絶対的個体が、相対論に拘束され、本来排他的であるはずの絶対的性質をも変動させてしまうことは、この上なく不条理である。(相対論のパラドックス) 相対論は、混沌とした自然現象としての世界に、「区分」をつくって認知するフレームである。しかしこの柵は、ともすれば絶対的個体の性質を直接的な影響を及ぼしてしまう。個々の絶対的個体が変容すれば、絶対的個体を対象とする相対論の枠組みも当然変動する。
一般に生物は、自らの遺伝子を後世に継承しようとする本能が備わっている。残せない主体の遺伝子は、その主体の世代で「淘汰」される。人間もそうである。 確率的に、遺伝子の継承をするという本能が備わっていない個体も存在する。そうした個体の遺伝子は、ただ淘汰されるだけである。出生を否定する派が存在するが、人類という構造装置から、一定比率で生み出されうると考えて妥当である。生物的な観点に立てば、少数派であるが異常事態ではない。
人々は、信仰によって人格を保っている。 信仰対象は、一般に宗教的な意味の神に限らない。主体は、主体の信念や行為が、いつか意義ある報いを受けることができるという仮説を立て、それを信じることで生を進めている。概念的に、それが信仰である。 学に志す態度も、社会的成功を動機とする努力、外見、内面の研鑽も、信仰なしには成立しない。 特に、ポストモダン資本主義社会において、精神の保持と信仰は分断不可能である。
生物には、ア・プリオリに悉無律が設計されている。無反応であれば0、反応すれば1の二分法である。 一般に言われる「センス」も、選好を判断する悉無律の単位の集合体によって成立している。 悉無律のシステムは、ア・プリオリ要因とア・ポステリオリ要因のいずれもを内包している。 ア・ポステリオリ要因の悉無律は、外的要因によって変化する。可塑性次第で、主体の外的環境の普遍妥当性の程度によって、センスの確からしさは変動する。 主体という項の可塑性(外的要因による変化の変域)は、前項の
現象として成立していることは全て必然である。でなければヌーメノンである。 偶然というのは、必然の解像度が低いという認知状態である。 一般に語られる運命や奇跡は、事態または事実への恣意的な意味付けである。
インプット内容は、主体の思惟の方向に合致している必要がある。 まず思惟の内容があり、不明瞭な点を外的要素からのインプットで埋め合わせて、解像度を上げる。 そして思惟を続ける。それが、インプットの存在意義である。
メタ認知による脱コンテクスト化は、特定のコンテクスト内での価値を無意味化する。 「虚無」には「実存」という対義語があるため、必然的に絶対値を持つが、メタ認知の次数を上げていくと、高低、絶対値なき「空」へと到達する。基準なきところに評価は無くなる。あるのは単一性のみである。
美を志す姿勢は二分される。 1.連続的美意識(合目的美意識)一方は、連続的に美しくあるということを志向する姿勢である。美しさが断続されていることそれ自体に価値があると考える。 「美しくあり続けるための美意識」と換言することも可能である。 例示すれば、自己自身に向けられた美意識により生まれ、日々研鑽を行うような美意識である。 2.定点の美意識(目的的美意識)他方は、美しい定点の獲得を志す姿勢である。時間軸に区切りを付け、その点にフォーカスした美しさを志向し、一般に各点は
一般に言われる炎上とは、多くは、対象への感情が外部にそのまま表出し、SNSのツイートなどで波紋のように広がっていく。 発端は、オブジェクトや現象に対する感情反応なのである。
生きる上で、現象から抽象的エッセンスを抽出し、形成された式を演繹する。演繹的な意思決定と行動から生まれた結果を帰納することにより、結果は式に包摂され、式の演繹機能はより高まる。畢竟するに、学習するとはそのような構造の営為である。
諸シニフィエは、主体の知覚能力に依存する。対象が固有名詞に近づくほどに外延的な定義に、一方で一般的になるほど内包的になる。当然、程度の遷移はシームレスである。 つまり、対象の定量や性質などの外的要因によって、シニフィエ、シニフィアンは変動する。外圧的ダイナミズムは時に、外延と内包の混乱を招く。
1.文化文化は、歪みから歪みへと鎖のように構築される。広く膾炙されると、一定の普遍性を持つ。陳腐化すると、生物のように自然淘汰される。 2.静と動普遍的な文化はスタティックな硬質さがあり、逆にそうでないものは動的である。
完全に解読可能な閉鎖コミュニケーションは、人間において存在しない。一方で解釈的比重が高まるにつれ、意味の一貫性を保持するのは困難となる。そのため、多くはその二項の中で程度を持つ。