祖母の思い出
先週に急性なんちゃら炎が再発し翌日から高熱が出てそれが5日続き、今朝ようやく熱が下がった。高熱の原因はなんちゃら炎ではないと思うが、流石にこれだけ短期間に高熱が出るなんて歳だなぁと思う。そして僕は高熱が出ると朦朧としながら決まって祖母を思い出す。
祖母は大正生まれで、生家は造り酒屋で地主、曾祖父は議員も務めていた。とても裕福で家族全員にそれぞれ3人ずつ使用人がいたそうだ。県初の高等女学校を卒業し教師をしていた。
縁談はいくつもあったそうだが、嫁いだのは生家から北に60キロほどの小さな町だった。とはいえかなりの大地主で、農地改革で田畑のほとんどは失われたがそれでもこの家の敷地を通らないではどこへも行けないと言われたほどの土地が残され、事実、道路を引くにも橋を架けるにも、学校や病院を建てるにも、鉄道や駅を造るのにもすべてこの家の敷地を提供しなければならないほどだった。母屋の隣には大きな蔵が2棟あってそれが裕福さの象徴だった。しかし生家とは異なり家長制度が色濃く、かなり苦労したらしい。(というかそれまでの暮らしぶりが恵まれ過ぎていたんじゃないかと思うが)
祖母は二男二女を産んだ(僕の母は末娘)。ザ・家長制度の家柄らしく、家長と長男以外は使用人と同じ、一段下がった土間でご飯を食べていたそうだ。極めつけは、曾祖父が百姓の嫁に教師は要らぬと勝手に辞表を出して辞めさせてしまった。家長はほぼお殿様である。(現に長男(僕の叔父)は僕が知る限り生まれてから仕事など一切したことがないがかなり良い暮らしぶりだった)
母がまだ小学生になるかならないかの年齢の時に祖父が他界してしまった。たぶん30代後半だったのではないかと思う。(一度肖像画を見たことがあるがそこまで若い印象はなかった)病気だったようだが、とにかく病院に行きたがらず亡くなったとしか聞いたことがない。
祖母は夫を亡くし、程なくして4人の子供を置いて家を出た。彼氏ができたのだ。(蝶よ花よと自由奔放に育ったお嬢が家長制度バリバリの家で如何に苦しみ、そこから解放されたのかということが察せられる出来事だが、残された子供たちは気の毒だ。)彼氏(というか僕の祖父)は地元ではちょっとした有名なワルだったようだ(これもマンガみたいに分かりやすい)。自分の中の祖母は酒こそ飲まなかったが、ギャンブル好きでよく煙草を吸っていた。煙草は40を過ぎてから吸い始めたそうだから、これも分かりやすい。パチンコで勝つとよくサクマドロップやぺろてぃチョコレートをくれるのだが、パチンコで勝ったの?と訊くとパチンコはしないと必ず嘘をつくのが可笑しかった。
数年して本家に長男だけを残して次男と二女を引き取った。(長男独りが莫大な財産を相続したもんだからそれがずっと遺恨となって残った)やがて子供たちは成人し、祖母は次男家族と一緒に暮らすことになった。祖父と祖母、叔父と叔母、従妹が3人の7人家族だった。(そして僕はよくそこにいる招かざる客人だった)
両親は僕が生まれる以前から関係が決定的に破綻していたようだ。母は子供が生まれれば父が戻ってくると期待して僕を産んだようだが、出産後すぐに離婚、乳幼児保育所に預けられた。出産直後から祖母に預けられていたせいで母にはまったく懐かなかった。
祖母がよく言っていた。
「保育園に預ける初日に保育園に連れて行き、保母さんに預けようとしたら泣いて泣いて泣いて私から離れようとしなくて、ようやく引き離して預けたんだけど、夕方迎えに行ったらまだずっと泣いてた。保母さんが言うにはずっと泣き続けてたって。それがおばあちゃんの顔を見たとたんにすっと泣き止んだんだよ」って。
母は離婚して間もなく彼氏ができた。そして小学校に上がるタイミングで再婚した。結婚式の時にたった独り祖母の家に残された記憶がある。薄暗い居間と廊下で独りおもちゃで遊んでいた。田舎ではコブ付きの再婚は恥ずべきことで子供は隠したかったのだろう。現に義父の母親はこの結婚に大反対だった。そして何より母親が僕を一番疎んでいた。母はよくこういった。「お前さえいなければ」と。
父と母の新婚旅行の間、祖母の家に預けられることになったが、真剣に母親が戻ってこないことを祈っていた。
小学2年の時に妹が生まれた。かわいい女の子で両親や義父の祖父母に溺愛された。僕もよく可愛がっていたと思う。(望まれて生まれてくるとはこういうことなのだと子供ながらになんだかなぁと思ってた)
僕は小さいころよく熱を出した。熱を出すと自宅ではなく、祖母の家に行かされた。祖母の家と自宅は学区が違うほど離れていて、小学校から祖母の家は子供の足では1時間ほど掛かる。そこを40度の熱を出した子供がとぼとぼと歩いていく。熱で朦朧として信号無視をしてしまい車に轢かれそうになったこともあった。何故そうさせられていたか当時は分からなかったが、要は妹にうつさないためだった。しかし理由はどうあれ、熱があろうが、意識が朦朧としていようが車に轢かれようが祖母に会えるのが嬉しかった。熱を出すと祖母は決まってリンゴをすりおろしてくれるのだった。
祖母は本格的な冬が訪れる直前の11月に決まって2週間湯治に出かけた。僕は土日に一泊で祖母とその旅館に泊まることができた。一年の間で祖母と2人きりで過ごせるたった一日、それが子供だった僕の人生の一番大きなイベントだった。日にちが決まると楽しみで寝られなかった。学校に行っても何をしてもそれしか考えられないほどだったが、それを母が邪魔をし、妨害してこないように大人しくしていなければならなかった。彼女は僕のほんの些細などんな幸せも面白くなかったから。
当時土曜日の午前中は学校だったので、午後に一人でバスに乗る。駅前のバス停から小さな田舎町を抜けて山の中をバスが走っていく。嬉しさで本当は飛んでいきたいくらいだった。バスが細い細い曲がりくねった道を降り切ると突如として温泉場が現れる。嬉しさで死にそうなくらいだったが、帰りのバスを想像して悲しくもなった。バスが停車すると一目散に祖母の部屋を目指して走った。旅館の玄関で靴を脱ぎ棄て階段を駆け上がり祖母の部屋の扉を開けた。
何も特別なことはない。そんなに話をするわけでもないし、お風呂に入って、ご飯を食べて、近くでゴロゴロして、お土産屋さんでプラモデルを買ってもらって、布団を敷いて隣で寝るだけ。でもそれが僕にとってどれほど特別だったことか。
隣で寝ながらおばあちゃんと一緒に暮らすってどんな毎日なんだろうかと、でもそんな日はきっと訪れはしないだろうと、子供の頃はいつも一番大切な何かを諦める、諦めなければならないということを自覚させられる毎日だった。
祖母は僕に何か指図をしたことは一度もないが、母との間に入って地獄のような母との日常から救ってくれるということもなかった。祖母は祖母で母に負い目があったのだと思うし、僕がそこまで苦しんでいるとは思っていなかったのかもしれない。助けを求めたこともないが、求めたところで困らせるだけだっただろう。しかしそれでも祖母の存在は大きかったと思う。存在してくれているだけで良かった。
祖母が亡くなる数か月前、突然封筒を渡されたことがあった。その中には祖母の写真が入っていた。そんなことをする人ではないのでお別れが近いのだと直ぐに悟った。
亡くなったと連絡を受けたとき、公園で娘と遊んでいた。そうかそうかと芝生の上に寝そべって空を眺めていたら涙が流れた。葬式には行かないと人づてに伝えた。
公園の帰り何事もなかったように車に乗り、娘の運動会のためのカメラのレンズを買った。
普段通りに過ごし、布団に入った。眠れなかった。するとおばあちゃんの声が聞こえた。
「会いに来い、なぁ、ばあちゃんに会いに来い」
おばあちゃんに会わなければ、わざわざいなくなってしまったことを確認しなければ認めなければこれまでの日常と何も変わらないだろうと、そう思っただけのことだった。
翌日朝一番の新幹線に乗った。おばあちゃんの最初で最後のお願いだからね。
そういえば葬儀で誰もが知る大物国会議員から弔電が届いていた。
葬式で初めて弟がいることを知った。
NYで刺されて日本で再入院した時、母妹はおろか誰も見舞いには来てくれなかったが何故か祖母の兄が来てくれた。小学生の時に一度会ったっきりだったから名乗られるまで誰かは分からなかったけど。
祖母が料理している姿も見たことない。作ってもらったのはすりおろしりんごだけ。料理?ではないよね。