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ペシミズム 3

向かい風のときは混乱の渦に呼吸さえできず、追い風のときには態勢を整えるのに必死でちっとも楽にならない。
それでも俺は走り続けなければならない。
幻燈のまちへ行ってみたい。
姿勢になんの負い目も持たずに居られるそのままで生きてみたいのだ。
僕が走る。鷺がにわかに飛び立つ。近くの石の上にふわりと止まる。
そのまま近づく。また同じだけ飛ぶ。なぜかそのときいつも後ろ向き。嫌われているのだろうかと思いつつもさらに走り続ける。やはりまた飛ぶ。徐々に遠ざかっていく。もう降り立つ石がない。
それでも尚近づく…。
なんだか申し訳ない気分になる。君を追っているわけではないの。
そうすると、鷺はそのまま水面を飛び越えて対岸まで行ってしまった。
話が綺麗すぎる。美しいのではなくて人工的な光景だ。所詮作り物さ。
俺は頑固だ。時代にはとても合わない。
大事な何かを失ってしまった。忘れてしまっているだけなのだとしたならどこに行けば取り戻せるのか。
ここ二~三週間は思念が擦れながら流れていった。感覚もない。俗世の人間は皆こんなふうに感じているものなのか。
モヤモヤしたモノの塊が霧のなかに紛れ込んでしまったかのようにふっと消え失せてしまう。何かに騙されたようではあるが、かといってこれといった不快感も無く、どうせ惰性で生きているのだろう。気を落ち着かせるのにタバコを吸うようなものだ。錯覚に過ぎない。いや、よそう。絶対的真理というよりも特異体質に近い。何事にも引きずられないと生きていけないという独特の気質の持ち主である父親を見ていればわかる。つまり正しく飲めば良薬になる酒であっても飲み方を間違えれば麻薬の無限奈落に迷い混む。何事にも節度を守らなければならないのだ。ともあれ悲観しても仕様がない。それでも生きねばならぬらしい。
今日も明日もおしゃぶりを吸いつつ。
一日も終わりに近づけばわけもなくクタクタになり、明日も今日のようにあるのかと思えば、明日のぶんまで憂鬱になる。その憂いは恐ろしく寸分違わず的を射ていてやがてますます実体なき憂いに確信を覚えるようになる。
もはや他人に自分を弁解する余地がこれっぽっちもないので決して憐憫を誘っているわけではないということだけ記しておこう。紛れもなく今の自分、素の自分である。
はじめのうちは苦悩のうちに生きる糧を見出だし、そのことが希望や自信を持つことに繋がっていたようにも思う。けれども、今の自分が何に苦悩しているのか、その実体を掴めず、毎日毎日同じ場所をうろうろしているだけで何一つ変化の兆しも生まれない。考えないように思い詰めないように努めれば、次第にあらゆるものに色褪せた倦怠感を感じ、情熱はめっきり冷えきってしまい、しまいには「もういいや、どうせ死ぬのだから」と今の僕にはこれが最も疑いのない処世術となってしまった。
さらに僕は自分に対してある種の諦めを感じている。両親は常々僕に“まとも”な人間になってくれたらとだけ願い、多くを求めず内政干渉もせず、ただ遠巻きから見守っている。しかし、“まともな人間”がおよそ僕のような人種のことを理解できるはずもない。
正直僕には“人間らしい生活”というものがどうしても理解できない。
両者は対極に位置するタイプの人間だと思う。右利きの者に左手で文字を書けというのに似ている。要するにできんものはできん。せめてこのような人間も在るのだと識ってもらえれたら僕は生き易いのだ。

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