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この夏、かねてから、いつかちゃんと学んでみたい!と思っていた「ナラティブ(セラピー)」という心理学を、ナラティブ発祥の地であるニュージーランドで学べるプログラムがあり、行ってきました!

プログラムの開催地は「ハミルトン」。ニュージーランドで4番目に大きな都市です。国内最長のワイカト川が流れる酪農地帯で、先住民族マオリ族の村がたくさんあった地域でもあるとのこと。

ニュージーランド最大の都市オークランドから車で1時間半程度で、都心へのアクセスも良いけれど、自然も豊かで景色が最高の場所でした!

今回のプログラムの講師陣が所属するワイカト大学は、ハミルトンレイク(湖)のそばにあり、世界で最も早くカウンセラーの教育課程の中心に「ナラティヴ・セラピー」を据えた大学・大学院です。

このワイカト大学の講師陣や、この課程を経てカウンセラーとなっている方々から日替わりで、さまざまに特化した切り口からナラティブの講義を受けられるのが、このプログラムの最大の魅力でした。

また同時に、専門書を多く和訳していて日本におけるナラティブ・セラピーの第一人者であるお二人の先生が、ファシリテーターや通訳を務めてくださるというのも、贅沢な環境でした。

そもそも「ナラティヴ・セラピー」は、1970年〜80年代にオーストラリア人のソーシャルワーカーであるマイケル・ホワイトとニュージーランド人のデイヴィッド・エプストンによって開発された心理学です。

重要視するポイントによってさまざまな表現法がありますが、その根幹的な趣旨は、”一人一人の人生の歴史やその人の持つ価値観を大事にし、誰一人として責めることなく、人生の選択や考え方の新しい可能性を共に探していこうとする、新しいアプローチ”(ナラティヴ実践協働研究センターNPACC のサイトより)になります。

これを、現時点での私なりの理解で表現してみると “自身の中の問題を外在化したり、ディスコースと呼ばれる全身に染み込むように一体化している、考え方や感じ方の枠組みや振る舞いに影響を与えているものに気づいたり、目をむけることで、自身の考え方や振る舞い方、あり方などに、新たな選択肢を見出す(ことを支援する)アプローチ”。

このような考え方やアプローチを実践することで、行き詰まっていた考え方や自身への思い込み、組織や人と人との関係性に、新しい可能性を見出すことができるかもしれない、という予感を、ワクワク感と共に受け取ることができました。

また、受動的に受け止めていた責任感を見つめ直し、時には手放し、自ら選択をした主体的な責任感と共に生きることで、自分らしく生きる自由へアクセスできるようになる、そんな点も魅力だと感じました。

まだまだ言語化できていない学びや気づきも多く、ぐるぐるした状態ですが、これからも学びを深めて行きたいと思います!

さて現地では、実はプログラムの一環で、地元の小学校を見学させてもらうことができました。

学校では、子どもたちがハカのパフォーマンスを見せてくれたり、授業の様子や教室を見学させてもらったり、校長先生や副校長先生たちがニュージーランドにおける教育方針や教育スタイルについてお話ししてくださったりと、本当にたくさんの経験をさせていただきました。

そんな中で、まさに、カルチャーショック!と、とても驚いたことがいくつもありましたので、書き留めておきたいと思います。

・入学式がない!
NZの学校では、なんと入学式がないのだそうです。10週間の登校日と2週間の休みというパッケージが4期あり、6歳になった好きなタイミングの期に入学するのだそうです。確かにそうすれば、日本で起こるような、早生まれ(発達差)問題も起きにくいし、自分の学び始めるタイミングを自分で決めることができるし、自然な形で自主性が育まれるなあ、と思いました。

ちなみに、私の子供が通う学校の入学式では、じっとできないキョロキョロしまくる子供たちを完璧な形で配置するため、40分以上あれこれあれこれ調整して(されて)、全体写真を撮影する、と言う経験をしました。日本育ちで日本文化に慣れ親しみまくっている私でさえ、これは・・・さすがに無理じゃね?と、音をあげそうになりました。苦笑

・お昼休みがない!
授業の間の休み時間になると、遊んでいる子もいれば、お弁当箱を開けて何やら食べている子もいます。お弁当箱の中身を覗いてみると、ご飯らしきものは簡単なサンドイッチ程度で、あとは、クッキーやポップコーンやチップスのようなスナックたち。それらをちょこっとつまんで、休憩が終わると、またパカっと蓋を閉じてロッカーに戻します。そんな感じで、お昼休みというものはなく、授業の間の休みのたびに、気が向いたらお弁当箱をぱかっと開けて、食べ進めるのだそうです。ちなみにそれは、お弁当箱というよりお菓子ボックスだわ!笑

・教室がフリーアドレス!
これが最大の驚きでしたが、どの教室でも、机と椅子が一律に並んでいるところはありません。カフェのように丸みのあったり四角かったりする2つか3つの大きさの違うテーブルと、その周りにいくつかの椅子が並べてあるだけ。どこに座るかも自由だし、地べたに座っている子もいます。

教室前方のモニターには、テーマだけが提示されていて、あとは各自好きな場所で、本だったり、パソコンだったり、先生とのディスカッションだったり、さまざまな方法で、調べ、探究し、自分の意見をまとめたりしています。

とある教室では「戦争中にNZがとった態度についてどう思うか?」というお題が掲げられていました。小学生ですよねっ!?日本で言うなら大学のゼミのような学習スタイルとお題を扱って、調べ方さえも自分で決めて、自分の考えと意見を持ち、ディスカッションで他者と意見をぶつけ合いながら学びを深めている。これは、あまりに違いすぎる!

学び方も、学ぶ内容も、すべてが提供されるスタイルの中で育ち、大人になったら今度は突如、個性や自主性や独創性のある意見を求められる、大転換型の日本って。。。やっぱり無理があるよなあ!と改めて感じてしまいました。

・受験がない!
厳密な仕組みは理解できませんでしたが、NZの大学には受験がなく、申請すれば入れるのだそうです。もちろん医学部のように一部の学部は、一応の試験があるようですが、日本でイメージする受験とはかなり異なるようです。

新卒(採用)と言う仕組みがなくなれば変われるのか、500万人と言う東京の約3分の1程度しかいない人口(の少なさ)によるものなのか、因果関係がどこから来ているのか、なぜそのような状態にできるのかはわかりませんが、とにかく受験(に縛られる構造)がないって素晴らしい!と思いました。

・不登校がない!
正しくは、学校に行かない子、と言うのはそれなりにいるようなのですが、それを「問題だ」と捉える意味での「不登校(の概念)」がない、のだそうです。要するに、学校へ行くのは選択であって、必須ではない。権利であって、義務ではない、と言う発想のようです。

日本では、人と同じでないと不安になる、人と同じにできないのは何か問題があるからではないか、と感じたり考えてしまうことが多いのと、あとはやはり、受験を見据えた教育がベースにあるので、登校しない状態が問題になるけれど、多様性が当たり前の環境で、受験というものがなければ、不登校という概念も無くなるのか!と、目から鱗の感動でした。

・障害とは言わない!
日本では、ASD(自閉スペクトラム症)やADHD(注意欠如多動症)などを「発達障害」と言いますが、NZでは、「ニューロダイバーシティ」と表現していました。

ニューロダイバーシティとは、脳や神経のさまざまな特性の違いを、その人に「内在する問題や障害」と捉えるのではなく、「多様性や特性の違い(による困難)」と捉える発想・言葉だそうです。学校の先生たちも、自然に、ニューロダイバーシティの子、と言う表現を使っていましたし、一緒に学びつつも、特性がゆえに、気持ちが落ちつけなくなったり、勉強についていけなくなった時には、落ち着くまでいていい教室や、補講の仕組み、などが用意されていました。

このように、どんな言葉を使うかによって、考え方や発想の仕方、感じ方さえも方向づけられてしまう感覚は、まさにナラティブの学びに通じるところで、言葉っていい意味でも怖い意味でも、なんて大きな存在なんだろうと、改めて実感してしまいました。

・先生にもブレイクタイム!
職員室とは別に、先生たちのためのブレイクルームがあり、休憩時間にはコーヒーやお茶、クッキーやチョコレートを楽しむんだそうです。先生だって疲れますもんね!素敵です!

日本では、学校に行くべき、授業中は静かにすべき、前を向いているべき、椅子に座っているべき、同じように行動するべき、先生たちは仕事中は緩んだりしないべき、、、というようなべき論が先にあって、どうしたらそこに合わせられるか、と発想しているように感じられますが、NZでは、人間ってこういうものだよね、集中力なんてそんなに持たないよね、そんな私たちがよりよく学べるためには、より頑張れるためには、どんな環境が良いかな、必要なものは何かな、という、自然な発想があるような、そんな印象がありました。それにしても、先生たちのティーブレイクのお菓子が美味しすぎました!笑

・はだし!
学校の子供たちの一定数の子が、教室の中でも外でも靴を履かずに裸足でした。靴を履いている子もいる(というか多い)ので、学校の方針というわけでもなさそうで、先生に、「あの子達はなぜ裸足なの?」と聞いたのですが「さあ?」という返事しか返ってこず、しばらく謎でした。

が、その後、コストコのような大型スーパーマーケットに買い物に行った際、ふと見ると、子供でも大人でも、裸足の人がちらほら! 大人もか!と衝撃を受けました。NZの8月は真冬です。コストコ並みのスーパーなので、大きなカートがガンガン行き交ってます。踏まれたらどう考えても痛いです。そんな中なので、サンダルくらい履いた方が良くないですかー?という気もしましたが、家の中も土足の生活スタイルだと、外を歩くのも、裸足で良いか、となるのでしょうかねー?

・原住民マオリの文化を大切にする
子供たちは、低学年も高学年の子も、ハカを練習していました。そして高学年になると、有志メンバーが、行事の際などにパフォーマンスを見せてくれるのです。実際拝見したら、素晴らしい迫力でした。NZに来るまで知らなかったのですが、ハカには男性用だけでなく女性用の舞もあり、子供たちは、男子と女子に分かれて、交互に、あるいは一緒に音楽に合わせて踊っていて、パワフルで活気があり、本当に感動的なパフォーマンスでした。

そのほか、すべての教室にマオリの伝統的な絵が飾られていたり、マオリの絵本も図書館にあり、そんな風に国全体で原住民マオリの文化を大切にしていることが伝わってきました。

・ルーツを大切にする
NZでの自己紹介は、マオリ流ということで、自分の生まれた土地の山と川の紹介から入って、名前を言うのだそうです。私は、神奈川県の出身ですが、いったいどの山が自分の山なのか、NZで自己紹介するならもはやわかりやすく、富士山と言ってしまってもいいのか(でもそうすると日本人は全員同じになってしまうか?)はたまたもっと近いところで大山などと答えるのが良いのか、しかし誰も知らないであろう山の名前を出すことに果たして意味があるのか、と少々悩みました。さらに川なんてもっとわからない。生まれ育った地域に川はありましたが、名前なんてさっぱり思い出せない、などと右往左往。でも結局のところ、どこから来たの?と言うルーツを純粋に尊重し合う自己紹介なんだなあと、思いました。

子供たちは、色々なルーツを持っていることが一目でわかる環境です。日本のように、みんなだいたい同じが当たり前で、違うことがあった時に初めてびっくりして、話し合ったり、議論したりするのではなく、最初から、お互いに色々違いますよね、だから話さないと分かり合えませんよね、から入る関係性って、根本から違うよなあ、と感じてしまいました。

・異文化に興味津々!
子供たちは、私が日本人だとわかると、これは日本語でなんていうの?日本にはこれある?と矢継ぎ早の質問。日本語に興味津々で、「かわいい」や「かっこういい」を覚えて、早速あちこちで使っていました。この、異文化への興味津々さは、本当にすごい!この知的好奇心が育まれる環境は、本当に素晴らしいなあと、感動してしまいました。

と、書いても書いても終わらないほどに、たくさんの気づきやカルチャーショックを楽しんだ2週間となりました。

さらに2週間のうち後半は、純粋な観光で、ロトルアの間欠泉を見たり、鍾乳洞の光る虫を見たり、ロードオブザリングの聖地を訪れたり、牧場の真ん中に位置する別荘に泊まったら、そのオーナーの息子さんが、東京生まれの東京育ちの生粋の日本人感覚を持ったNZ人だったり、そこら辺にいると思っていたキーウィは絶滅危惧種で見るだけでとても大変だったり・・・予想外のことや面白いことがとにかくいっぱい。

ぜひまた訪れたい場所になりました。

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