
スクワットという概念その実践は、西洋近代の歴史性そのダイナミズムのただ中から生まれた。そこにおいて、インド式エクササイズというものがいかに重要な役割を担っていたか、を明らかにしていきたい。
西洋近代におけるエクササイズ・ムーブメント
ヨーロッパ世界における身体文化エクササイズの起源は、古代ギリシャにまで遡ることが出来る。その基盤になったのは古代オリンピックのやり投げやレスリングが示す様に、戦士の戦闘術・格闘術、およびその養成のためのエクササイズだった。当時現代におけるダンベルやバーベルに類似したウエイト・トレーニングが行われていた事はほぼ確実であり、その原像として、子牛を毎日担ぎ上げ続けたミロン(Milo)のエピソードは特に有名だ。
西洋近代において、このウエイト・トレーニングに先行する形で重要な役割を果たしたのは、国民的なエクササイズ・ジムナスティック運動だった。
西洋近代は隣接するヨーロッパ諸国との戦争に次ぐ戦争の歴史であり、祖国の軍事力を高め威信を称揚・回復する社会機運の中で、盛んに体育エクササイズが奨励された(これは明治維新後の日本にも当てはまる)。
その嚆矢として、有名なところでは19世紀初頭から始まった『ドイツ体操(英German Gymnastics、独Turnbewegung)やその影響下で生まれたチェコスロバキアのソコル(Sokol)ムーブメントがあり、次いでデンマーク体操(Danish Gymnastics)やスウェーデン体操(Swedish Gymnastics)があげられ、その他の各国でも似たような運動が存在した。
だが、私の確認できた範囲では、ドイツ、チェコ、スウェーデン、デンマークなどの国民体操に、明らかに後の近代スクワットに直接つながると思われるエクササイズは見いだせなかった。
上画像はスウェーデン体操におけるスクワット類似のエクササイズだが、膝を屈して両足でひし形を作る辺りまでしか腰を落としておらず、近代スクワットとは明らかにコンセプトが異なる。またしゃがんで立つ事のみを繰り返すというよりも、ラジオ体操の様に色々な動きを次々とつなげていく印象が強い(ラジオ体操の中にも、上画像と似た足をひし形に曲げていく運動がある)。
ネット上を探すとこれよりも深く脚を曲げ膝の開き具合いも狭く、ほとんどスクワットのようになった姿も散見するが、これは近代スクワット登場後にその影響を受けて改変された姿であり、本来のスウェーデン体操では上画像の角度が正しいと私は判断している。
この北欧二国の体操エクササイズについては、近年になって「近代ヨーガ・アーサナのルーツになった」という視点から話題が再燃した事は記憶に新しい。しかしデンマークについては早くも17世紀にタミルナードゥ州に植民地を得て以降19世紀後半に至るまでインド各地に小規模ながら植民地を維持し続けていた事から、伝統的なインド式エクササイズに啓発される機会は充分にあり、その情報はスウェーデンなど他の北欧諸国にも流入していたと考えられる。各エクササイズ要素について、どちらに本当の起源があるのかは、より慎重な考証が必要だろう。(参照:デンマーク領インド)
欧米近代におけるインディアン・クラブの流行
注目すべきはこれら北欧の体操において、『インディアン・クラブ(Indian Club、インド名ムドガル:Mudgar、Joris、イラン名Meel、Mil)』が早くから使われており、その誕生プロセス自体にインド式エクササイズの影がちらついている事だ。
ムドガルは、インドでは古代から戦士の体錬エクササイズとして実践されてきたものであり、近現代においては特に伝統レスリングのクシュティと深く結びついている。
↑ 13:52~インディアン・クラブの説明がある。
日本人には余り馴染みがないが、このインディアン・クラブについては早くも1800年代初頭には広く欧米世界に紹介され広く普及しており、一時代を築いた歴史があった。
上の論文にはインディアン・クラブが既に1800年代の前半には欧米世界に広く紹介されていた事実が明記されており、主にインド亜大陸に赴任した英軍人が現地インド人兵士の圧倒的なフィジカルの優位性に瞠目し、「どうやったらこんな身体が獲得できるのか?」という疑問から調べを進めていった結果、クシュティ・レスリングの特徴的なエクササイズ群を発見し、その中でもインディアン・クラブに注目した流れが示されている。
現在に至るクシュティとはそもそもインド在来の『マラ・ユッダ』とペルシャ系レスリングの『コシュティ』が融合したもので、ムガル・イスラムの世になって初めて確立した名前だ。クシュティを奨励したムガル帝国によって、練兵の核としてその基礎鍛錬やスパーリング・試合がルーティンとして行われており、精強部隊の多くが偉丈夫なレスラー体型をしていたのかも知れない。
軍人あるいは武人・戦士というものは極めて実践的なリアリストであり、ある意味徹底した功利主義者だ。たとえ相手が軍事力によって征服した被支配者であっても、戦力の養成において優れたスキルについては貪欲に吸収しようとしたのだろう。
そもそもイギリスがインドを征服できたのは、圧倒的な火力と戦術の優位であって、純粋な肉体レベルではしばしばインド人、特にヘヴィー級ペヘルワーンなどには敵わないと脅威に感じていた可能性もある。パンジャブのシーク教徒が典型だが、ムガルの地盤であった北西インドはアーリア人の血が濃く、体格も同じコーカソイド系の西洋人に全く引けをとらない。
この欧米へのインディアン・クラブ普及と相前後して、クシュティの他の特徴的なエクササイズ群も、当然水面下では欧米世界に情報伝播していったと考えられる。クシュティ・トレーニングの根幹とも言えるインド式スクワットのバイタック(ヒンドゥ・スクワット)も、かなり早い段階で西洋人に知られていた可能性が高い。
インドにおけるムドガルのエクササイズは重いものだと一本50㎏にもなる場合があり、ウエイト・トレーニングとしてのニュアンスを濃厚に持っているのだが、欧米に移入されたものはとても軽いもので、ある種『リズム体操』の様なものだった。
これはインド起源のエクササイズが欧米に移植されるにあたって、彼らの好みに従って柔軟にアレンジされていた事を示しており、後段で述べる、インド発のバイタックが欧米的なスクワットへと変貌していったプロセスとも重なってくる。
欧米近代のウエイト・トレーニング
近代欧米エクササイズ史において、スクワットの登場に深く関わってくる大きな潮流がウェイト・トレーニングだ。
歴史的に見ると、まず先の国民体操とも重なる形でダンベル・エクササイズが存在したようだ。両手に一個ずつ握りしめるダンベル自体は、これも古くはギリシャにまで遡れるものだが、西洋近代では17~18世紀には社会的に注目を集めるようになり、軍事訓練と共に上流階級子女の運動不足からくる不健康を改善するためのエクササイズとしても普及が進んで行き、それが19世紀の国民体操ムーブメントへと合流していく。
しかし、私が確認した範囲では、やはりこのダンベル体操の中にも、明確にスクワットにつながるような動きは見いだせなかった。
ダンベル・エクササイズとは別に、当時の欧州には19世紀ごろから『ストロングマン(Strong Man)』と呼ばれたサーカス的な力自慢を見世物ショーにする一群の人々がいて、全欧州から米大陸に至るまで股にかけて巡業していた。彼らがその超人的な力を誇示するために見せた『超重量物の持ち上げ』つまり『ウェイト・リフティング』が、近代ウエイト・トレーニングのもうひとつの起源であり、この流れと、先行するダンベルや国民体操が合わさって鉄製重量バーベルが生まれ、近代的なウエート・リフティング・トレーニングが確立していく。
このバーベルの起源については、先行するワンド(Wand)と呼ばれる両端にボールが付いた木製の軽量棒から、中量の鉄製ワンド(Iron Wand)が進化し、そこから発展して鉄棒の両端に重量ボールを付けたバーベルが誕生した、という事らしい。
伝統的にストロングマンは古代ギリシャと同様、怪力・偉丈夫を誇るレスラーと深く結びついており、この事は後段で効いてくるので覚えておいて欲しい。
ここで重要なのは、この様なストロングマン起源のウエート・トレーニングの主旨が、先に示した『重量物の持ち上げ』にあり、そこでは下に置かれたウエイトをしゃがんでホールドした状態がスタートで、それを保持して上に持ち上げた状態がフィニッシュだった事だ。
その目的は重量を持ち上げる事(リフティング)によって力を誇示し、あるいはそれを繰り返す事によって更なる力を涵養・獲得する点にあり、これはまさに古代ギリシャのミロンが行っていた子牛担ぎにも重なる。
このストロングマンの系譜は、1891年にロンドンで行われた第一回国際ウエイト・リフティング大会によってその近代化の基礎が築かれた。しかし、この時、後のスクワットの形で演技するものは誰もいなかったという。
また1896年に開催された第一回近代オリンピックのアテネ大会ではウエイトリフティングが行われており、その内の「two hand lift」と呼ばれた競技が現代のクリーン&ジャークに相当し、そのプロセスにスクワット姿勢を含むが、それはあくまでも持ち上げるための必然的なしゃがみ込みに過ぎない。
この辺りも後段で詳述するが、欧米ストロングマンの潮流には、元来『スクワットするエクササイズ』という概念自体が、存在していなかった可能性が高い。
ルイ・アッティラとユージン・サンドウ
しかし実はその二つの世界大会の間に、水面下では同じストロングマンの実践の中から近代スクワットが誕生していたプロセスが、かなりな程度跡付けられている。そこで中心的な役割を果たしたのが、ルートヴィヒ・デュルラッハー(Ludwig Durlacher)、通名ルイ・アッティラ(Louis Attila)あるいはアッティラ教授(Professor Attila)と、その愛弟子ユージン・サンドウ(Eugen Sandow)だ。
文武両道の才に恵まれたルートヴィヒは長じるにつれフィジカルに目覚め、ストロングマンを志し修行の道に入る。やがて頭角を現すとアッティラの芸名を名乗り、ストロングマン・ショーの主役として欧州各国や米大陸で盛名を博す。その実績をもとに1886 年にブリュッセルに自分のジムを開き、フィジカル・エクササイズ・トレーナーとして本格的に活動を開始した。
このアッティラという名前は五世紀に活躍したフン族のアッティラ大王(Attila the Hun)に由来する。ヨーロッパ世界においては過去に手ひどい目にあった異民族の征服者であるにも関わらず不思議と根強い人気があり、芸名としてのインパクトを狙ったようだ。そのプレゼン・センスは見事に的中し、フィジカル・フィットネス界の寵児となったアッティラの元に、ほどなく一人の若者が入門した。それがユージン・サンドウだ。
アッティラの元で実力を磨いたサンドウはその後、師の勧めでストロングマン競技大会に出場、優勝してその名声を不動のものとする。やがて彼は観客たちの多くが、彼の発揮する怪力よりもむしろその鍛え上げられた美しい肉体の威容に魅入られている事に気づき、様々なポージングを開発してボディ・ビルの開祖と呼ばれるようになる。
やがて彼は、師アッティラと同様エクササイズ・トレーナーとしても頭角を現し、何冊もの解説書を刊行、欧米にとどまらず世界中をツアーで巡って自らの思想と実践を広め、近代エクササイズ史において不動の地位を確立していった。
近代スクワットの起源
ネット上には、欧米世界における加重スクワットの嚆矢として、いくつかの候補が上がっているが、その最初期のひとつが、このサンドウが著したエクササイズ解説書の中に存在するという。
上の動画は現代に至るスクワットの起源について考察した非常に示唆的なもので、是非字幕付きで見てほしいのだが、その中で動画主はサンドウが1894年に出版した「System of Physical Training」を引用し、そこにスクワットの最初期の姿を見出している。
ここで明らかなのは、きちんと整えた立位の基本姿勢をスタートとし、身体を沈めてしゃがみ姿勢になる事がゴールであって、そこから再び立ち上がるプロセスは単なるリターンに過ぎない、という事で、それは立ち上がるプロセスをわずか一語のRecoverで済ませるその表現によく表れている。
つまりここでサンドウが示したエクササイズの主目的は、立位から膝を曲げ身体を沈めてしゃがみ込み姿勢になる事にこそあって、立ち上がる事はこのしゃがみ込みを繰り返すための単なる通過手続きに過ぎない。
これは、気付きにくいが、今までひたすら重量物を下から上へと持ち上げて、その大力の威容を誇示してきたストロングマンの系譜からは真逆の発想になる。それを表す様に、その効能解説においては、力強さよりもむしろ柔軟性の方が強調されており、実際に手に持つダンベルも極軽い小さなものに過ぎない。
サンドウ自身はここではまだ『スクワット』という呼称は用いてないようだが、どちらにしても、これが近代スクワットの夜明けである、という動画主の仮説は大いにうなずける。しかし一体、サンドウはどのようにしてこのエクササイズを発想し得たのだろうか?
その後、この軽量のウエイトを持って行われるスクワットのプロトタイプは、「ディープ・ニー・ベンド(Deep Knee Bend、深い膝の折り曲げ)」と呼ばれ、つま先立ちでしゃがみ込むスタイルで広く行われていく。
上の説明を見るとサンドウの思想をほぼ踏襲し、このエクササイズの目的が深く腰を沈めてしゃがみ込む事そのものにあることが分かる。立ち上がるプロセスが「再び立ち上がって」の一言で済まされているのも同様だ。
このディープ・ニー・ベンドがその後ウエイト・トレーニング界の主役となって『スクワット』と呼ばれていく訳だが、その嚆矢となったのは1921年にアメリカでデビューしたドイツ系のハインリッヒ・シュタインボーン(Heinrich Steinborn)だった。彼はアメリカでストロングマンとして一躍脚光を浴び、その後プロ・レスラーとしても活躍している。
シュタインボーンのヘラクレス的にビルディングされた身体の威容とその大力は、瞬く間にアメリカ中の男たちを虜にした。その後バーベルを支持するラックの発明と共に重量は加速度的に増大していき、加重スクワットによって多くの偉大なストロングマンやアスリートを輩出していくのだが、そこでは当初サンドウによって強調されていた『しゃがみ込む事自体』の重要さは影を潜め、再び『持ち上げる(立ち上がる)』事に重点が移っていった。
以上見てきたように、近代スクワットの原像がディープ・ニー・ベンドだとすると、その大本の元祖はやはりサンドウであると考えてほぼ間違いが無さそうだ。
問題は、彼の『持ち上げる事からしゃがみ込む事へ』という発想の劇的な転換が、いつ何を契機に起こったのか?という点にある。そのカギは、アッティラとサンドウが残した膨大なヴィジュアル・イメージの中に隠されていた。
アッティラ&サンドウはインド・フリーク?
上の画像を見ると一目瞭然なのだが、この二人の基本コスチュームは「ワンショルダーの豹(虎)皮衣装が定番になっている。しかもその右手にはインディアン・クラブもしくはこん棒が握られている!このこん棒(英Mace)、インドではガダと呼ばれ、クシュティの守護神であるハヌマーン神の神器であると同時に、クシュティ・チャンピオンのシンボルでもある。
この画像を見た瞬間、私の脳裏ではフラッシュバックのように様々なイメージが駆け巡り、とある全く別の写真を記憶の底から引っ張り出していた。それは南インド・ケララ州の伝統武術カラリパヤットのグルッカル(先生・師範を意味する尊称)の姿だった。
私は2005~2007年にかけて、ケララ州現地を訪ねカラリパヤットの道場に入門し、延べ2か月ほど修行の日々を送った経験がある。その時お世話になった師匠ヴィジャヤン・グルッカルの父であるゴパラン・グルッカルの、それは勇姿だった。
改めて説明を聞いてみたところ、カラリパヤットでは剣と盾の術技を豹や虎など俊敏で強力な肉食獣の動きに重ねており、この豹皮衣装はそれを象徴するものだと言う。
その姿は、手に持つ剣をクラブやこん棒に変えたら、そのままアッティラやサンドウの姿そのものだった。
元々インドでは虎(豹)は宗教的に特別な意味を持ち、神々はその背に乗りあるいは毛皮をシートとして座り、ヨーガの行者たちもそれを模倣している。三大神のひとりシヴァなどは、上の画像と同じように虎(豹)皮を身にまとう姿が定番にもなっている。
そもそもアッティラという芸名の元となったアッティラ大王はモンゴル系で、北ユーラシアの寒冷地を地盤に活躍したキャラクターであって、こんな豹(虎)皮一枚の半裸なコスチュームを着ていたはずはない。ならばルイ・アッティラ先生は一体、どこからこの姿を引っ張ってきたのか?
一瞬、これは古代ギリシャの闘士スタイルかとも思ったが、検索するとそのほとんどは左肩を露出するタイプで、もちろん虎豹皮などでは全くない。そもそも虎や豹などはギリシャ地方には全く縁遠い存在だろう。
となるともはや、私にはインド以外にまったく考えられないのだが…
左肩を隠し右肩を露出する姿は、ヒンドゥ伝統の「右側を聖なるものと観る」思想の体現でもあり、今に伝わる仏教(大乗・上座部を問わず)の袈裟もこの右肩を露にするスタイルになっている。
アッティラが手に持つゴツゴツしたこん棒は、調べてみるとどうやらヘラクレスに起源があるようだが、常用しているインディアン・クラブの存在も考慮すると、この虎豹皮のいで立ちはアッティラのインドに対する熱い思いの表れでは無かったか?と私には思えてならない。
つまり読み筋としてはこうだ。
おそらくアッティラ先生は、インディアン・クラブなどを通じてクシュティ・エクササイズを深くリスペクトしていた。そしてどこかのタイミングで同じクシュティ発のバイタック=ヒンドゥ・スクワットについても見聞きしており、エクササイズ・コーチとして様々な研鑽を重ねている時期にその『真価』に目を開かされ、それを弟子サンドウに伝えた。あるいは師から与えられた様々なヒントに啓発されてサンドウ自身がそれを採り上げた。
どちらにしても、サンドウが1894年に発表した『ディープ・ニー・ベンド』は、インドのバイタックに由来するものだった。深く腰を落としたしゃがみ座りを繰り返して行う、というそれまでの欧米エクササイズには存在しなかったシステム概念は、踵を上げてつま先でしゃがみ込むスタイルと共に、バイタックにインスパイヤされたと考えると色々と辻褄が合う(踵とつま先のスタイルはスウェーデン体操にも通じるのでそちらの可能性も…)。
残念ながら、この仮説を立証するような強力なデータは未だ見つかっていないが、様々な状況証拠をジグソーパズルのように組み立てていくと、最も蓋然性の高いシナリオとして、この読み筋が浮かび上がってくる。
グレート・ガマ・ペヘルワーン
実はこの近代スクワットの夜明けとほぼ重なる1900年代初頭、一人の伝説的なインド人クシュティ・レスラー(ペヘルワーン)がヨーロッパ世界に渡り、ある種の旋風を巻き起こしている。それがグレート・ガマだ。
このグレート・ガマについてはIOCの公式サイトにも一頁をさいて掲載され、またGoogle Doodlesがその誕生日を英米印で取り上げてもいて、彼に対するグローバルな評価の高さを物語っている。
上のガマの姿を見れば分かるように、クシュティ・チャンピオンにとって棍棒のガダ(印Gada、英Mace)は勇者のトレードマークになっている。また偉大なレスラーの比類ない強さは、しばしば虎の威勢と重ねて称えられており、『タイガー・ジェット・シン』や『タイガー・ペヘルワーン』など、『タイガー』の二つ名によって称えられる。ガマが虎皮の上に立つ姿はそれを象徴的に示しており、もしこの虎皮を片肩に身にまとえば、そのままアッティラ先生やサンドウの姿とも重なるだろう。
上の写真は、グレート・ガマがバイタックを行っている姿、と伝わるものだが、彼は最盛期にはこのバイタック・スクワットを一日5000回行ったと言われている(Wikipedia)。彼はバイタックとダンダ(インド式腕立て伏せ)そしてインディアン・クラブで培った身体で全インド無敵の地位を確立し、更なる強敵を求めてロンドンに渡るやストロングマン界隈に旋風を巻き起こし、1910年にキャッチ・レスリングの試合でワールド・チャンピオンの称号を得ている。
インド伝統のスクワットと西洋の『スクワット』観
ここで重要なのは、ガマが行っていたバイタック・エクササイズが、サンドウがディープ・ニー・ベンドを発表する遥か以前、おそらく千年スパンの昔からインドで延々と実践され続けていた、という事実だ。
上で言及されているラーマーヤナの記述については確認できなかったが、ヨーガにおける『スクワット・ポーズ』については下の画像がその代表的なものだ。
ここで言うマーラーサナは日本語では花輪のポーズだが、実は戦士を意味するマラ(malla)とも重なり『レスラーのポーズ』を含意していた可能性もある。
スクワット的なエクササイズまたはポーズがインドで歴史的に重視されてきた事実は、ケララ州の伝統武術カラリパヤットの中にも表れている。
カラリパヤットでは上の象のポーズをはじめ多くの動物のポーズが、重心が極端に低いしゃがみ姿勢を基本としており、様々なムーブメント・シリーズの中でもそれは多用されている。ひょっとすると、インドにおけるこの様なしゃがみ姿勢エクササイズの起源は、紀元前にまで遡れるかもしれない。
エクササイズを離れても、一般にインド人の生活の中でスクワット姿勢はとても身近で日常的なものだ。その第一は排便時の姿勢で、大便時はもちろん、インドでは伝統的にルンギーなど一枚の布を巻くボトムズを着ており、男性の小便時もしゃがみ座りだった。日本を始め世界中の伝統文化の中で基本的に排便はしゃがみ姿勢(いわゆる『ウンコ座り』もしくは蹲踞姿勢)で行われており、人間にとってそれは最も自然な生態だ。余り知られていないが、この和式的なしゃがみトイレの様式を英語ではSquat Toiletと呼ぶ。
またインドをはじめ広範なアジア地域で、排便時以外にもこの『しゃがみ座り』は常用されており、インドでは例えば村芝居の観劇を行う際などにも観客はこのしゃがみ座りをしていたケースが多い。英語ではこれをAsian Squatと呼んでいる。
一方で、西洋人にとってはこのしゃがみ座りは非常に馴染みのない違和感のある姿勢だった様だ。トイレに関しては早くも中世にはガルデローブ(Garderobe)と呼ばれる腰掛式の便座が開発され、近世に入ると王城など上流階級の施設においてはそれが広く普及、19世紀ごろには多くの都市圏で一般化し、しゃがみ式のトイレは『トルコ式(Turkish Toilet)』などと(蔑視を伴って?)呼称されていた。一方、彼らの生活の中では椅子が常用されており床に座る機会も少なく、日常的にしゃがみ姿勢から縁遠くなっていた事が想定される。
この様なしゃがむ事への苦手意識とアジアン・スクワットに向けた視線に関しては、西洋人自身による以下の証言によく表れている。
『スクワット』命名の謎
そもそもこの『Squat』という英語だが、上に書いたように当時の英米人にとっては、植民地支配している『劣った野蛮な』アジア・アフリカ人の生態と密接に結びついており、その他の意味でも『不法占拠・居座り』などという余り芳しくない意味合いを持っていた。彼らにとっては、日常的に良いイメージを持った語とはとても言えなかっただろう。
私は大いに疑問に思わずにはいられないのだが、彼らは何故、ディープ・ニー・ベンドにそんな『スクワット』などと言う名前を付けたのだろうか?
そこでまず考えたいのは、イギリス人がクシュティのバイタックを見て『ヒンドゥ・スクワット』と名付けたのはいつ頃で、その命名の背後にどのような心象が横たわっていたのか、という点だ。
既に1800年代の初めにはインディアン・クラブが欧米に広く普及していた歴史については前に述べたが、イギリス東インド会社が本格的にインド経営を開始した年代を1600年代半ば前後と仮定すると、サンドウがディープ・ニー・ベンドを発表しそれがスクワットと命名される頃には、それから250年以上の月日が流れている。
その250年の間に実に多くのイギリス人がインド人のバイタック・エクササイズを目撃し、その存在はイギリス本国ひいてはヨーロッパ世界の一部にも間違いなく知られていた事だろう。
だとすれば、ひょっとすると、『ヒンドゥ・スクワットという名前』は、『欧米近代スクワットの命名』よりも前に、存在していたのではないだろうか?
近代スクワットの登場以前、上記250年の期間中どこかのタイミングで、ある時インド人クシュティ・レスラーがバイタック・エクササイズに励んでいる姿を見たイギリス人が、もちろんそれがどんな効果があるのかも分からず、自分たちにとって馴染みのないしゃがみ座りをひたすら繰り返し続ける様子に首を傾げながら、「インド人が執心する何とも奇妙なしゃがみ座り』というニュアンスを込めつつ、『ヒンドゥ・スクワット』と命名した。そんな情景を私はイメージしている。
この辺りは、中々証言・記録が発見できずもどかしいところだが、もし仮に私の読みが正しければ、近代『スクワット』の呼称自体、ヒンドゥ・スクワットから引っ張ってきた可能性が見えてくるだろう。
グレート・ガマの衝撃と加重スクワット
話をガマ・ペヘルワーンに戻そう。彼は先に触れたように一日5000回ものバイタックを通年で行っていたモンスターだった。これは現代のクシュティ・レスラーを見てもそうなのだが、そのようなスクワット・ジャンキーとも言える修行を続けた脚は、一般人から見ると文字通り化け物級の威容を放つ。その姿は未だ『近代スクワット』を知らない欧米人の目には、さぞかし驚異的に映った事だろう。
1910年にロンドンで「世界チャンピオン」の称号を手にしたガマは、その後も多くの欧州トップ・レスラーと対戦しそのことごとくを退け、不敗を貫いている。当時高名だった世界ヘビー級レスリング・チャンピオンのフランク・ゴッチなどにも挑戦したが、スルーされて試合が実現しなかったケースも多い。
彼の身長は170㎝と小柄で、にも拘らず大柄な白人レスラー達を相手に完勝といっていいレベルで連戦・粉砕していったのだから、そのインパクトもまた強烈だっただろう。当然その強さの秘密に関心が集まり、特徴的な偉大な太ももの背後に『ヒンドゥ・スクワット』がある事が知られ、今度はそのエクササイズ自体に焦点が絞られた事は容易に想像できる。
『スクワット』呼称の嚆矢となったハインリッヒ・シュタインボーンについては前述したが、彼は第一次大戦下に捕虜収容所で生活していた時期にウェイト・トレーニングに没頭してその見事な肉体を造り上げたという。
彼が収容所で加重スクワットをやっていたかについては明確な記述は得られていないが、前後の流れを考えるとそれは間違いないだろう。
第一次世界大戦の期間は1914年7月28日から1918年11月11日、ガマがロンドンで旋風を巻き起こしてから4年後に始まっている。この前後、風雲急を告げる世界情勢に翻弄され国家総動員で戦時体制が確立していく中、男たちの間で強さへの渇望はいやが上にも高まり、それを獲得するノウハウは、正に垂涎の的だったことが十分に想定可能だ。おそらくそれが、加重スクワットへ一気に傾倒するひとつの大きな原動力となった。
ガマは一日5000回もの自重スクワットをこなしたと言うが、促成スピードを求める彼らには、重量スクワットの選択は自然な成り行きだったのだろう。
ここまでの流れを、年表的に記すと以下のようになる。
以上のタイムラインを見ると、インド発クシュティ・エクササイズとしてのバイタック、つまりヒンドゥ・スクワットが、近代スクワットの誕生において極めて重要な働きをした可能性、その蓋然性の高さが、ストンと腑に落ちないだろうか?
おそらく加重のディープ・ニー・ベンドがスクワットと命名されたのは、元祖ヒンドゥ・スクワットに対する、そしてその精華であるグレート・ガマに対する、リスペクトでありオマージュであったと思われる。ストロングマンの世界は伝統的にレスラーの世界と大きく重なり、シュタインボーンもまた優れたレスラーであった事実を忘れてはならない。
もちろんこの読み筋は、インド武術フリークである私が多分にバイタックに肩入れした結果のバイアスである可能性もある。けれど十分に「筋は通っている」と私は考えるのだが、読者の皆さんはどう受け止めただろうか。
その後時は流れ、1940年代以降、現代的なプロレスが海外や日本でブームを巻き起こすと、彼らが常用するヒンドゥ・スクワットが改めて注目を集め、その伝統的な自重スクワットの効用というものが再評価されて、スポーツの基礎トレーニングや一般的な健康エクササイズとしても不動の地位を確立していった。
インド伝統のバイタック=ヒンドゥ・スクワットが人類社会に与えたインパクトとその功績は、私たちが想像する以上に大きかったのかも知れない。
ここまでがTarzan誌の記事と連動した考察で、以下はその後の加筆です
草の根のペヘルワーン達
クシュティ由来のバイタックが西欧世界に伝播していった歴史のバックストーリーとして、決して忘れてはならないものがある。それはイギリス植民地時代に、主に傭兵として海外に渡って行った多くのクシュティ・ペヘルワーンの存在だ。
先に説明した様に、既に1800年代初頭には、クシュティ由来のムドガルがインディアン・クラブとして西欧世界に広く紹介されていたが、移入されたのはそれだけではなかった。ムドガルやバイタックを修練していたクシュティ・レスラー自身が、大量に海外に輸出され始めていたのだ。
その主役となったのはインド北西部パンジャブ地方を地盤とするシークの人々だった。シーク教は、あまたあるインド教の中では比較的新興の一派で、パンジャブ州のアムリトサルに在するゴールデン・テンプルをその総本山としている。
彼らは、戒律に基づき男は頭にターバンを巻き生涯髭を剃らないなど独特のいで立ちで知られているが、伝統的なヒンドゥー教と違ってカースト差別を完全に否定し、万民平等の教義を掲げている。
ヒンドゥ教の因習的な上位カーストにとっては、外国人はアウトカーストの汚れた異教徒であり、『穢土』である海外に行くなどと言う事はあり得ないことだったが、カーストの差別意識に縛られず進取の気に富んだシークの男たちにとって、海外は可能性に満ちた新天地であり、イギリス植民地支配が成立後かなり早い段階から多くの移民を輩出していった。
その中心になったのが商人と、もうひとつ『兵士』だった。
シーク教は草創以来、その平等の教義によって常に支配体制から弾圧される歴史を歩んできており、全ての男子は弾圧と戦いダルマを守る『聖戦士』と位置付けられてきた。その為、パンジャブ州は古来よりクシュティ修練の本場として知られており、また彼らが人種的にアーリアの血が濃い事も重なって、体格や身体能力の面でしばしば西洋人を凌駕していたのだろう。
そんな偉丈夫ぞろいのシークたちに目を付けたのが、英軍だった。彼らは多くのインド人兵士をその支配下に置いていたが、特にシーク男子を精強な兵士として高く評価し、集中的にリクルートして独立したシーク部隊まで設立している。その多くがクシュティ仕込みのペヘルワーンだったとしても、不思議ではない。
TribuneIndiaによれば、英印軍によるシークの徴兵は早くも1840年には始まったといい、ほぼインディアン・クラブの欧米への紹介と重なっている。これは決して偶然ではないはずだ。
そして外国を厭わないシーク兵の多くが、その後インド以外の英領にも派遣され世界中に展開していった。彼らの練兵の基礎エクササイズとして、バイタックやダンダ(インド式腕立て)が日々常用されていただろう事も、また容易に想定が可能だ。
シークだけではなく汎インド教的な文脈において、武術稽古(あらゆる身体文化・芸術も)は常に神と対峙する宗教的な修行あるいは『瞑想行』として位置づけられているが、特に彼ら海外派遣のペヘルワーン兵士にとって、異教徒に囲まれた慣れない海外生活の中で自らのアイデンティティを保ち高揚させるために、クシュティ由来のエクササイズが、練兵ドリルとしてだけではなく『ひとつの重要なリチュアル・ルーティン』にもなっていたかも知れない。
それを間近で見ていた英軍の上官たちが彼らの専心と献身に感化され、ヒンドゥ・スクワットの偉大さに刮目した流れも、少なからず存在していたのではないかと私は推測している。それが最終的に、英軍捕虜収容所でスクワットに開眼したハインリッヒ・シュタインボーンへとつながった流れすら、そこにはあり得るだろう。
Tarzanwebによると、日本のプロレス界にヒンドゥー・スクワットが伝えられたのは、1955年に来日したプロレスラー、ダラ・シンがその嚆矢だと言う。彼もまたクシュティ出自の敬虔なシーク教徒だった。
近代スクワット誕生と普及の陰には、そうした世界中に散らばった、決して記録に残る事のない草の根のダラ・シンたちが、インド人としてのプライドと神への献身の証として日々黙々と積み重ねたバイタックの存在も、またあったのではないだろうか。
ZONEの背後にあるもの
現在ウェイト・トレーニングの世界では、反復回数を意味する『レップ』という言葉が使われている。英語のRepetitionに由来するもので、その意味は『繰り返し』だ。そしてこの「同じ動作をひたすら繰り返す」というメソッドこそが、神を求める瞑想行としてのクシュティ・エクササイズの神髄であり、それまでの欧米世界には希薄なエクササイズ概念だった。グレート・ガマの5000回バイタックの衝撃は、それを見事に象徴していただろう。
実はこの『レペティション』、汎インド教的な実践行に通底するひとつのキー・コンセプトでもある。ヒンドゥ教では聖音オームや神の御名、特定の聖典フレーズなどを長時間にわたってひたすら繰り返し唱えていく、『マントラ詠唱』という行が普遍的に実践されており、日本仏教の称名や唱題行もその流れの果てに存在するものだ。
その伝でいけば、5000回バイタックはまさに身体で念じ唱える『マントラ』だったとも言えるだろう。
人の心と身体は、身体動作であれ発声であれ、ひとつの営為に専念してひたすら繰り返し続ける事によって、アルタード・ステーツに移行し易い。それは瞑想的文脈においてはサマーディと呼ばれるが、実はトップ・アスリートがしばしば経験すると言う『ゾーン』とも、深く関わっているメカニズムだ。
1900年代初頭に近代スクワットがその名と共に誕生するや、その反復ウエイト・トレーニングは瞬く間に世界中に広がり、人類の運動能力を大幅に向上させ、様々なスポーツ競技におけるテクニックや記録も飛躍的な進化を遂げて来た。そしてそのようなトップ・アスリートの、ある種神がかり的な『ピーク・エクスペリエンス』として、しばしばゾーンが体験されている。
その背後では、極めてインド的なレペティション・エクササイズの普及が、大きく貢献していたのではないだろうか。
インド的な英知は底知れず深く、そこから私たちが学べる事はまだまだ無限にある。この長い考察のプロセスを通じて、私は改めてそう感じている。
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