共通認識について。

共通認識について現時点での見解を書いていきます。

共通認識とは

お互いが同じモノだと認知している状態。
自身の主観と、相手の主観が一致している状態でこの場合客観は介入しない。
抽象的に言えば、同じ意見、同じ考え。だと分かりやすい。
似た分類でイデア論がある。(自信の想像上の認知が同一であれば〜のイデアという状態、考え方から違うので面白いです、いつか機会があればまとめます。)

一般常識

一般常識という極めて難しい分類がある。
例えば、ピースサインをするのは写真をとる時の数年前の流行、若者が多くやるものだった。日本ではピースサインは真っ当で発祥の理由も考える必要は無いが、海外だと危険な合図(ギリシャではくたばれ、等)となる。
これが常識による認知/解釈の違いである。

例えば、日本でのみ生きてきた健常な人間と、ギリシャでのみ生きてきた健常な人間が鉢合わせて何かの拍子にピースサインで写真を撮ることになったとすれば、印象が変わるであろう。

認知の差 解像度の違い/視座の発生

どちらの国の背景も理解した人間がその様子を見るのとでは行動への理解が全く違う。
この事から一般常識や共通認識とは主観としての知識に置ける解像度により受け取る選択肢が変わるという事を指す。(ここで知識や衝撃(自身のドクサ(考えや臆見)の変化)によって変わる解像度/視座の多面化が行われている。)

共通認識の乖離による同言語間でのコミュニケーションの不自由

たまに聞くことがあるであろう、あの人は会話ができないなど、または主観としてコイツとは話が合わない、出来ない、頭が悪い(主観)という認知の根源のパターンとして共通認識の乖離による並行ベクトルでの回答の不一致が有る。

解釈(回答)の不一致


Aくんの話題
俺はやっと買ったんだよ、長かった…

Bくんの受け取り方
ああ、やっと勝ったんだ、おめでとう。
Cくんの受け取り方
ああ、やっと飼えたんだ、よかったね。
Dくんの受け取り方
ああ、やっと買えたんだ、お疲れ様。

極端な例だけど分かりやすく言えばコレ。
主語がない、術後が無いなど誤差が生じたまま上手く噛み合って認知のズレにより解釈の不一致が起きる。
なぜ会話が成り立つのかと言えばこの場合、

[何を] という主語が無いため解釈の不一致が最初から生まれる
[やっと] という形容詞があるため労力がかかったことが伝わる
[かえた] という動詞が主語の欠如によりAの背景を考慮しなければ認識として 買う 勝つ 飼う が変数となる。

ことにより不一致が起きる。
簡単に言えば情報量を正確に文法を正しく伝えることで、受け取り手の熱量と知識にもよるが不一致を防ぐことも出来る。
後述の通り、相手の振る舞いやドクサの構造次第で受け取る情報量の限界がある。

IQが違う人間とは会話ができないと言われる所以は、前提として話す内容(つまり知識量)の際限の差により会話が成り立たない場合があることを指すのであろう。
また、自分が気持ちよく話せている時は相手が賢いから、という場合は、意見性の乖離が起きても主観として相手が成就させていることや文法の不足を背景の考慮と文法自体への変数を設置することで不一致を防いでいるから。

不一致を防ぐための手段 文法においての変数の設置

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?