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殺伐

どうもダメだ。
僕は今アパートの部屋に一人居て、読者をしている。どうもこの部屋は静かすぎるようだ。時折通り過ぎる電車の音は却って静寂を確然たるものにする。
死ぬ為に生きている気がする。それも一歩一歩ジリジリと死に近づいているような心地。これ以上良い生活に臨めないことを情けなく思う。今より上が今後訪れることを期待してはならない。今有るのが最上なのだ。僕にとってはそうなのだ。だからここまで落ち延びてきた。

引っ越しが正式に明日に決まった。部屋の整理も粗方終わったので、今日一日予定がポッカリ開いてしまった。さぁ、どうしたものか。午前中は苦心してどうにか部屋の中で潰せたが、限界を感じたので、散策でもしようかと思い外に出た。「今日一日だけでいい。」その思いが思いの外僕の足取りを軽くした。
ひとまず3㎞ほど離れた本屋へ向かおうと思った。そこへ行けば少しは時間を潰せるし、隣にはレコード屋もある。空は明るくはなかったが晴れていた。人通りが少ないせいかもしれない。
駅へ向かう道を線路沿いに歩けば途中左手に川がある。柵の傍に「鶴見川」という看板が立っており、左に折れれば川の両側に歩道が延びていて散歩をするにはおあつらえ向きだ。柵から川を覗くと水かさがなく、濁っている。お世辞にも綺麗とは言い難い。鴨が引きずるように進んでいる。魚も多少はいるようだが、よくこんなところに棲めるものだと不憫に思った。好きでいるのではなくただ他に居場所がないのかもしれない。淡水魚ではなくても綺麗な水に越したことはないだろう。人間が無造作に汚すので仕方無く棲んでいるのに違いない。それでも住めば都になる。いや、そう思わなければやっておれないのが忍びない。どんなに不恰好でも生きねばならぬ。
本屋に着いたが、結局そこには10分ほどしか居なかった。また同じ道を引き返して、さっき通った看板を今度は逆の方向に曲がり、駅に向かって歩いた。駅前の銀行を幾つか横切ったがやはり閉まっていた。銀行さえ開いていれば今からでも引っ越し作業に取りかかれるのにと残念に思った。
しばらく辺りをうろうろしていた。小田急線に乗って町田へ行こうかしばらく迷いながらなんとなく電車に乗った。
町田で降りるといつの間にか空は曇っていた。駅の周辺は休日とあって大変賑わっていた。商店街をぶらぶら歩いていると休日なのに制服姿の高校生が多数見られた。恐らくファッションなのだろう。自分の時は制服で街を歩く事が嫌でならなかったことを思い出した。
大時計のある広場のベンチで少し休もうと思い、途中煙草とあんパンをコンビニで買った。結局はここがいちばん居心地が良かった。わけもなく人ごみのなかを歩くのはたとえ暇潰しであっても苦痛でならない。ゲームセンターやパチンコなどの娯楽施設も無趣味な自分には何ら意味を為さない。ただこうしてベンチに座って煙草を燻らしながら、時折鳩が餌をつついている様子をじっと眺めているだけで十分なのだ。なんと殺伐とした光景だろう。誰かを待っているわけでも用があるわけでもない。
女性なんかにはただ雑貨屋に足を運ぶだけで楽しめる人もいるが、それをとても羨ましく思う。それに対して、何を見てもガラクタにしか見えない自分を詰まらなく思う。僕の周辺にはゴミの山で埋め尽くされている。そして、当の本人は身を持て余し憮然としている。しばらくそれが続くと虚無感に耐えきれなくなったのか、とうとうゴミ漁りを始める。あれでもない、これでもない。これはいわゆる静寂がもたらした一条の罪ではなかろうか?けれど僕の逆行、必ずしも失敗だとは思わない。今日もこうして無心でここまで歩いてきた。想像するもの以上に現実に何があるというのか。ただ街の流れと共に時計の針が動くだけのこと。他には喧騒の耳鳴りくらいだろう。遠回りの産物。真実の行く末。―――空洞。玉ねぎの芯探し。ツァラトゥストラの探求。これがごろつきの始まり。
思わせ振りだ。下らん観念論。卑屈に似ている。
けれど、これが今日一日の事実そのまま。
部屋で悶々、思念に耽るも、街をふらつきベンチに腰掛け足をブラブラさせるも一緒。ただ金払って足にタコこしらえるのみ。

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