スイッチになった3つの意識改革
僕は元々、人を傷つけないコミュニケーションをしてきた。
子供の頃、引越しの多かった僕は、
いつも新しい場所で、新しい人との出会うたびに、
とにかくニコニコしてきた。
いきなり嫌われたくなかったから。
自分を主張せず、目立たず、そこにいても邪魔にならないようにしていた。
できあがった差し障りのない僕という人格は、誰にも嫌われなかった。
でも、誰にとっても大事な人にはなれなかった。
それでも、それでいいんだと思っていた。
上にもいかず、下にもいかない。
平均を走り続けていれば、
日常に争い事はなく、円満だったからだ。
スイッチ1:大学で出会った面倒な人
円満だと思っていた人格は、和光大学に進学して壊れた。
差し障りのない人格がキープできなかった。
入学して僕の前に突然現れた人。
今まで聞いたこともないノイズミュージックを僕に聞かせて、
「これ、いいでしょ?」と話しかけてきた。
そして、ジロジロと僕をみた。
「なんか、この人めんどくさいな。。」
僕はそう思って、少し遠ざけた。
でも、その面倒な人はそれからいつも話しかけてきた。
僕はなんとなく話を合わせながら、その場をしのいできた。
ある日、その人が核心をついた。
「なんかしんちゃんってスクリーンの向こう側にいるみたいで、全然近くないんだよねー。俺さー、そういうの丸裸にしたくなるんだよね。その中にどんなカオスがつまってんのかなーって。」
「しんちゃん、このままだと本当の仲間とか見つけられないよ。俺が変えてやるよ。」と。
なんて厚かましい奴なんだ!
と思いつつ、ショッキングな言葉を受けて、
僕はこれまでの自分を振り返った。
僕には親友といえる人はいたか?
周りには僕を大切だと思う人はいたか?
この時、初めて存在価値というものと向き合った気がする。
僕は本当はどんな人間でありたかったのか?
そうして、大学を見渡した時、
その風潮は大学全体にもあることに気づいた。
自分を主張しないやつに価値はない。
個性=魅力なんだ。
それから、僕は怖がりながらも自分を主張するようになった。
(最初は全然できなかったけど。。)
良いも悪いも、好きも嫌いも、とにかく周りに共有していった。
自分はどんな哲学を持ち、どんな存在価値を作りたいのか。
自分探しは、一人の面倒な人との出会いから始まった。
スイッチ2:ハードワークで沸点を超える
大学卒業後、イベント制作会社に入社した。
(正確には、半年間は日給5000円のインターン生)
今思えばとにかくハードワークだった。
時間も関係なく、休みもなかった。
何も知らない僕は、会社で働くってこういうもんなんだと思っていた。
そんな日々を続けて、1年半くらいした頃。
少しずつ苦しくなってきた。
毎日何を積み上げているのかよくわからなくなっていたんだと思う。
不毛な気分になって辞めたいと思うようになっていた。
そしてある時その辞めたいという思いが沸点を超えた。
辞めたい。
辞めたい。。
んー、自分で辞めるって言うのも面倒だから、
どうぜならやりたい放題やってクビになってしまえ!
辞めたい → やりたい放題やる
沸点を超えてネガな気持ちがオーバーヒートして、攻撃力に変化。
これより先、企画も制作も、触れるものすべてに自分のやりたいことを言うようになった。意見が通らないことも、言い負けることもあったけど、クビになってもいいんだからと考えれば、頭おかしいと思われてでも、主張し続けることができた。
そんなことを続けていると、それが段々と周りに伝わっていき、やたら調子のいい若者としていろんな企画・プロジェクトに呼ばれるようになっていった。
あれ?なんか楽しい。
なんかもっと自分の考えとかアイデアをブラッシュしたい。
自分のスタイルでやっていける自信と、もっと高みを目指したいという気持ちが生まれ、知識も考え方もどんどんアップデートされていった。
まさに、ノリにノっていた。
イベントという仕事は、犠牲を払わないと成立しない仕事。
それを誰がやるのか?誰かできるのか?
つまらないものに関わりたくない。なら自分がやるしかいない。
しょうがないから体力の限界までやる。
成し遂げたときの麻薬のような達成感。
「頑張ったね!お疲れ!ありがとう!」と称賛される喜び。
この仕事、天職なんだとも思った。
でも、そんな状況に少しずつ飽きていった。
どのタイミングからか、知識も考え方もアップデートされず固まり、
最初の攻撃力は薄れ、ルーティン化していき、飽和していたんだと思う。
そして、イベント制作会社を辞めた。
新しい刺激を求めて。
井の中の蛙を痛感する日々
ミュージッククリップを作る映像会社。
ファッション系のPR会社。
玩具メーカーの人事部。
いろんな職を転々とした。
どこへいってもやりがいなく、
そして、手に入れたと思っていたノウハウは通用しなかった。
職を失った僕は、身銭を稼ぐために、
いくつかのイベント制作会社で企画書を書いていた。
でも、報酬は少なく、東京で暮らしていくには足りなかった。
そんな時に、お世話になっていた代理店の方から久しぶりに連絡が来た。
「今、お前何やってんだ?」
「フリーでプランニングをしてるんですが、食べていけないので実家に帰ろうかと思っています。」
「そんなんで家に戻って親がうれしいと思うか?拾ってやるから俺の所に来い。」
情けない気持ちでいっぱいだったけど、最後のチャンスだと思って、
その人のいる広告代理店に身を寄せることにした。
スイッチ3:壁の向こう側の世界を見る
僕はイベントの企画制作で生きてきたから、
イベントという枠の中で、何ができるか考えてきた。
イベントの中での新しいやり口を出し続けて、飽和していた。
広告代理店に来て、それが薄いやり方だったことに気づいた。
アイデアは、情報のアンテナを張り巡らせていれば手に入る。
大事なのは、
・何をどうするために、プロモーションを行うのかという目的
・外部に相談しないと成立しない理由(課題)
つまり、計画するための前提条件だ。
これまでイベントの企画をしていた時も、前提条件はあった。
でもそれはイベント実施から逆算された前提条件だった。
(去年はこうだったので、今年はこうしようとか、、)
人とお金を動かすための根源的な理由にアプローチしないと、
説得力のある計画を築くことはできない。
僕の作ってきた企画は、
上辺の手法をメニューのように提案していただけだった。
広告代理店で精度の高い計画を構築できる人たちと出会い、
壁の向こう側には何があるのかを見ることができた。
この体験は僕にとって大きかった。
そもそも僕は企画を極めたとは思っていなかった。
自分のやり方では頭打ちだと思っていた。
広告代理店は、ただのアイデアマンからプランナーへの
マインドシフトのきっかけをくれた。
そしてこの考え方は、元々整理好きの自分にはしっくりきた。
それからは、思考整理から行動分析、手法という流れで
設計していけるようになり、発想もさらに豊になったし、
前提条件を作ることができるから、
他の人にもアイデアをもらうことができるようになった。
そして今、僕のプランニングの領域は
イベントプロモーションだけでなく、
事業計画やブランディング構築まで拡がっている。
大学時代の僕はどんな人になりたかったのだろう。
漠然としたイメージはあっても具体的ではなかったのかもしれない。
あの頃の僕は、今の姿を見てどう思うだろうか?
想像できなかったかもしれないけど、案外うまくやれてるんじゃないかな。
これから未来に向けて、新たなキャリア形成を目指していきたい。
新しい刺激も新しい挑戦もまだまだ諦めない。