【ゲルト追悼特集③】引退後のアルコール依存症との戦い、もう一人のミュラーへの期待
—— 以下、翻訳 (ドイツ『ビルト』紙の記事全文)
ドルトムントで行われたスーパーカップの試合前に、ロベルト・レヴァンドフスキ(32)が掲げたのは、ブンデスリーガ王者となった1969年のゲルト・ミュラー(享年75歳)のオリジナルユニフォーム。この日のために、特別にミュージアムから貸し出されたものだ。日曜日に、ドイツで最も偉大なストライカーがこの世を去ったのだ。
彼を傍で見てきた『ビルト』紙の記者(フリッツ・ハウチュ氏)が語る、「ドイツの爆撃機」の人生。今日は、彼の晩年について。
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1979年、ゲルト・ミュラーは悔しさのあまりブンデスリーガから逃げるように、33歳で渡米した。フロリダに本拠地を置くフォート・ローダーデール・ストライカーズで、再起を果たしたいと考えた。
初得点を奪うまで3試合かかるなど、序盤こそ苦労したものの、リーグ戦25試合で19得点と再び得点を重ね、「シーズン最優秀ストライカー」に選ばれた。
その翌年には14得点をマークする。そして、ローダーデールは、フランツ・ベッケンバウアーを擁するニューヨーク・コスモスとの決勝戦に進出した。
しかし、フランツ相手に、ミュラーは試合開始40分に負傷し、ストライカーズは0-3で敗れてしまった。
ゲルトの凋落は1981年にピークを迎える。ドイツ人のクラウツン監督は「彼は完全にレギュラーの座を失った!」と語ったのだ。
ストライカーズがミネソタに拠点を移した。ゲルトとウッシーのミュラー夫妻は、太陽が降り注ぐフロリダ州に滞在するが、その影は長くなっていく...
2人が出資しているステーキハウス「ジ・アンブリー」では、ゲルトが一番のお客となり、ウィスキーコーラが一番の友達になっていく。
数年間は北米のチームでプレーを続けた後、1984年にミュンヘンに戻った。その後、アルコール漬けの暗黒時代が続く。こうした状況に歯止めをかけたのは、1991年のことである。意思の強い妻ウッシーさんと、バイエルンのサポートによるものだ。
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毎週水曜日の朝9時になると、ミュンヘンのスポーツ記者たちが十数人集まり、グリュンヴァルト体育専門学校で室内サッカーをしていた。1973年からは、『ビルト』紙のスポーツ編集部で19歳の研修生だった筆者もプレーすることが許された。ロッカールームでスパイクの紐を締めていたら、ドアが開いて「一緒にプレーしてもいいかい?」と声をかけられた。
目を疑った。そう申し出たのは、なんとゲルト・ミュラーだったのだ。前年の欧州選手権でゴールを決め、ドイツを優勝に導いた、あのゲルト・ミュラーである。
この些細なシーンが、ゲルトについて物語ることは:
► スーパースターであっても、謙虚で、礼儀正しくプレーの許可を求める男であること
► 彼の人生はボールを中心に回っていた。そうでなければ、バイエルンのプロ選手、そして西ドイツ代表選手としてプロの世界でサッカーをしてきた彼が、我々 "素人たち" と一緒にプレーしたいと思うはずがない。おそらくこれは、ゲルトがキャリア晩年に、深刻な意味の喪失に陥り、アルコールに溺れたことの説明にも繋がるのではないかとさえ思う。
残念ながら、彼には引退後サッカーをやめたらどうするのか、何の選択肢もなかった。どこかのチームで監督として働くことも、彼の考えにはなかった。
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幸運なことに、彼にはFCバイエルンの元チームメイトがいた。彼がアルコールから離れられるように、過酷なリハビリプログラムが行われた。その後、クラブのアマチュアチームを率いる、ヘルマン・ゲルラント監督のアシスタントコーチとして、「セカンドチーム」のコーチングスタッフの中で貴重な存在となった。
バイエルンのフランツ・ベッケンバウアー会長は会議で、アマチュアチームの監督にゲルト・ミュラーの評価を尋ねた。その答えは、"カイザー" に衝撃を与えた。ベッケンバウアーは、決心した。「ゲルトはすぐに倍増だ。これまでのFCバイエルンの世界的地位は、彼のおかげなんだ」。
これはわずかな報酬ではなく、ゲルトに見合った金額だった。
バスティアン・シュヴァインシュタイガー、クリスティアン・ツィーゲ、ディディ・ハマン、マルクス・バッベルなど、後に活躍する数多くの若いタレントたちに彼はヒントを与えたのだった。
ゲルト・ミュラーはサッカーのことなら何でも知っていた。理論と実践、どちらもだ。彼が選手の将来性を見極めるのに、45分もあれば十分だった。多くの専門家たちが彼にアドバイスを求めた。アドバイスにあまり耳を貸さないことで有名なルイ・ファン・ハール監督(当時)ですら、ゲルトと話した後、当時アマチュアチームにいたトーマス・ミュラーをトップチームに召集したのだ。
ゲルトは、トーマス・ミュラーのブンデスリーガデビュー前に、私にこう言っていた。「ピッチ上で問題があるときは、トーマスを投入しろ。あの子はうまくやってくれるはずだ。偉大なキャリアを持つ選手になるだろう!」まさに彼の発言通りとなった!
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リハビリに成功した後、ゲルトは一生アルコールに手を出さないと誓った。彼が初めて認知症で職務を離れた際、依存症が再発したのではと言う人も少なからずいたが。だが、彼の意志は間違いなく固かったのだ。
一緒にテニスをした際、試合後、ゲルトに気を遣ってミネラルウォーター1杯しか注文しなかった時のことを覚えている。ゲルトは笑いながら、私に「どうぞ、ビールを注文してくれよ。横取りして飲んだりしないからさ。」
ゲルトの60歳の誕生日に、同僚の記者ヘルベルト・ユンクと私は、ゲルトにロングインタビューを行い、ドイツの爆撃機とその妻をディナーに招待した。ヘルベルトはあらかじめウッシー・ミュラーに、酒の席でどう振る舞えばいいかを聞いていた。ウッシーの答えはこうだ。「まったく普通でいいわ。ゲルトもワインを注いでくれるの。彼はコーラを飲んでいるけどね」
ゲルトは、一滴でも飲めば依存症が再発してしまうことを知っていた。フランツ・ベッケンバウアーは当時、「アルコール依存症患者のうち、禁断症状から抜け出せた人は1%しかいない。ゲルトがそれを実現できたのは素晴らしいことだ。」
ゲルトは、(サッカーの話題を除き)口数はかなり少なかった。だが、彼は決して包み隠して話すこともなかった。彼の場合は「オレたちがマイスターを獲るぞ!」であり、「マイスターにになりたい」とは言わなかった。欧州カップ戦の次の試合の予想スコアを聞かれると、彼は「そうだね、...」のような無駄な言葉はなく、「オレたちが勝つ。6-0と書いといてくれ!」と明確に答えた。
しかし、後に、認知症という厄介な病気にかかる。今から12年ほど前に診断された。最後に彼と面会したのは、5年ほど前だった。私は妻と一緒に養護施設を訪れた。バルコニー付きの素敵な部屋で、ゲルトはテレビの前に座っていた。
妻は彼にバナナの皮を剥いてあげた。テレビで料理番組が始まると、彼は「うっ、悪魔だ!」と憤慨しだしたので、彼のためにF1のトレーニングにチャンネルを替えた。体力的にはまだまだ元気だった。しかし、彼が私のことをきちんと認識しているかどうかは疑わしかった。私だと分かれば、彼はきっと「セルヴス、盲目さん!」と愛情ある挨拶をしてくれたはずだから。
このあだ名は、1973年に室内サッカーの試合で「授かった」ものだ。この試合、同僚がゲルトを特別にマークしてくれていたが、私の「サッカー人生」で最も恐ろしい30分間を経験した。
私は全力を尽くしたものの、一対一ではほとんど負けてしまった。その結果、私たちのボックス内で12回もミュラー弾が炸裂した。私は息を切らしていたが、ゲルトは試合後、にやにや笑いこう言った。「ありがとう、盲目さん!」
今日は一言だけ、こう返答したい。「ありがとう、ゲルト、何もかも!」