ポドルスキの語る「自身のキャリア、ケルンやドイツ代表への思い、ケバブ屋を始めた理由」
—— 以下、翻訳 (インタビュー記事全文)
ルーカス・ポドルスキは、かつてドイツ代表やケルンでプレーした選手だ。今回のインタビューでは、ピッチ内外でのキャリアや、家族の中で大切にしていることなどを語ってくれた。
ポドルスキさん、あなたのキャリアの中で、どれほどの頻度で、新たな発見がありましたか?
ルーカス・ポドルスキ:自分自身、常に新たな発見があるよ。ポジティブなこともネガティブなことも含めて、毎日新たなことを学んでいるんだ。日常生活や家庭の中、ピッチの上やピッチの外でもね。
1.FCケルン、バイエルン・ミュンヘン、アーセナル、ガラタサライ、ヴィッセル神戸、そして最近ではアンタルヤスポルでプレーしましたね。これらは、常に新しいことに挑戦し続ける覚悟がなければできません......。
そうだね。僕のように国外移籍をする場合は、特にね。異文化に適応するためには、常にオープンな姿勢が必要だ。それは簡単なことではなく、時には、ちょっとしたことを克服する必要がある。しかし、こうした新たな経験がないと、人生はすぐに退屈になってしまうのではないだろうか。僕は、これまでのキャリアで一度も後悔したことはないよ。
長い間、プロサッカー選手として成功するために必要な、特別な秘訣はありますか?
僕は、他の人のレシピを真似たことはない。誰もが自分なりのやり方を見つけなければならないんだ。僕の場合、ピッチ内外の新たな環境や監督、新しいチームに素早く適応しなければならないというのは常にあったね。
本物を追求する姿勢や、一貫性を保つことは、どれほど重要でしょうか?
それはまさに、これまで僕がずっと心がけてきたことだ。とはいえ、もちろん柔軟に対応しなければならない場面もある。監督は、ピッチ上で自分とは異なる視点で僕を見ている。それを受け入れることは大事だが、気にしすぎは良くないね。
先ほど、現役を続けたいとおっしゃっていましたが、その理由は何でしょうか?もう次の移籍先は決まっていますか?
いくつかの考えはあるが、今後の話し合いの進展次第だね。だが、何かを決断するには時期尚早だ。まだ前所属のアンタルヤスポルで、シーズンを終えたばかりなんだ。これから、家族と一緒に休暇を過ごすよ。
最近では、アメリカのメジャーリーグサッカーから関心が寄せられるという噂もありますね。
いくつかのクラブと常に連絡を取り合っている。最終的には、全体のイメージが合っているかどうかが重要だ。街やクラブ、そして理念がね。僕はもう36歳だから、絶対的なトップクラブに再挑戦できるとは思ってない。
僕にとって大事なのは、あと1~2年は現役を続けること、楽しむこと、そして素敵な街で暮らすことさ。
あなたは1985年にポーランドのグリヴィツェで生まれ、1987年にベルクハイムに移住しましたね。子供時代の記憶はどこまで遡って覚えていますか?
とても遠い昔の話だね。最初の記憶は、ベルクハイムだ。そこで僕は、サッカー選手としての第一歩を踏み出すことができたんだ。最初の頃、僕ら4人家族は、1つ半の部屋で暮らしていたこともあり、簡単ではなかった。このような質素な環境で育った人には、きっと何かが芽生えるのだろう。
子供時代、大きな影響を受けた出来事はありましたか?
今振り返って考えると、8歳から13歳の頃だと思う。他の子たちとグラウンドで、夜になるまで6人制の試合をしていたね。当時は、携帯電話もインスタグラムもなく、大騒ぎもせずに、ただ外で夢中になって遊んでいたよ。
お隣の家のサクランボをちょっとくすねたこともあったね。こうした経験ができたのは良かったと思う。また、家族の団結力もあった。僕たちは小さなことから始め、懸命に努力を重ねて、多くのことを成し遂げたんだ。
2003年、ユース時代に所属していた1.FCケルンで、あなたはプロとしてのキャリアをスタートさせました。プロの世界に足を踏み入れた当時のことを、今でも何か覚えていますか?
当時、ただひたむきに挑戦していた。僕はポーランド出身の労働者階級の子供であり、トレーニングでは決して妥協しなかった。僕は、自分にこう言い聞かせてきた。「ようやく今、ここまで来た。練習あるのみ」。もちろん、運も必要だし、監督のバックアップも必要だ。僕の場合、それが恵まれていたんだ。その後のステップは、ご存知の通りさ。
エフツェー(1.FCケルンの愛称)で現役生活を終えることが、今でもあなたの夢でしょうか?それとも、この夢はもう消えましたか?
ここ数年、僕の移籍に反対する人たちが常にいた。僕は何が何でもそれを押し通したいとは思っていなかったし、現実を受け入れることもできた。たとえそれが頓挫したとしても、自分自身の世界観が崩れるようなことはない。現在のトップが誰であれ、エフツェーは永遠に僕のクラブなんだ。とはいえ、近年は、僕がスパイクを履き替えるのと同じくらいの速さで人が移り変わっているね(笑)。
2014年にワールドカップで優勝したのと、2004年に1.FCケルンでブンデスリーガに再昇格したのとでは、どちらがあなたにとって重要ですか?
グラッドバッハとのダービーマッチで決めた初ゴールについては触れていないが、これが僕にとって最も重要な出来事さ。まあ、真面目な話、「あなたにとってキャリアで最高の瞬間は」という質問はよくされる。ただ、正直、僕にはないんだ。2003年から今日までのキャリアを通して、全体的にかなり満足しているよ。さまざまな街で経験した、勝利や敗北、ゴールやアシストなど、これらすべてが僕の一部であり、今の僕を突き動かしている。
あなたが有名になったのは、夢のような夏となった2006年のドイツ・ワールドカップでした。ポルディとシュバイニは国民的英雄となりましたね。当時を振り返ってみていかがですか?
母国開催のワールドカップは素晴らしいものだった。その一部になれたことを嬉しく思うよ。
まだポルディと呼ばれていても、いいですか?当時の相棒、バスティアン・シュバインシュタイガーは以前、もうシュバイニと呼ばれたくないと語っていました。
僕は成長した。だが、気にしないよ。いつも人にはこう言っているんだ。ルーカス、ポルディ、ポドルスキさん。好きに呼んでくれて構わない、とね。
2006年のワールドカップでは、あなたのキャリアに影響を与えかねない決定的な瞬間がありました。準々決勝のアルゼンチン戦でのPK戦です。あなたはその一つを蹴り、見事に決めました。センターサークルからペナルティスポットに着くまでの間、何を考えていましたか?
何を考えていたかは覚えていないよ。おそらく、それほど多くのことは頭になかったと思う。そこに行き、蹴る方向を選ぶ。そして、ゴールを決めた。緊張もなかったね。ベルリンのスタジアムには8万人の観客がいた。それは、特別なモチベーションに繋がったが、それでプレッシャーが増えることはなかった。この感覚が好きだ。ボールが足から離れ、ゴールに入ったとわかった瞬間は最高さ。
代表引退は、つらい終止符や、人生のターニングポイントとなりましたか?
いや、なぜそう思うんだ?まず引退までに代表130キャップだ。ワールドカップ優勝に、代表49ゴール。僕はキャリアの中で、一度も道を踏み外したと思ったことはないよ。
ご家庭でサッカーはどれほど大切ですか?サッカーのあれこれは、ロッカールームに置いて帰ることができますか?
僕は、試合が終わったからといって、帰宅後すぐにスイッチを切れる人間ではないんだ。もっとうまくやれたんじゃないかと考えてしまうね。サッカーは、日常生活や家族の中でもよく話題に上る。それは確かだ。そんな生活が変わるのは、僕が現役を終えてからだろうね(笑)。
お二人の子供を育てる上で、ご夫婦が特に大切にされていることは何ですか?
僕たちはごく普通で、特に厳しくはなく、どちらかというとあまり縛り付けるようなことはしないね。僕も昔は子供だったので、子供たちの気持ちがよくわかるんだ(笑)。自分の子供にも、自分のようにのびのびと育ってほしい。もちろん、ルールはある。親切であること、掃除をすること、分別のある食事を摂ること。とはいえ、米と野菜だけを食べているわけではないよ。子供時代は一度きりだからね。
コロナの危機や、気候変動の危機...。子どもたちが育つ今の世界は、急速に変化しています。一番大切な人たちの将来を考えたとき、最も気がかりなことは何でしょうか?
10年後、15年後、世界がどうなっているかわからない。僕たちは今ここに生き、子供たちが元気に暮らせるように、すべての問題を解決するために少しでも努力しなければならないね。だが、パニックに陥る必要はない。今の僕には、あまりピンとこない話だ。
また、事業家としてのルーカス・ポドルスキさんについても、お話を伺いたいと思います。ケルンのベルギー人街にあるアイスクリーム店「アイスクリーム・ユナイテッド」、旧市街にある「ブラウハウス・ツム・プリンツェン」を経営しているほか、ケバブ・バー「マンゲル・ドネル」を数カ所で展開していますね。なぜアイスクリームとドネルケバブなのでしょうか?
自分に合うからさ。ケバブとの付き合いは長く、若い頃や、旧ミュンガースドルファー・シュタディオン(現:ラインエネルギー・シュタディオン)で食べるのが楽しみだった。アイスクリームも、みんなが大好きだ!自分に合うもの、自分も楽しめるものという観点で選んでいるよ。
あなたにとって「お金」や「収益を上げること」は、どれほど重要ですか?実際、引退したら、こうした人生に大切なものに取り組むことだってできますね。
会社を0から100まで大きくするのはとても楽しいよ。ただ誰かに任せるのではなく、自分で何かやったりコミットすることが必要なんだ。僕はピッチ上と同じく、全力で走るよ。そしてもちろん、それによってお金を稼ぎたい。サッカーであれ、ケバブ屋であれ、経営として成功するビジネスを行うんだ。大切なのは、品質が優れ、人々に受け入れられる商品を作ることだ。
ルーカス・ポドルスキ財団は、恵まれない子供たちや若者のためのスポーツや教育プロジェクトを支援していますね。そのやりがいは何でしょうか?
昔も今も、僕にとって子供たちは大切な存在なんだ。この財団のおかげで、僕たちは多くのプロジェクトやパートナーシップを始めることができた。また、児童支援財団「アルヒェ」と共同で、僕はケルンとポーランドの支援施設を担当している。また、近年多額の寄付をいただいている支援団体「ラインフランケ」と連携した取り組みも行っている。人々に何かを還元し、子供たちが笑顔を取り戻してくれるのを見ると、僕の心は満たされるよ。
子供たちとの社会活動で経験した、重要な瞬間や重要なシーンはありますか?
僕が最初に触れたのは、親の離婚や、片親を失ったことで、これまで通りの生活ができなくなった子供たちをケアし、支援を行う「アルヒェ」という財団だった。この経験から、自分たちの財団を作ることになったんだ。
ケルンでは、車いすバスケットボールの選手から、自動投球の器具がないために練習ができないという相談を受けた。そこで僕は、「わかった、手伝うよ」と伝えた。子供たちや若い人たちが喜んでいるのを見ると、それだけで素晴らしいことに感じるんだ。
ケルンでは、ボックレミュント地区やグレンベルクホーフェン地区などにあるサッカー場が特に目立ちます。これらは、サッカーをするためだけでなく、近所の人たちが集う場所でもありますね。
その通り。それこそがこのプロジェクトを始めた理由なんだ。近所の子どもたちにとって、これらは交流の場であり、地元の教育スタッフやストリートワーカーたちが、あらゆる状況下の生活支援を行っている。
ケルンから離れて暮らし、エフツェー以外で最も恋しいことは何ですか?
恋しいことはないさ。その気になれば、いつだってここに帰ってこられる。僕はここに自宅を持ち、僕のホームであり、ケルンを知り尽くしているんだ。これからもずっと僕の街だよ。ここで家族と一緒に年を重ねていきたいと考えている。