傍観者
今不安を抱いている。もしかすると自分はとんでもなく危険な世界に足を踏み入れたんじゃないかと。真の幸せを求めていく以上は物事の真実を解き明かしていかないといけない。
その道は果てしなく遠いもので、それはまるで暗闇の中で迷宮の出口を探すようなものだ。
尾崎豊は先駆者だと思う。自分のように何も知らない、歩き始めたばかりの者にとても優しい存在だ。
だからと言って、先人に頼ってばかりではダメだ。幸福を掴むのは自分自身のはずなのに、先人の言葉にうっとりしてるだけでは自分も日常も何も変わりやしないんだ。先人の思いに報いるためにも、真実は自分自身の力で探し求めていかなければならないと思う。
傍観者の存在はそれにも増してタチが悪い。壁にぶち当たって苦しみもがいでいる者の姿を、さも涼しい顔をしながらまるで芸術を鑑賞しているかのように「ああだ、こうだ」と批評のようなことをしている輩がいる。イジメを取り扱った報道番組のコメンテーター なんかがまさにそうだ。弱っている人間をしたり顔でただ分析だけして何か分かったようなつもりでいるのだろうか。これでは蓄えてきた知識も教養も何の意味も為さない。思いついたことを適当な御託を並べ、高説をのたまい、不毛な議論に時間を費やすより、まず「自分に何ができるか」「何をすべきか」を考えてみたらどうなんだ。視聴者の賛同を得たいだけのマスコミのでしゃばりでいったい何が解決するというのか。
僕たち悩める者、道を求める者は決してあいつらのように道楽や金儲けで学問しているわけじゃない。人生をかけてやっているんだ。死ぬか生きるかの次元の問題なんだ。有識者の感傷の的にされるなんてたまったもんじゃない。一人ぼっちで悩み苦しんだ、切実な心の痛みを自己満足の文字や言葉の羅列なんかで言い尽くせると思ったら大間違いだ。
「義を見て為ざるは勇なきなり」
そこに問題や困難があるのを知りつつ何もしないのが最も罪深いことなんだ。